表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/22

第14話

 俺は気づけば、無意識に前に出ていた。


「え、い、いっくん……?」


 目の前にいるのは、濡れたたままの姿で震える美咲。その後方には、にやりと笑う千夏が立っている。


「あんた、何?盗み聞きしてたの?キモ。

 あ、それともまさか美咲とやりたいの?

 いいよ、1時間3万で好きにしていいよ。」


 千夏の声は軽薄で、冷たく、笑いを含んでいる。美咲はさらに肩を震わせ、声も出せずに俯く。教室ではなく、ここ、倉庫の薄暗い空間で繰り広げられる状況に、何故だか胸の奥で何かがざわめく。

 理性では抑えられない感情と、過去の記憶が一気に押し寄せる。


 俺はゆっくりと前に出る。

 違う、これは、違う。

 美咲だから助けるわけじゃない。


 きっと、俺は誰であろうと助けていた。


 過去の記憶も、屈辱も、理不尽な暴力もすべて積み重なったこの胸の奥で、理性では抑えきれない感情が、ただ一つの行動を導いていた。

 俺の足は自然と、美咲の元へと進む。


 背後で千夏の笑い声が響く。


 気付けば、俺の拳は千夏の頬を打っていた。

 鈍い音が、体育館裏の静寂に響く。


「ッ!? な、何するのよ!!」


 千夏は信じられないというように目を見開き、頬を押さえた。殴られるなんて、思ってもいなかったのだろう。


 俺の手のひらは、まだ熱を帯びていた。


「消えろ、不快だ」


 俺は千夏に向かって言い放った。

 親父譲りの身長と、鍛え上げた体が自然と威圧感を生む。見上げる千夏の瞳には、確かにビビりの色が浮かんでいた。


「あ、あんた……私に逆らうの?女を殴るなんて、クズ野郎!!最低死ね!!」


 声は震えている。


「俺の休憩場所で騒がしいんだよ。早く行けよ」

「ふん……あんた覚えておきなさいよ。私の彼氏にボコボコにしてもらうから」


 千夏は渋々、取り巻きたちと一緒に離れていった。


「何、あいつキモ」


 小さく聞こえる呟きもあったが、俺には届かない。倉庫には再び静けさが戻り、煙草の匂いだけが漂う。


「いっくん……ありがと……」

「んな事より、早く服着ろよ。目障りだ」

「うん……」


 いつぶりだろうな、こんなふうに、ただ普通に会話したのは。

 泣きながら俯いていたあの美咲が、今は少しだけ落ち着いた声を出す。


「あの、ごめんなさい……」

「何が?」

「ま、前、私が……いじめて、すみません」

「別に気にしてない」

「でも……」

「っチウザイ」

「ご、ごめんなさい」


 俺は美咲と無言で歩きながら帰る。

 途中、美咲はチラチラと俺の顔色を伺っていた。なんというか、昔の俺みたいだな……弱くて、気を遣って、でも必死で立っていたあの頃の。

 


「おい、美咲、そういえば許されるためなら何でもするって言ったか?」

「え、うん……私頑張るよ」

「そうか……じゃあ、やらせてくんね?」

「え……?」

「最近ストレス多くてよ。え、ダメなの? んじゃ……」

「ま、待って……いいよ……で、でも初めてだから、その、優しく……」

「あぁ、わかった、わかった」


 アパートの薄暗い廊下、裸電球の下で見え隠れする美咲の横顔。


 目が合えばすぐに逸らすその仕草は、かつて俺がやっていたことと同じだった。

 人の視線を怖がりながら、それでも誰かに見てもらいたいと心のどこかで願っていた――あの頃の「僕」の鏡写しのように。


 ただ違うのは、美咲の頬に残る細い線。目元から首にかけて薄く走るその傷跡が、彼女の過去を雄弁に語っていた。


「ど、どうしました?気に触らないことでも……」

「いや、なんでもない。」

「ほんと?別にい、言ってもいいよ、わ、私ひ、酷いこと、した、し。」

「うるせぇ」


「ごめんなさい……今更謝っても、もう遅いよね……?

