第14話
俺は気づけば、無意識に前に出ていた。
「え、い、いっくん……?」
目の前にいるのは、濡れたたままの姿で震える美咲。その後方には、にやりと笑う千夏が立っている。
「あんた、何?盗み聞きしてたの?キモ。
あ、それともまさか美咲とやりたいの?
いいよ、1時間3万で好きにしていいよ。」
千夏の声は軽薄で、冷たく、笑いを含んでいる。美咲はさらに肩を震わせ、声も出せずに俯く。教室ではなく、ここ、倉庫の薄暗い空間で繰り広げられる状況に、何故だか胸の奥で何かがざわめく。
理性では抑えられない感情と、過去の記憶が一気に押し寄せる。
俺はゆっくりと前に出る。
違う、これは、違う。
美咲だから助けるわけじゃない。
きっと、俺は誰であろうと助けていた。
過去の記憶も、屈辱も、理不尽な暴力もすべて積み重なったこの胸の奥で、理性では抑えきれない感情が、ただ一つの行動を導いていた。
俺の足は自然と、美咲の元へと進む。
背後で千夏の笑い声が響く。
気付けば、俺の拳は千夏の頬を打っていた。
鈍い音が、体育館裏の静寂に響く。
「ッ!? な、何するのよ!!」
千夏は信じられないというように目を見開き、頬を押さえた。殴られるなんて、思ってもいなかったのだろう。
俺の手のひらは、まだ熱を帯びていた。
「消えろ、不快だ」
俺は千夏に向かって言い放った。
親父譲りの身長と、鍛え上げた体が自然と威圧感を生む。見上げる千夏の瞳には、確かにビビりの色が浮かんでいた。
「あ、あんた……私に逆らうの?女を殴るなんて、クズ野郎!!最低死ね!!」
声は震えている。
「俺の休憩場所で騒がしいんだよ。早く行けよ」
「ふん……あんた覚えておきなさいよ。私の彼氏にボコボコにしてもらうから」
千夏は渋々、取り巻きたちと一緒に離れていった。
「何、あいつキモ」
小さく聞こえる呟きもあったが、俺には届かない。倉庫には再び静けさが戻り、煙草の匂いだけが漂う。
「いっくん……ありがと……」
「んな事より、早く服着ろよ。目障りだ」
「うん……」
いつぶりだろうな、こんなふうに、ただ普通に会話したのは。
泣きながら俯いていたあの美咲が、今は少しだけ落ち着いた声を出す。
「あの、ごめんなさい……」
「何が?」
「ま、前、私が……いじめて、すみません」
「別に気にしてない」
「でも……」
「っチウザイ」
「ご、ごめんなさい」
俺は美咲と無言で歩きながら帰る。
途中、美咲はチラチラと俺の顔色を伺っていた。なんというか、昔の俺みたいだな……弱くて、気を遣って、でも必死で立っていたあの頃の。
「おい、美咲、そういえば許されるためなら何でもするって言ったか?」
「え、うん……私頑張るよ」
「そうか……じゃあ、やらせてくんね?」
「え……?」
「最近ストレス多くてよ。え、ダメなの? んじゃ……」
「ま、待って……いいよ……で、でも初めてだから、その、優しく……」
「あぁ、わかった、わかった」
アパートの薄暗い廊下、裸電球の下で見え隠れする美咲の横顔。
目が合えばすぐに逸らすその仕草は、かつて俺がやっていたことと同じだった。
人の視線を怖がりながら、それでも誰かに見てもらいたいと心のどこかで願っていた――あの頃の「僕」の鏡写しのように。
ただ違うのは、美咲の頬に残る細い線。目元から首にかけて薄く走るその傷跡が、彼女の過去を雄弁に語っていた。
「ど、どうしました?気に触らないことでも……」
「いや、なんでもない。」
「ほんと?別にい、言ってもいいよ、わ、私ひ、酷いこと、した、し。」
「うるせぇ」
「ごめんなさい……今更謝っても、もう遅いよね……?
あはは……私、本当に馬鹿だったんだよ。
友達の言葉に乗せられて、信じちゃって、いっくんを傷つけて……
気づいた時にはもう全部壊れてて……ごめんね、ほんと、ごめん……」
「あの時、素直に『寂しい』って言えてたら、違ったのかな。
でも私は言えなかった、強がって、女王様みたいに振る舞って……
本当はただ、好きって言葉が欲しかっただけなのに。」
「ごめんね、ほんとにごめん。
壊したのは私だよね。
あはは……バカだよね、私……全部大事なもの、自分で壊して……
もう二度と戻らないのに、今さら謝って……笑えるよね……」
「うるさい、喋るな」
「ご、ごめんなさい」
本当にムカつく奴だ。
その場で思わず手を上げそうになる自分に気づいて、冷たい嫌悪が胸の奥をぐっと締めつける。謝ったところで、もう「僕」は戻ってこない。あの頃の弱さも、ビクビクした声も、すべて過去のゴミ箱に捨ててしまった。だから今は「俺」が表に出ている
別に、俺は美咲に何も求めていない。
正確に言えば、彼女に愛されたいとか許しが欲しいとか、そういう甘ったるい感情はもうない。代わりに欲しいのは、都合だ。
都合がいい、女でいれば俺はそれで構わない。
「俺さ、部屋から追い出されそうなんだわ、部屋住ませてくれない?」
「う、うん。いいよ。それで、償えるならするよ……全部、変える。私がしたこと、全部償うから。いっくんが望むなら、なんでもする」
「あっそ」
俺は美咲の家に居を移すことにした。
アパートは同じ建物、階も同じで部屋が一つ挟まっているだけ。通路を出ればすぐそこに彼女のドアがある。
俺の部屋はもう荒れていた。酒の空き缶、使い古した灰皿、ベッドの上に散らばる服。換気しても取れないヤニの匂いが壁にしみついている。
美咲の部屋に入った瞬間、俺は思わず足を止めた。
驚くほど簡素だ。壁際にはベッド、窓の前に小さなテレビ、それ以外の家具らしいものはほとんどない。机すら、折り畳みのちゃちなテーブルがひとつ置かれているだけだった。
けれど、不思議なほど清潔だった。床には埃一つ落ちていないし、カーテンも洗い立てのように白い。キッチンに目をやれば、使い込んだ鍋やフライパンが整然と並べられていて、排水口もきちんと掃除されている。自炊をしている跡が残っていた。
「あの、その、する前にシャワー浴びてきていい?なるべく、いっくんには綺麗な私──」
「分かったから、早くしろ」
俺はそう言うと、ドカッとベッドの端に座り込んだ。硬いスプリングが背中に刺さる感覚が、妙に現実味を帯びている。美咲は小さく「ありがと」と呟くと、黙ってシャワールームへと向かった。ドアが閉まる音が小さく響く──その静けさが、逆に耳について離れない。
あぁ、クソ……頭が痛い。最近、やたらと頭が割れそうに痛むんだ。原因は分かってる。酒とタバコだ。わかってるのにやめられない。
ポケットの中に残った小銭や、今日奪った金を思い出しては舌打ちする。あれがないと、俺が俺じゃいられなくなる気がする。依存ってやつだ。体の一部みたいに、吸いたくて吸いたくて仕方がない。
指先が震えているのを感じながら、俺はライターを取り出した。
ドアの向こうから、美咲がぽつりと呟く。水音にかき消されかけたその声が、俺の胸を掻きむしるように届いた。
「……いっくん、いる?」
「あぁ、終わったのか」
「う、うん。あの、さ。私、事故にあったの知ってる?、、それでさ、あんまり人に見せられるような身体じゃないしさ、やっぱり、辞める?私は……別にいいんだけど、もし見たら、その、いっくんに幻滅されるんじゃないかって……
怖くて、だから、その、別に、、ごめんなさい」
「気にしない」
美咲はそう言ってバスタオルを滑らせた。思わず声が漏れそうになる。
けど、そこにあったのは昔みたいな白い肌じゃない。事故の痕が痛々しく刻まれていた。
……まあ、だからどうしたって話だ。美咲が言うほど汚くもねぇし、俺にとっちゃ別に許容範囲。
どうせササッと終わらせるつもりだしな。
結局いつかは捨てる女だ。だったら僕が受けた傷を代わりに俺が刻み返してやるよ。




