第18話
タバコも酒も断ったおかげで、生活は少しずつ整い、貯金も増えていった。
……それでも、時折タバコを吸いたくなる衝動が湧く。まぁ、その時は察してくれ。
「株……」
かつて、無力感と焦燥に押し潰されそうになりながらも手を出した株式投資。
あの時の葛藤、迷い、そして何度も心が折れそうになった夜のことを思い出す。
しかし今、株価は一気に上昇し、努力と自制の積み重ねが目に見える形で報われた。
「あのね……いっくん、お話したいことがあるの、いい?」
その時、美咲が小さな声で話しかけてきた
「どうしたの」
「あ、あのさ。私……多分、子供いるかも」
そう言って、そっとお腹に手を当てる。
まあ、避妊とかは一切していなかったから、当然と言えば当然だ。
どうしようか……。
正直、頭の中は真っ白だ。何も考えていなかったし、考える余裕すらなかった。
「私、なるべく堕ろしたくない……いっくんとの初めての子供だし……その、無いと、もうけど私といっくんが結婚して、もし子供が出来た時……その、後悔するかもしれないから……べ、別にいっくんは子育てに参加しなくていいよ?最悪、私一人でも育てるから、いっくんはいつも通りにしてて、いいからね」
「分かった……ちょっと外に出る。」
俺はそう言い残して扉を出る。
そして俺は、公園のベンチに腰を下ろした。
貯金はかなり溜まった。学校生活も普通にこなしている。
もう潮時なのかもしれない……。
でも、本当に美咲と離れることができるのか……分からない。
何をすべきかも、全く分からない。
あぁ、頭が痛い。痛すぎる。
俺が生まれた理由は、復讐だった。
しかし、その根幹にある怒りや憎悪が、どこかで緩んでしまっている。
このままでは、俺の存在意義さえ揺らいでしまう。ダメだ……。
そうだ、俺は復讐のために生まれたのだから。
「お兄ちゃん、悩んでいるね」
その時だった。
俺の前に現れたのは、おじいちゃんだった。
帽子をかぶり、どこか紳士的な気品を漂わせていた、お爺さんだった。
「座っても?」
「あぁ、うん」
おじいちゃんは俺の隣に腰を下ろすと、杖を立てて背筋を伸ばした。
その姿は、静かだが確かな存在感を放っている。
「悩んでいますね……?」
「え……? 別に、急になんだよ」
言葉に詰まりながらも、俺は目を逸らす。
正直、自分でも整理できない感情が胸の奥で渦巻いているのを感じていた。
「おっと、失礼……ただ、見過ごすことができなくてね」
その言葉の余韻とともに、空気にしばし静寂が漂った。張りつめた緊張感ではなく、むしろ俺の心の奥底にある言葉をそっと待ち受けるような、柔らかい沈黙だった。
「俺、これからどうすればいいのか、全く分からないんです」
気づけば、自然と口をついて出ていた。
なぜ話す必要があったのか、自分でも理解できない。ただ、胸の奥底に澱のように溜まっていた感情を、吐き出さずにはいられなかったのだ。
今まで、誰にも打ち明けられなかった。
親はもうこの世にいない。
かつての親友、新塚とも縁は断たれた。
孤独の闇の中で抱え込んだ不満、怒り、虚無感、そのすべてを、ただ誰かに、真正面から受け止めてもらいたかった。
おじいちゃんは杖を支えに、背筋を伸ばしたまま俺を見据える。
だから、俺は話してしまった。
おじいちゃんに伝えたかったのだ、全てのことを。胸に押し込めてきた思い、憎悪、孤独、後悔。一切合切を、文字通りぶちまけた。
「そうか……それは辛い経験でしたね。
実は、私にも貴方と同じような出来事が一度あったんです……私にも、嫁がいたんですよ」
おじいちゃんは、少し懐かしげに微笑みながら語り始めた。
彼の名は『渋沢 茂』
彼にも、かつて同じように幼なじみとして大切に想った女性がいた。
その名は『相浦 サナ』。
二人は相思相愛で、外から見ても明らかにラブラブのカップルだった。
恋愛漫画から抜け出してきたような日々を、のほほんと、しかし真剣に過ごしていたという。おじいちゃんの語り口には、どこか茶目っ気が混じっていて、その思い出話に、笑いと温かさがほんのり滲む。
「いやー、若い頃の恋ってのは本当に無邪気で……時に馬鹿みたいだけど、それがまたいいんですよ」
しかし、幸せの時間は長くは続かなかった。
「ごめんなさい……しげちゃん……ごめんなさい、もうしないから……許して……ごめんなさい」
泣き崩れるサナの声は、切羽詰まった後悔と自己嫌悪で震えていた。
何でも、浮気をしてしまったらしい、結婚まで誓い合った仲だったというのに。
元々、サナは喧嘩をするとヒステリックになりがちだった。しかし今回のことは、前日の喧嘩の延長で起きたものだという。
飲み会に出かけたその夜、気づけば取り返しのつかない過ちを犯していたのだ。
おじいちゃんにとって、許すという感情は最初から存在しなかった。
抱いたのは、ただひたすらの憎悪、裏切りへの怒りだけだった。
サナに対する信頼が音を立てて崩れ落ちた瞬間、彼の胸に渦巻いたのは、痛みよりも復讐の炎だった。
裏切りへの怒りを抑えることはできず、おじいちゃんは徹底的に復讐を遂げる道を選んだ。
