第9話 ギルドの依頼が意味不明すぎて、スピードラン大会になった件
朝のギルドは、いつもより一段とうるさかった。掲示板の前に人だかり、押し合いへし合い、紙は新雪みたいに真っ白で、誰かが踏めばすぐに足跡がつく。ざわめきの粒の大きさが、いつもの依頼とは違うのを教えてくれる。戦場の前の緊張……ではなく、学園祭の出店前のワクワク。何が起きてるんだ、と背伸びしながら前へ出た俺たちは、最前列で固まった。
「依頼:井戸の水を“やや冷たく”“ちょっと甘く”せよ(午前中まで)」
「依頼:町外れの案内板の“矢印だけ九十度回転”」
「依頼:城下の猫“三匹だけ”捕獲。四匹目は捕るな」
「依頼:広場の鳩、スタートの合図で一斉に飛ばせ」
意味がわからない。単語はわかるのに、並べると脳が拒否する。隣で筋骨隆々の兄ちゃんが「むずっ」と短く呻き、剣の柄をかきむしった。剣の出番、なさそうだぞ。
受付のカウンターでいつもの嬢が、まるで朝のニュースを読むみたいに爽やかに言った。
「最近、ギルド上層部が“市民満足度の可視化”を始めまして。難しい依頼は減らし、日常の“ちょっと困った”を解決して士気を上げる方針です」
「その“ちょっと困った”を量産してるの、上層部じゃないですよね?」
「そんなまさか」
目が笑ってる。信用していい微笑みと、距離を取るべき微笑みの区別が、だんだんつくようになってしまった自分が悲しい。
メリアはもう帽子を押さえて跳ねている。
「面白そう! ミッションいっぱい!」
ルミナは胸を張り、人差し指を高く掲げた。
「神、日常の小さな幸せに寄り添いたい!」
「宣言が宗教改革っぽいからボリューム下げて」
ノワは尻尾で俺の手の甲をちょんと突き、目だけで笑った。
「効率よく回らないと、日が暮れるね」
肩の棒――ルートロッドが、珍しく食い気味に言う。
「やるぞ」
「今日いちばんやる気あるの棒なんだよな」
掲示板の紙を四枚、矢継ぎ早にもぎ取って、俺たちは顔を寄せた。段取りを組むのは俺の仕事だ。順番、距離、時間、必要なもの。いちど深呼吸をして、頭の中の空き地に白線を引く。
「作戦名:朝から晩まで“全制覇スピードラン”。順番は井戸→案内板→猫→鳩。午前中のうちに井戸を終わらせたい。案内板は道すがら。猫と鳩は昼過ぎの方が人出がある。人に頼った方が早い」
「いい。神、走る」
「走らない。走らないって学んだだろ」
「神、早歩きする」
「それはいい」
道具袋に縄、布袋、チョーク、空の水筒、パンくず、針金。俺は棒を肩から外して、掌に乗せた。木目が静かに脈を打つみたいに見えた。今日は叩かない日だ。押して、待つ。撫でて、合わせる。昨日、鍛冶場で覚えたやつだ。
◇
最初の現場は、城門の内側にある共同井戸。朝の光が石の輪っかの縁を白く焼き、桶の縄がきいと鳴く。周りに集まっているのは、主婦、子ども、旅人、犬。犬は舌を出して見学している。
「“やや冷たく”“ちょっと甘く”」
俺は紙を確認してから、メリアを見る。
「小さく、優しくね」
「任せて」
メリアが両手を井戸の縁にかざし、目を細める。唇が小さく動く。
「ほんのひとかけらの甘さよ、口の先にだけ残れ。氷は角を丸くして、歯を驚かせない。人が“おいしい”って言う、そのちょっと手前で止まれ」
魔法というより、お願いに近い。彼女の魔力が井戸の水面をなでると、波紋が広がり、日差しがそれに乗って踊った。俺はバケツで一杯汲み、そっと一口。冷たい。けど、刺さらない。甘い。けど、甘すぎない。舌の先に、ほんの気配だけが残る。水が「よく来たね」と笑いかけてくるみたいだ。
