第9話
高校生活は、表面的には普通に過ごしていた。
俺はあれから自分でアパートを見つけ、家賃や生活費のやりくりを何とかやっている。きついけど、自由で、少しずつだが自分の生活を作れている感覚があった。
そんなある日、俺は目を疑った。それは学校に行った時だった。
扉の向こうに立っていたのは、かつての恋人であり、幼なじみの美咲だった。
一瞬、時間が止まったように感じた。周囲の視線が一斉に彼女に集まる。俺が通っていた中学の連中の多くは、この高校に進学していたからだ。秋山も、千夏も、その中に混じっている。
誰もがひと目で分かったはずだ。高槻 美咲、彼女の名前を。
けれど、前のような容姿はもうない。右目には眼帯があり、腕や足には包帯が巻かれている。かつての美貌は影を潜め、髪はサラサラとしていても、それ以外の特徴はほとんど分からない。
教室のざわめきが、遠くでこだまするように聞こえた。みんなの注目が、彼女を特別な存在として照らし出している。だけど、それは輝かしい視線出ない、軽蔑、同情、あるいは──。
教室に入った瞬間、空気がひやりと変わった。
「ね、あれ、美咲?」
「まじ、……ちょうブスやん」
「ざまぁないわ……中学の時あんなに偉そうにしたのに」
ひそひそ声があちこちで漏れ、やがて笑い声へと変わっていく。
中学時代、美咲にこき使われていた女子たちが、揃って彼女を指差すように嘲笑していた。待ちに待った瞬間が来たとでも言わんばかりに、顔を歪めて。
その光景を見て、俺も胸の奥がざわついた。
正直なところ、「ざまぁ」と思った。俺だって、美咲にいじめられた側の一人だったから。彼女の言葉や態度に振り回され、惨めな思いをしたことは一度や二度じゃない。
だから、笑われて当然だ、そう頭のどこかで思った。
教室のざわめきは、一段と悪意を帯びて広がった。
「しかも、美咲、教室で淫行したらしいよ。なんか変な陰キャに胸とか触らして、お金奪っていたらしい」
「まじ?やばァ……股軽い女じゃん、つーか絶対パパ活してるでしょ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏にあの写真がよぎった。
あの時、美咲が俺に触れさせたあの写真。胸元が綺麗に切り抜かれ、ネット上に拡散されていた。俺の顔は分からないが、彼女の可愛さは隠せず、だからこそ余計に注目を集める。
ネットではすぐに削除され、大事にはならなかったが、周囲の連中にはごまかしきれない事実として見えてしまう。
「陰キャ相手に胸とかまた開いて、お金稼いでたらしいよ」
「あ、そういえば美咲って元令嬢よね?でもお父さんの会社が倒産して……今じゃあのザマ……いい気味ね」
教室中に広がる嘲笑の波。
けれど、美咲はまったく動じていないように見えた。
気にしていないのか、それとも必死に耐えているのか、無言で顔を下に向けながら、自分の席へと歩こうとしている。
美咲は頭が良かったはずだ、それなのに何故この学校に。
その瞬間、彼女の足がもつれ、床に倒れた。
――俺のすぐ隣で。
「あっはぁ〜ごめんね」
下卑た笑みを浮かべるのは千夏。中学時代からの親友だった女だ。
だが今の笑みは、かつての無邪気さとは違う。冷たく、いやらしく、相手を踏みにじる快楽のようなものが滲んでいた。
本当に、女性という生き物は怖い。
その瞬間、美咲は小さな声で何やらブツブツとつぶやき始めた。
「チョコレート1個… 幸せ1個… チョコレート1個… 幸せ1個…」
誰にも聞こえないかのように、右手を胸に押し当て、必死に、繰り返し言い聞かせている。痛々しくも、何かに縋るような必死さがあった。
「……あんたさ、何言ってんの、気味悪い」
千夏の声とともに、水筒が美咲の頭からかけられた。冷たい水が肩にかかり、美咲は一瞬動きを止める。
「ご、ごめんなさない……」
小さく謝る声は、震えていて、普段の彼女からは想像もできない弱々しさだ、慌てて席に向かい、俺の隣に座る。
運が悪い、と思った。神様なんて、きっと存在しないだろう。
けれど、不思議なことに、美咲は俺に気づいている様子はなかった。
いや、違う。
美咲は周りをまったく見ていない。目を伏せたまま、顔を上げることもなく、自分の世界に閉じこもっている。そもそも、なんで高校に来たのか、その理由すら、俺には見えなかった。
噂によれば、美咲がこの高校に入ったタイミングで、父親の会社が倒産したらしい。
それなら、ササッと働けばいいじゃないか、そう思わないでもない。いや、正直言えば俺も同じ状況だ。金を稼ぎ、自立するしか道はない。
今の時代、中卒じゃ生きていくのは厳しい。だから、こうして高校に通っている。
この高校は偏差値が高いわけじゃない。頭が悪くても、誰でも簡単に卒業できる場所だ。学費もそこまで高くない。だから、俺はここを選んだ。自分でアパートを借りて生活費を稼ぐ身としては、負担が少ないのは大事な条件だ。
美咲も、同じ理由でこの高校に来ているのだろうか。
「ね、ね、みさちゃん。今日よく学校来たね。最近休んでいたから心配してたんだよ……また、例の件よろしくね。」
千夏の言葉が空気を切り裂くように響いた。
そして彼女はちらっと俺の方を見やった。
その視線は、「黙って見てろよ」と言わんばかりだ。
こっちみんな。臭い。
次の瞬間、グイッと千夏は美咲の頭を押し込んだ。
不意を突かれた美咲は、抵抗もできずに小さく「は、はい」とだけ声を漏らす。
「はい、よしよし」
千夏は猫をからかうみたいに美咲の髪をわざとガサガサと乱した。
その手は乱暴で、容赦がない。かつては親友だったはずの手が、今はただ支配と嘲笑を刻みつけていた。
周囲は笑いもせず、ただ見ているだけ。
俺も止める仲ではない。
むしろ胸の奥底で、どす黒い感情がゆらめいていた。
俺を笑い者にし、机を蹴り飛ばし、鉛筆を折って面白がっていた女、その美咲が今は押し込められ、髪を乱されている。
ざまあみろ。
口にこそ出さないが、心の奥でそう呟く。
正義感なんてない。助ける理由もない。
俺がどれほど惨めにされたか、誰も覚えていない。
けれど、俺だけは忘れられない。あの時の屈辱を。
だから、これは報いだ。
俺が手を下すまでもなく、勝手に転げ落ちていくのなら、それでいい。
今度はお前が虐めれる番なんだよ美咲。




