第11話
最悪だった。
心底そう思った。
よりによって、俺と美咲が同じアパートに住むなんて。
ボロい階段をきしませながら上がったとき、隣の部屋のドアノブに彼女が手をかけるのを見て、俺は凍りついた。
噂でしか聞いていなかった父親の会社の倒産。
あれは単なる与太話だと流していたが、この光景で確信に変わった。
あの豪華な屋敷で、何不自由なく暮らしていた美咲が、今は俺と同じような木造アパートに身を寄せている。
変わり果てた姿もそうだが、その転落ぶりが俺の中のどす黒い感情を刺激した。
ざまあみろ、と。心のどこかで嗤ってしまう。
だが、帰り道。
美咲はずっとブツブツと何かを呟いていた。
「チョコレート1個、幸せ1個……チョコレート1個、幸せ1個……」
壊れたオルゴールのように、同じ言葉を繰り返す。
その姿は哀れを通り越して気味が悪い。
俺は足音を殺し、気づかれないよう距離を保ちながらついていった。
同じアパート、同じ階段。
二階に上がり、彼女は右の部屋、俺はその隣。
現実を突きつけられた瞬間、苦笑すら出なかった。
──神様なんていない。
そう呟きながら、自分の部屋のドアを無言で閉めた。
俺の部屋は臭かった。
壁に染みついたヤニ、床に転がる酒の空き缶、吸い殻で山になった灰皿。
窓を開けても、湿った空気とタバコの匂いが入り混じるだけで、まともに換気なんてできやしない。
配当金はとうに尽きた。
昔はそれで何とか食いつないでいたが、今はただの思い出だ。
代わりに、秋山たちから金を巻き上げている。
罪悪感なんてない。
あいつらは俺を笑い者にして、殴って、踏みつけてきた。
人前でズボンを脱がされ、地べたに押し倒され、名前を呼ばれるたびに屈辱を覚えた。
だからこれは、ただの仕返しだ。
奪われた分を取り戻しているだけ。
俺の中では、それが当然の理屈になっていた。
夜の静寂を切り裂くように、微かな声が部屋の向こうから漏れ聞こえてきた。
「ぐすん……ふん……うっ……痛い……」
最初は気味が悪くて無視していた。
だが、耳を澄ますたびに確信した。あの声は、美咲のものだった。
細く震える声、掠れる嗚咽。部屋の壁越しに伝わる。
夜が深まるにつれ、声は途切れることなく続く。
「うるせぇ……眠れない。黙れ──」
思わず声を荒げる。拳を握りしめ、カーテンの向こうの薄暗い部屋を睨むようにしても、向こうは聞こえていないだろう。
「……黙れって、なんで俺が言わなきゃならねぇんだよ」
言葉は喉の奥で詰まる。拳の力が抜けることなく、机の上の灰皿を握りしめる。
夜は長い。美咲の嗚咽は途切れない。
そして、俺の中の苛立ちはますます深まっていく。




