第1話
いつからだろうか。
僕と美咲の仲が、少しずつ悪くなったのは。
最初はほんの些細なことだった。
笑い方の違いや、ちょっとした言葉の行き違い。
でも、少しずつ積もり積もって、今ではお互いに距離を感じる瞬間が増えていた。
美咲は相変わらず明るく、笑顔を見せるけれど、僕の胸の奥はどこか冷たくなる。
「ね、ね、今日は宗介君がね〜」
美咲は楽しそうに話す。
──秋山宗介、もう“したの名前”で呼んでいる。
僕はいつものように笑う。
作り笑いを浮かべる。それが、きっと正解だと思った。
美咲の行動を縛りたくない。
大丈夫、大丈夫。
「へぇ〜、すごいね」
声は平静を装って、心の中のざわつきを隠す。
「それでさ、明日遊ばない?宗介君と千夏、私といっくんで!!!」
「……いや、いいかな」
声が思わず硬くなる。
見たくないんだ。
美咲と秋山くんが楽しそうに話しているのを、見たくない。
それが正直な気持ちだった。
「なんで?いっくんいないとつまらないよ」
嘘だろ……。
そんなこと思ってないくせに……。
僕は目を伏せ、手で顔を少し隠す。
胸の奥がもやもやして、どうしようもなく痛む。
美咲は困った顔をして、少し不安そうに僕を見つめる。
「……いっくん?なんか、最近あんまり一緒に遊んでくれないよね」
「え?そうかな……」
僕は笑って答えた。声は平気そうに聞こえるはず。
「うん、私のこと、嫌いになっちゃったの? なにかあるなら教えてよ。私だって分からないことあるんだし」
「ない、ないよ! 本当にないんだから」
作り笑いを浮かべて言う。
本当は、いろんなことが心の中でモヤモヤしているのに。美咲に嫌われたくない、それだけで、全部隠してしまう。
「そっか、じゃあ、私もやめとこ」
美咲は少し肩をすくめて、すぐに切り替えた。
「え、行かないの?」
僕は思わず聞き返す。
「うん。それよりさ、今日お父さんが夜、高級焼肉食べに行くって。それでね、それでね、一緒に行かないかって。」
美咲の目はキラキラと輝いている。
もちろん嬉しいけれど、同時に少し戸惑う自分もいた。美咲の家は金持ちだ。だからこそ、こういう誘いも日常の一部のようにできるんだろう。僕は笑顔で頷いた。
小学六年生。
僕と美咲は、相変わらず順調に交際を続けていたはずだった。でも、どこか、以前のような無邪気さは少しずつ薄れていた。
美咲は変わった。
随分と変わった。
昔のようなオドオドしている美咲はいない。
「いっくん、早くして、遅い」
「ごめん、待ってよ」
最近は、ランドセルまで僕に預けてくることが増えた。
理由は分かっていた。
僕は基本的に何も言わず、美咲に嫌われたくない一心で、なんでも従ってきた。
その結果、美咲は僕を“自分の思う通りに動いてくれる存在”だと思っているのだろう。
そして、昔からの美貌に加え、周囲からのチヤホヤにすっかり慣れてしまった。
男子には少し色目を使い、女性の間では女王のように振る舞う。
その姿は魅力的だけど、僕には少し眩しすぎて、どこか遠い存在に感じることもある。
でも、僕は美咲と別れたくない一心で頷いた。
♢♢♢
美咲 視点
放課後。
「ね、ね、美咲って、あの陰キャと付き合ってるって本当?」
「え?」
最近、よく耳にする言葉だ。
陰キャとは、私の彼氏いっくんのこと。
正直、いっくんを馬鹿にするこういう人たちは嫌いだ。でも、少しずつ慣れてきた。
だから今は、特に気にならない。
「そうかな……?」
「そうそう、美咲は可愛いんだから、もっと上の男狙えるよ」
いつも言われることだ。
でも……私は、いっくんが好きだ。
「最近、彼氏との付き合い悪いんでしょ?」
「え……なんでそれを」
いっくんとの付き合いが悪いのは、確かにその通りだった。
最近、遊びに誘っても断られることが増えたし、遊んでいてもどこか楽しそうじゃない。
私の機嫌ばかり伺っているのも、分かっている。
私の同級生の女友達は、中学生と遊んで、もっと大人っぽくリードしてもらっているのに。
でも、いっくんは違う。
いつも私が遊びに誘わなきゃいけないし、率先して引っ張ってくれることも少ない。
「ね、美咲。恋愛は経験してなんぼだよ?
どうせ、続かないんだからさ」
「いや、大丈夫。別にそこまで興味ないからさ」
私は、軽く笑って誤魔化す。
「そっか、いい相手いたんだけどな、まぁいいか」
心の奥では──やっぱり、いっくんが好きだ。
周りの声や冗談めいた言葉に揺れそうになっても、
私の心の中心には、いつもいっくんがいる。
誰が何と言おうと、いっくんのことを大切に思う気持ちは変わらない。
それが、今の私の正直な気持ちだった。
♢♢♢
一樹視点
あれから、さらに時が過ぎた。
中学二年生になった美咲は、以前にも増して可愛くなっていた。
もはや「モテモテ」という言葉では片付けられないほどに。
後輩に先輩、近所のお兄さんたち──あらゆる人が、自然と美咲に目を奪われている。
「いっくん、遅い。早くしてよ」
今日も、僕は荷物持ちだった。
前にいるのは、キラキラして目立つメンバーたち。
「ったく、お前って奴は。せっかく美咲の温情で入れてもらってんのによォ」
目の前にいるのは、秋山宗介、橋本千夏、そして一軍の数名。
美咲はその中でも一番輝く存在だった。
トップに立ち、自然と注目を集める美咲。
その僕は一番後ろ。
肩の荷物の重さよりも、心の奥に感じる居心地の悪さが、ずっしり重くのしかかる。
周囲の視線は美咲に向き、僕はただ一歩下がるしかない。
最近、ふと思うことがある。
──僕と美咲が付き合っている理由って、なんなんだろう。
美咲はどんどんキラキラしていく。
クラスの中心にいて、誰もが羨むような存在だ。
それに比べて、僕は……取り柄もないし、いつも後ろを歩いてるだけの影みたいなやつだ。
なんで、こんな僕と付き合ってくれてるんだろう。
いや、もしかしたら……もう「付き合ってる」なんて言葉すら、形だけなのかもしれない。
放課後。
僕と美咲は二人きりで下校していた。
少し嬉しいはずの時間なのに──その一言が胸に突き刺さった。
「はぁ〜……あんたさ、最近ちゃんと勉強してるの?」
僕の唯一の取り柄だった成績は、少しずつ落ちていた。
それを分かっていて言うのか、それとも無意識なのか。どっちにしろ、心臓を掴まれるみたいに苦しかった。
「宗介君とか、あいら君とかは学年トップなのに」
……なんで、ここでその名前を出すんだよ。
僕がほかの女の子の名前を口にしたら、不機嫌になるくせに。
なのに、美咲は当然のように他の男の名前を並べる。
耳鳴りがした。頭の奥で、何かが「カチッ」と音を立てて積み重なっていく。
ストレスが確実に、少しずつ、でも確実に僕の中で山を作っていく。
「ごめん……」
口から出たのは、それだけだった。
「はぁ〜……なんか変わったよね。あんたさ、勉強もできないし、運動もできないし……何が出来るのよ」
……変わった?
違う。変わったのは君の方だ。
昔は小さな声で僕の後ろをついてきて、笑うときも人目を気にしていたのに。
今はどうだ。
少なくとも、今の美咲は僕が知ってる美咲じゃない。
あれだけ夢中になっていた読書もやめてしまった。
物語の感想を目を輝かせて話してくれた、あの美咲はいない。
代わりに残ったのは──煌びやかな服に身を包んで、仲間に囲まれて笑う美咲だ。
「情けない、別れようかな」
最近、そんな言葉が美咲の口癖になっていた。
ふとしたすれ違いのたびに軽く吐かれるその言葉は、最初は冗談のように聞こえたけれど、回数を重ねるごとに針のように胸に刺さる。
いつも僕は、彼女の言葉を受け止め、ただ「待って」と引き止めてきた。
多分それが、彼女がそんなふうに安易に口にしてしまう理由だ。
僕が許すから、彼女は大事なものを投げ捨てるように軽く扱えるのだろう。
でも、そのたびに僕の中の何かが削られていく。
許すことは愛じゃない。赦すことと、自分を捨てることは違う。
あれから何を話したのか、もう覚えていない。いや、正確には、脳が思い出すことを拒んでいるのだろう。
僕が美咲と一緒にいるとき、口から出るのはいつも悪口ばかり。けれど秋山君たちと過ごすときの彼女は、楽しそうに笑っている。
最後に美咲の笑顔を見たのは、いつだったろう……もう思い出せない。
ドアノブを回して部屋に入ると、耳障りな声が飛び込んでくる。
「一樹、遅いじゃないか。さっさとスパーリングだ。」
「え、今日は」
「うるせぇ!!」
ドンッ、と鈍い衝撃音が鳴り響く。
僕が勉強に集中できない理由、それは親父の過度な暴力にあった。
スパーリングと称しては殴りかかる。親父の身長は185cmだと言っていたか。お母さんは元モデルで170cmの長身だった。
けれど二人はもう別れている。理由はただひとつら父のDVだ。
「ほら、ちゃんとガードしろ!」
親父の拳は、いつだって容赦なく僕に向けられていた。
「いいか、スパーリングが終わったら。次は投資の時間だ」
「でも、勉強しないと……」
「勉強なんて無意味だ。この時代は投資だ。いいか、勉強すんなよ?」
親父はかつて会社を経営していたらしい。倒産してからは酒とタバコと女に溺れ、だんだんと笑顔を忘れていった。最初は理想の父親だったそう、ほんの少し前までは。
でも、何かが壊れてしまったのだ。壊れたものは簡単には戻らない。
僕は毎晩、投資の講義めいたものを押し付けられる。画面に映る数字をただ眺めさせられ、舌打ち混じりに「これが未来だ」と言われる。
教科書を閉じた僕の手の感触を、大事なものだと教えてくれたのは学校だったはずなのに──。
こんなこと、美咲にはとても言えない。言ったところで、彼女の世界は遠すぎる。
もし話したら、からかわれるか、哀れまれるか、あるいは何も変わらないかもしれない。だから僕は黙る。黙って殴られ、黙って画面を見て、黙って笑顔を作る。
夜、布団に潜り込むと、耳の奥で親父の笑い声とガラスが触れ合う音がまだ鳴っている。
だけど、暗闇のどこかで僕は小さく唱える、自分だけの『魔法』を。
「チョコレート1個、幸せ1個」