 あはは……私、本当に馬鹿だったんだよ。

 友達の言葉に乗せられて、信じちゃって、いっくんを傷つけて……

 気づいた時にはもう全部壊れてて……ごめんね、ほんと、ごめん……」


「あの時、素直に『寂しい』って言えてたら、違ったのかな。

 でも私は言えなかった、強がって、女王様みたいに振る舞って……

 本当はただ、好きって言葉が欲しかっただけなのに。」


「ごめんね、ほんとにごめん。

 壊したのは私だよね。

 あはは……バカだよね、私……全部大事なもの、自分で壊して……

 もう二度と戻らないのに、今さら謝って……笑えるよね……」

「うるさい、喋るな」

「ご、ごめんなさい」


 本当にムカつく奴だ。

 その場で思わず手を上げそうになる自分に気づいて、冷たい嫌悪が胸の奥をぐっと締めつける。謝ったところで、もう「僕」は戻ってこない。あの頃の弱さも、ビクビクした声も、すべて過去のゴミ箱に捨ててしまった。だから今は「俺」が表に出ている


 別に、俺は美咲に何も求めていない。

 正確に言えば、彼女に愛されたいとか許しが欲しいとか、そういう甘ったるい感情はもうない。代わりに欲しいのは、都合だ。

 都合がいい、女でいれば俺はそれで構わない。


「俺さ、部屋から追い出されそうなんだわ、部屋住ませてくれない?」

「う、うん。いいよ。それで、償えるならするよ……全部、変える。私がしたこと、全部償うから。いっくんが望むなら、なんでもする」

「あっそ」


 俺は美咲の家に居を移すことにした。

 アパートは同じ建物、階も同じで部屋が一つ挟まっているだけ。通路を出ればすぐそこに彼女のドアがある。


 俺の部屋はもう荒れていた。酒の空き缶、使い古した灰皿、ベッドの上に散らばる服。換気しても取れないヤニの匂いが壁にしみついている。


 美咲の部屋に入った瞬間、俺は思わず足を止めた。


 驚くほど簡素だ。壁際にはベッド、窓の前に小さなテレビ、それ以外の家具らしいものはほとんどない。机すら、折り畳みのちゃちなテーブルがひとつ置かれているだけだった。


 けれど、不思議なほど清潔だった。床には埃一つ落ちていないし、カーテンも洗い立てのように白い。キッチンに目をやれば、使い込んだ鍋やフライパンが整然と並べられていて、排水口もきちんと掃除されている。自炊をしている跡が残っていた。


「あの、その、する前にシャワー浴びてきていい?なるべく、いっくんには綺麗な私──」

「分かったから、早くしろ」


 俺はそう言うと、ドカッとベッドの端に座り込んだ。硬いスプリングが背中に刺さる感覚が、妙に現実味を帯びている。美咲は小さく「ありがと」と呟くと、黙ってシャワールームへと向かった。ドアが閉まる音が小さく響く──その静けさが、逆に耳について離れない。


 あぁ、クソ……頭が痛い。最近、やたらと頭が割れそうに痛むんだ。原因は分かってる。酒とタバコだ。わかってるのにやめられない。


 ポケットの中に残った小銭や、今日奪った金を思い出しては舌打ちする。あれがないと、俺が俺じゃいられなくなる気がする。依存ってやつだ。体の一部みたいに、吸いたくて吸いたくて仕方がない。


 指先が震えているのを感じながら、俺はライターを取り出した。


 ドアの向こうから、美咲がぽつりと呟く。水音にかき消されかけたその声が、俺の胸を掻きむしるように届いた。


「……いっくん、いる?」

「あぁ、終わったのか」

「う、うん。あの、さ。私、事故にあったの知ってる?、、それでさ、あんまり人に見せられるような身体じゃないしさ、やっぱり、辞める?私は……別にいいんだけど、もし見たら、その、いっくんに幻滅されるんじゃないかって……

 怖くて、だから、その、別に、、ごめんなさい」

「気にしない」


 美咲はそう言ってバスタオルを滑らせた。思わず声が漏れそうになる。

 けど、そこにあったのは昔みたいな白い肌じゃない。事故の痕が痛々しく刻まれていた。

 ……まあ、だからどうしたって話だ。美咲が言うほど汚くもねぇし、俺にとっちゃ別に許容範囲。

 どうせササッと終わらせるつもりだしな。

 結局いつかは捨てる女だ。だったら僕が受けた傷を代わりに俺が刻み返してやるよ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