渋沢 茂は、復讐の対象をただ責め立てるだけには留まらなかった。
まず、サナの浮気相手に対しても徹底的な制裁を加えた。
単なる言葉や威嚇ではなく、社会的な信用を揺るがせ、彼の評判や居場所を根底から揺さぶったのだ。
浮気相手の周囲の人間にさえも、慎重に情報を伝え、徐々に孤立させていく、冷徹な計略家のように、一つ一つの手を緻密に打っていった。相手は既婚者だった、その家庭も破壊したのだ。
その一方で、サナへの復讐も容赦はなかった。
彼女の過ちを責め、怒りをぶつけ、二度と彼の信頼を取り戻せないように仕向けた。
「嫌です、ごめんなさい……しげちゃん、離れたくありません……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
サナは足元にしがみつき、嗚咽を漏らしながら謝り続けた。
必死に縋るその姿は、怒りをかき消すほどの後悔と恐怖に満ちていた。
渋沢は長く沈黙した。
やがて、わずかに肩を落として頷く。
表情にはまだ怒りの影が残るものの、そこにはほんのわずかの赦しが忍び込んでいた。
それからサナは、何度も何度も誠意を示そうとした。
男子の連絡先をすべて削除し、スマホは常にテーブルの上に置く。
目に見える行動で、信頼を取り戻そうと必死だった。
だが、渋沢の心の奥底には、どうしても許せない感情が残っていた。
どれだけ誠意を見せられても、裏切りの記憶は消えることはない。
だからこそ、渋沢はつい、甘い誘惑に心を揺らされてしまった。
「相手がやっているなら、自分も……」
理屈ではなく、弱さと寂しさが混ざり合った、危うい自己正当化だった。
いや、正確には、サナへの行為は当てつけだったのだ。
そのことは、当然ながらサナにもすぐに伝わった。
「あはは……そうなんだ」
その言葉を残して、サナは姿を消した。
残されたのは、一通の手紙だけだった。
――――――――
「しげちゃんへ──
浮気のことは、本当にごめんなさい。
私が弱かったせいです。
しげちゃんには、どうか幸せになってほしいです。
これからも、これまでも、ずっと。
素敵な彼女さんと、幸せな家庭が続きますように──
大好きです。
私はもう恋愛はやめます。
もしよければ、子供くらいは見せてください。
サナ」
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その文字からは、後悔と愛情、そして涙のあとが同時に滲み出ていた。
「あの時、私はまだサナを愛していたことに気づきました。復讐を果たした後に残ったものは、空虚だけです。しかし、その復讐自体を後悔してはいません。
復讐には意味がない、と言う人もいるでしょう。しかし、本当に大切なのはその後の生き方です。
貴方は、復讐を終えたあと、前を向いて生きようとしているでしょうか。
過去に囚われたままでは、すべてが無意味になってしまう。
あなたが悩んでいるのは、許しの兆しです。許したい、そう思う気持ちがあるのです。ならば、もう一度、信じてみてはいかがでしょう。」
優しく、慈愛に満ちた目でおじいちゃんは俺を見つめた。
「過ちを許すことは愚かではありません。弱さでもありません、それは優しさです。誰しも一度は間違える、それは人間である以上、避けられないことなのです。
だからこそ、反省し、許してもらう。私も貴方も、最初は間違いだらけでした。歳を重ねるごとに、間違いを認められなくなることもあるでしょう。
しかし、反省できることは一流の証。
そして、それを許すこと、それこそが、真の強さであり、人として最も美しい勇気なのです。
許すことは、過去を消すことではなく、未来を共に歩むための橋なのです。」
そうか……俺は、美咲を許そうとしていたのだ。だから、ずっと悩んでいたのか。
あぁ、やっと分かった。
仮面が崩れ落ちる感覚──
長い間、自分を守るために被っていた偽りの自分が、静かに剥がれていく。
美咲の笑顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
あの柔らかい声、あの仕草、あの温もり……。
思い出すたびに、胸の奥がじんわりと痛む。
そうだ、俺はきっと、許そうとしていたんだ。
「……グスン……僕、どうすればいいのかな……美咲にたくさん当たっちゃったし……嫌われてるかもしれない」
「大丈夫ですよ。向き合い、互いに心を開き、たくさん話し合うことで、後悔のない未来を作るのです。手を取り、共に歩む、その勇気こそ、この世で最も強く、同時に扱いにくい感情です。
今、貴方はその勇気を出そうとしています。恐れずに、迷わずに進んでください。貴方は強いのです。もし不安に押しつぶされそうになったら、いつでも私の喫茶店に来てください。そのときは、心を込めて、無料でおもてなしさせていただきます。」
おじいちゃんは、僕の側から離れた。
そうだよ、ちゃんと向き合おう。そして、その時は──。
♢♢♢
次回が最終話です!!!