「うまっ」
思わず声が出た。周りの人にも回す。最初に飲んだのは、井戸の番をしているばあさんだ。皺の間に笑いがほどけていく。
「夏の最後の木陰みたいな味だねぇ」
「表現力がすごい」
棒が珍しく真顔で褒めた。
「天才は、世界に優しい」
メリアが照れて帽子をきゅっと下げる。犬は尻尾で地面を叩いた。多分犬語でも「ナイス」と言っている。
記録と証人のサイン。受付で揉めないように、これ大事。俺は紙の端に時間を書き込み、次へ。
◇
町外れの案内板は、風で傾いた古い木の柱に取り付けられたものだった。重ねた板の上に「城下」「湖」「鉱山」と焼き文字。矢印を九十度回せって、どういう用事の人なんだろう。迷わせる気満々じゃないか。
「矢印だけ、だよね」
「そう。土台は触るなって書いてある」
俺とノワで支柱を押さえ、棒をジャッキにして矢印板の下側に差し込む。ルミナが縄を持って、ぐるぐる回して準備万端。メリアが釘のサビを水でふやかす。段取りはきれいだ。
「では、神の合図で」
「三、二、いち、ゼロ!」
「速い速い速い!」
掛け声のスピードが前のめりすぎて、矢印は九十度を通過した勢いで百二十度まで回転してしまった。通りかかった荷馬車の親父が「あれ?」と首をかしげる。やばい。
「ごめん! 百二十度の祝福!」
「祝福に角度の概念を持ち込むな」
慌てて戻し、今度は棒の伸縮で微調整。ぴたり。矢印は気持ちよく“城下”を示した。親父が安心した顔で頷く。
「おぉ、わかりやすくなった。さっきの方向に行くと崖だったからな」
「危ないところだった」
「神、間一髪を救った」
「救ったというより作った気もするけど、結果オーライ」
板の陰から、こっそり見ていた子どもが拍手してくれた。俺たちはぺこりと頭を下げ、次へ。
◇
猫三匹だけ捕獲。これが一番の曲者だった。場所は城下の広場。ベンチの下に、白、灰、ぶち。日向で昼寝のスイッチを入れている。四匹目は少し離れた石畳の上で、尻尾をぴこんと動かしながら様子をうかがっている。
「三匹だけ……ってことは、数を間違えると無効?」
「受付の字だと、報酬条件に“厳守”って書いてある」
「誰のこだわりだ」
ノワがしゃがんで、猫語っぽい変な音を出した。喉の奥でぐるぐる鳴らすような、柔らかい音。白猫が薄目を開け、ゆっくり伸びをする。メリアがそっと風で背を押す。俺は布袋を広げ、タイミングを合わせる。
「いち、に……」
袋にするり。灰も、ぶちも、うまく入った。袋の中で丸くなる気配。重さが可愛い。問題は、四匹目だ。僕も、と言いたげにこっちを見て、鳴いた。短く、寂しそうに。
「四匹目、かわいそう……」
メリアが眉を下げる。ルミナが困った顔で空を見上げる。俺も、胸のどこかがきゅっとなる。
そこで棒が、低く言った。
「“捕るな”は報酬条件。だが“世話をするな”とは書いていない」
「なるほど」
俺たちはベンチの影に小さな皿を置き、パン屋でもらった牛乳を注いだ。四匹目は耳を横に寝かせて警戒したが、やがて一歩、二歩。舌で表面をぺろり。喉が、ごろごろ言い出した。可愛すぎてレベルが上がりそう。ノワがそっと頭を撫で、耳元で小さく囁く。
「今日はここまで。またね」
猫は一度だけこちらを見上げ、尻尾をきゅっと曲げた。
捕獲した三匹は、依頼主の印をもらって解放。ベンチの下へ走り、四匹目と鼻を合わせる。鼻先をこつんとつけてから、四匹で絡まって寝た。よし、これで文句はない。俺たちは静かにその場を離れた。離れながら、胸の中の“もやっ”が、“ほわっ”に変わるのを感じる。優しさは、効く。
