閑話『千夏 夏帆2』
どうして、どうして、どうして、どうして――胸の中で同じ言葉が何度も崩れ落ちる。意味がわからない。あれほど用心して、あれほど演出し尽くしてきたのに、私が美咲を嘲る姿が、笑いながらからかう声が、あっという間にネットの隅々まで広がっている。
画面の中の私は、軽やかに嘲笑を投げつけている。あんた、いい身体してんじゃん。パパ活してくね?そんなふうに笑っている私の顔が、冷たく、無慈悲に再生される。削除申請を出しても、すぐには削除されない。
その時間で火はどんどん広がっていく。胸の奥で、怒りと焦りがごちゃ混ぜになってぐるぐると渦巻く。クソ、クソ、クソ……
ネットではもう、トレンド入りしていた。動画サイトでは、私のいじめの動画がスクロールするたび、5回に1度は必ず現れる。
コメント欄には、罵倒や嘲笑、冷やかしが渦巻いている。取り巻きからの電話も鳴りっぱなしで、マネージャーの声が絶え間なく響く。
「こいつは虐めると思ってた」
「噂によるとこいつパパ活もしてるらしい」
「人生終了お疲れ様〜ww」
「囲ってた奴生きてしてるぅ〜ww」
「テレビ出演も決まってたのに、勿体ない、馬鹿女だな」
「顔も性格も終わってるwww」
「フォロワー30万人なのに、この体たらく…笑える」
「この動画めっちゃ保存されてるらしいぞ」
「可愛いって言ってたやつら、全部掌返してるじゃんww」
「ざまあwwwww」
「次はどうなるのかな、楽しみ〜」
かつて、私を褒め称えてくれた言葉のすべては、音もなく消え去った。
可愛いって、好きって、笑って言ってくれたあの声は、今や私を蹴落とす刃に変わっている。
画面の向こうで嘲笑う顔が、私の胸をえぐる。
ふざけんなよ……! どうして……どうしてこんなことに……!
なんで……なんで私が、こんな目に遭わなきゃいけないの?声が震える。喉の奥が熱くて、うまく息ができない。
真面目に、ちゃんと生きてるのに。
誰にも迷惑なんてかけてないのに。
それなのに、どうして私ばっかり。
おかしいよ、こんなの。間違ってるに決まってる。世界は不公平だ。
「あ、そうだ!」
ひらめいたように顔を上げる。
私を囲っていたあの豚共、イケメン、そしておっさん達。
きっと助けてくれるはず。
ふふ、だって私、可愛いもん。みんな、私のこと好きって言ってたじゃん。
スマホを握りしめ、震える指で連絡を送る。
一通、また一通。既読がつくのを待つ。
……けど、誰一人として、既読がつかない。
「はぁ? なんでよォ……」
いつもなら、数秒で返してきたくせに。
その癖に、今だけは誰も反応しない。
「こいつら……っ!」
唇を噛む。怒りと裏切りが混ざって、喉の奥でぐちゃぐちゃに溶けた。
つながりのあったはずのイケメンインフルエンサーたちは、炎上を恐れてか連絡すらしてこない。金を落としてくれるはずのおっさんたちも、既読無視。都合が悪くなった途端、私を切り捨てる。
こいつら……クズじゃん、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね。
人間じゃないッ!!
こいつら、悪魔だよ、悪魔ぁッ!!
クラスメイトに連絡しても、誰も出ないの! ねぇ、どうして!? なんで返さないの!?
クラスの連絡網も消えてる、消されてる!! 私だけ、いないことになってるの!?
取り巻きたちも、無視、無視、無視!! 見てるくせに、見てるくせにッ、返さないの!?
ふざけんなよォォォ!!
私は思わずスマホをぶん投げた。ガシャンと割れる音が脳裏に突き刺さり、飛び散った画面の破片が嘲笑うかのように煌めく。
あはは、笑えてくる、こんなにも簡単に壊れるんだね、私の居場所も、信じてたやつらの言葉も――くそッ、ふざけんなよォォォ!!
あの日以来、事件はあっという間に広まった。少しでも外に出れば、誰かの視線が刺さる。コンビニの前でも、電車の中でも、スマホの画面を見ながら笑ってる奴らが全部、私の悪口を言ってる気がした。
笑われてる。晒されてる。どこへ行っても逃げ場なんてない。
この狭い日本じゃ、一度燃え上がった火なんて、消えるはずがない。公開処刑だ。
学校に行っても同じだった。
机の中には落書き、ロッカーにはゴミ。すれ違えば「見た?あの動画」「マジやばくない?」と、わざと聞こえるように囁かれる。
私を囲ってた奴らも、全員が蜘蛛の子を散らすように離れていった。
炎上が怖いんだ。巻き込まれたくないんだ。
あれだけ「千夏ちゃん最強!」とか言ってた連中が、今は裏アカで私を笑ってる。
――ふざけんな。
恋愛テレビショーのオファーだって消えた。
「期待してます!」って、あんなに甘い声で言ってたプロデューサーも、今は無言。
私、あんなに媚びて、あんなに努力して、全部掴みかけてたのに……。
なのに、全部……燃えて灰になった。
スマホの通知が止まらない。罵倒、嫌がらせ、誰かの悪意。
インターホンが鳴る。何度も、何度も、しつこいくらいに。誰だ、こんな時間に。
スマホの画面には、まだ止まらない通知。住所、家族構成、通ってる学校、全部晒されてた。どうせ私を恨む、カス共が炎上に便乗して流したんだろう?
「こいつの家ここらしい」「行ってみた」「親も同罪だろ」
そんな書き込みが次々に流れてくる。笑い混じりで。軽いノリで。
ネットの中の“正義マン”たちは、まるでドラマの主人公にでもなったつもりで、私を追い詰めてる。
家に引きこもる毎日だ。なんで、なんで私だけ、胸の奥で同じ問いがぐるぐる鳴り止まない。外の空気が遠い。カーテンの隙間から差す光すら、眩しくて腹が立つだけだ。
答えは一つに収束する。
元凶はあいつだ、一樹。美咲の彼氏の一樹。
あいつがいなければ、私は違う人生を歩んでいたはずだ。あいつがいなければ、きっとイケメン資産家と結ばれて、順風満帆に生きていけたのに、そういうたらればが、夜ごと頭の中で増殖していく。
そうだよ、殺してやる。絶対に……あいつだけでも巻き込んでやるよ。
ナイフを握ったまま足が動かなかった。指先に冷たさがまとわりつき、世界の輪郭が細く絞られていくようだった。外へ出ようとしたその瞬間、家の中に雷が落ちたみたいな声が響いた。
「夏帆!!あんた、何やったの!!」
母の声は鬼の形相そのものだった。背後から追いかけてきたのか、廊下に立っている母の顔は血の気が引いていて、普段の柔らかな影はどこにもなかった。
父も居間の入口に立っていて、普段の穏やかな佇まいは消え、ただ冷たい輪郭だけが残っている。
ナイフの柄を握る手が思わず強くなる。誰にも見られたくなかった。だけど、もう遅かった。母は一歩も引かず、声を震わせて詰め寄る。
「ふざけんじゃない、あんたの動画、仕事でも話題になってたのよ!恥ずかしくて外も歩けない」
母の目が赤く光った。「家を出ろ、夏帆!」ではなく、父の低い声が先に割り込んだ。
「夏帆、お前は家を出ろ
「は?……なんでよ!」
「本当にどこで育て方を間違えたのかしら」
ふざけんな。
なんで、なんで私だけがこんな目に遭うんだ。
あの日、家から文字通り叩き出されてから、私はずっと転がるように生きてる。どこへ行ってもネットで顔が晒され、知らない人に指をさされる。通りすがりの誰かが笑ってるだけで、自分のことを言われてるように感じる。
「ほら、あの炎上した子だよ」って。
ネットカフェの小さな個室の中、モニターの青白い光だけが私の顔を照らしていた。
毛布は薄くて、空気は埃っぽく、隣のブースからは笑い声とカチカチというマウスの音が響く。
鏡に映る自分の顔を見て、ふと笑ってしまった。目の下にはクマ、髪はボサボサ。あの頃の“インフルエンサーの千夏”は、どこにもいない。
金がない。
でも、生きるには金がいる。
だから、私は夜の街に出た。
寒空の下、ネオンの明かりに照らされながら、店のドアを開ける。
化粧を厚く塗り、安い香水でごまかす。
「仕事だから」と自分に言い聞かせながら、心のどこかでは何かが壊れていく音がする。
帰り道、夜風が痛い。
ふと、歩道のガラスに映る自分の姿を見て、息が詰まる。
――どこで、間違えたんだろう。
フォロワーが増えて、みんなが褒めて、注目されて、チヤホヤされて……それがただ、気持ちよかっただけなのに。
それだけだったのに。
「なんで、あの時、笑っていられたんだろう」
声に出した途端、涙が頬を伝った。
止まらない。
誰も見ていないはずなのに、誰かに見られているようで、私はまた顔を伏せた。
スマホの通知はもう鳴らない。
DMもコメントもゼロ。
だけど、検索すればまだ、私の名前が出てくる。
“千夏 炎上”“千夏 パパ活”“千夏 転落”
どれも、私の人生そのものみたいな言葉だ。
小さな声で呟く。
「……ねぇ、誰か、助けてよ」
けれど返ってくるのは、エアコンの低い唸りだけ。
世界は、私をもう見ていない。