◇
最後の大物、「鳩一斉フライト」。広場の中央に立って、俺は敵の姿を見渡す。敵というのは語弊があるが、鳩の集団は意志を持った雲みたいなものだ。気まぐれに膨らみ、気まぐれに割れる。人間の合図に従うようなやわな生き物ではない。こっちが勝手に段取りを決めても、最後に笑うのはだいたい鳩だ。
「合図で一斉に、ねぇ」
ルミナが両手を広げ、気合いを入れる。
「せーのっ!」
鳩は三羽だけ飛んだ。残りは地面のパン屑に夢中。メリアが空に薄い光の線を描く。ノワがパン屑を輪の向こうへ投げる。俺は地面を軽く叩く。鳩は自由だ。俺は自由が好きだが、いまは揃ってほしい。
時間が迫る。俺たちの周りに、何となく期待の人垣ができ始めている。最初の井戸を飲んだばあさんまで来て「鳩だよ鳩」と孫に言っている。誰が広めたのか、噂の伝播速度おそるべし。
棒が、俺の肩を小突いた。
「風を一本に束ねろ。鳩の視線をそろえろ。音――リズムだ」
「リズム?」
「心臓は勝手に叩く。街は勝手に鳴ってる。合わせろ」
俺は息を吸って、胸の中で太鼓を鳴らした。どん、どどん、どん。鍛冶場の火、橋の揺れ、皿洗いのテンポ。身体が覚えている“均し”のリズムを、脚の裏から地面に流す。
ぺちっ。ぺちっ。ぺち。
棒の音は不思議と遠くまで通る。音は飛ばない。地面を走る。鳩の首が、音の方へ同じ角度で傾いた。視線が揃う。メリアが合図を見て、虹色の小さな輪を空に一瞬だけ描く。ノワが輪の向こうにパン屑を投げる。ルミナが、今度こそぴったりのタイミングで言った。
「せーのっ」
瞬間、鳩が一斉に舞い上がった。白と灰の翼が重なって、虹の輪をくぐり、空に散る。鳩の羽音が、雨の前触れみたいにふわっと降ってくる。広場から歓声。ばあさんが孫と一緒に手を叩き、筋肉兄ちゃんが「おおぉ」と素直に感嘆し、子どもたちが走り出す。俺は拳を突き上げ、隣でメリアが帽子を放り投げ、ノワがそれを空中でキャッチした。ルミナは涙ぐみながら拍手している。拍手の波が、心臓のリズムに重なる。決まった。男子が好きな“きれいに決める瞬間”が、ちゃんと決まった。
その流れで、鳩の絵を描いて売ってるおじさんが俺たちにスケッチをくれた。鳩が輪をくぐる瞬間の、誇張のない誇張。あの場にいた全員の「わぁ」が紙に残っている。こういうおまけは、疲れをマイナスにする。
◇
夕方。ギルドに戻ると、受付嬢が親指を立てた。
「本日、依頼達成数トップ。臨時ボーナスも出ます」
「やった」
小袋が卓に積まれ、金属が触れ合う音が、汗腺の奥の方で甘く響く。ルミナが跳ね、メリアは猫のスケッチを手帳に貼り、ノワは伸びをする。棒は静かだが、俺が「楽しかったな」と言うと、小さく「うむ」と返した。棒の「うむ」は、五十点でも百点でもなく、今日の俺たちにちょうどいい合格印だ。
「ところで」
受付嬢が少し身を乗り出した。
「“依頼:井戸の水をやや冷たくちょっと甘く”は、今日が最後かもしれません」
「え、なぜ」
「評判がよすぎて、列ができすぎまして。明日から“やや冷たく”だけに戻すそうです。甘くは、たまにでいいって」
「まあ、そうだな」
毎日アイスは飽きる。たまにだから、最高。わかる。人間の舌はワガママで賢い。
カウンターの端でバルド(魔王軍研修で出会った筋肉)が手を振っていた。今日も腕が太い。
「お前ら、見たぞ。鳩、揃ってて気持ちよかった。筋肉もああやって揃うと気持ちいい」
「筋肉の話に持っていくのやめろ」
「持っていかなくても筋肉はそこにある」
脳筋の哲学、嫌いじゃない。
報酬を袋に分け、宿へ向かう。夕暮れの風が、昼の熱をやわらげている。市場では今日最後の値引き合戦、食堂からはスープの匂い、学童の前で親が手を振り、広場では鳩がもう自由に歩いている。さっきの一糸乱れぬ隊列は跡形もない。いい。日常は、だいたい乱れているのがちょうどいい。
◇
宿の前のベンチに座り、今日の収穫を袋から出して数える。足りなかった登録料の穴は、昨日の大道芸と合わせて埋まった。俺はカードの角を指で撫で、縁のざらつきに、仕事の手触りを重ねる。ルミナがパンをちぎってみんなに配り、メリアがミルクで乾杯の真似事をし、ノワが猫のスケッチをもう一度眺める。棒は壁に立てかけられ、風の音に合わせてほんの少し揺れた。
「ねえカイル」
ルミナが半分眠そうな声で言う。
「今日みたいな日、神は好き」
「知ってる」
「人を助けて、笑ってもらって、ちょっとお金になって、ご飯が美味しい。戦わなくても、強くなった気がする」
「わかる。段取りの筋肉ついた感じ」
「筋肉?」
いつの間にかバルドが背後に立っていて、反射で身構える。
「段取りも筋肉だ。いい言葉だ。筋トレに応用できる」
「何でも筋トレに応用しないで」
「できるものは全部筋トレだ」
「それは怖い」
笑いながら、ふと思い出した顔があった。朝、井戸の水を飲んだばあさんだ。あの「夏の最後の木陰」という表現。あれを言うための“ちょっと甘い”。俺たちは一日走って、あの一言のために働いた気がする。働く前より、街の風の味がはっきりしている。鼻の奥に、塩と小麦と、夕暮れの土の匂いが混ざっていた。
部屋に戻って靴を脱ぐと、足が声を上げた。ベッドに倒れ込む前に、棒が小さく呼ぶ。
「カイル」
「ん」
「今日、叩かなかったな」
「叩かないで済むなら、その方がいい日だ」
「叩く日も来る。だが、“叩かなくて済むために段取りする”は、もっと上の技だ」
「覚えとく」
「礼は二回だ」
「今日と、明日」
「明日は?」
「また働く。笑うために」
「よろしい」
灯りを落とす前、ノワが窓の外を指さした。
「ほら、鳩」
さっきの輪をくぐった鳩が、屋根の縁に並んでいる。図らずも、揃っていた。三羽と、少し離れて一羽。四羽目だけ、距離を保っている。昼の猫みたいだ。離れていても、同じ場所を見る仲間。ふふ、と笑って、目を閉じた。
夢の手前で、思いついたことを棒に言う。
「スピードランってさ、全部を最速で終わらせる競争だと思ってたけど」
「違うのか」
「“最速”をやるために、“最小”を見つける競争かもしれない。“ちょっと甘く”“やや冷たく”“三匹だけ”“せーの”。今日の勝ち筋、全部“小さくてちょうどいい”だった」
「なるほど」
棒の木目の奥で、低い音が鳴った。火床みたいな音だ。
「それを覚えておけ。強い武器は大きく勝つ。だが、生き延びる者は“小さく勝つ”を積む」
「うん」
外の通りが静かになり、遠くの鐘が一度だけ鳴った。ルミナが寝言で「九十度」と呟き、メリアが「ちょっと」と返事して、ノワがくすっと笑った。俺は布団を肩まで引き上げ、カードのざらつきを指先で確かめた。財布は軽い。心は満ちている。今日の俺たちは、バカみたいに全力で走って、ちゃんと“ちょうどいい”にブレーキをかけた。そういう日が増えたら、戦わないで済む日も増えるかもしれない。
――いい一日だった。
そして、明日はもっといい一日にする。
初期装備のくせに、世界の人たちと息を合わせるスキルが、たぶん最強だ。そう思いながら、眠りに落ちた。




