第6話 魔王軍の新人研修に紛れ込み、福利厚生の良さに揺れる
昼下がり。
ギルドの掲示板に貼られた地図の前で、俺はしばらく立ち尽くしていた。昨日のダンジョンで覚えた“順番”の感覚がまだ手の中に残っている。入口は怖い。けど、入口を越えないと何も始まらない。そんなことを反芻していると、背後から低い声が落ちてきた。
「新人の方ですね? 研修はあちらのホールになります」
振り向くと、黒い上着に黒いズボン。胸元には銀糸で「魔王軍人事部」と刺繍されたバッジ。冗談みたいな本気だ。
俺が「違います」と言うより早く、ルミナが一歩前へ出て腕を組んだ。
「はい、新人です」
「いや違うだろ」
「お茶の試飲だけでも参加するノリだよ。ほら、無料配布あるかも」
「魔王軍の無料配布とは」
男は丁寧に頭を下げ、会場の入口を指さした。
そこはギルドの角を曲がってすぐ。のぼり旗には金色の文字で「ようこそ、安心と挑戦の魔王軍へ」。本当に企業説明会の空気が出ている。
好奇心が勝った俺たちは、流れに押されるままホールへ足を踏み入れた。棒――ルートロッドは肩に乗せたまま沈黙。沈黙ほど不安を煽るものはない。
広い会場。立派な舞台。後方には光る板。説明担当の男がマイクを持って、落ち着いた声で話し始めた。
「本日はお忙しいところお集まりいただき、ありがとうございます。魔王軍のビジョンは“暮らしを守り、笑いを増やす”。まずは福利厚生のご紹介から――」
スライドが切り替わるたび、会場の空気がどよめく。
完全週休二日。有給は消化推奨。家族手当。通勤用のグリフォン貸与。医療と相談窓口。そして食堂の定食は栄養バランス満点で一食一ゴルド。
ルミナが俺の袖を引き、小声で囁く。
「人間より福利厚生いい」
「黙って」
「グリフォン通勤、髪が乱れそう」
「そこかよ」
隣の席に、ふわっと影が落ちた。ノワだ。いつの間にか、猫のような無音で現れて椅子に座っている。
「来ちゃった。これは見せたいと思ってた」
「何を」
「人間が“魔王軍=悪”って一枚で切っちゃうの、ちょっと損だよってこと」
ノワは前方を見たまま、尻尾の先で椅子の脚をこつんと叩いた。
棒が肩で低く呟く。
「お前、善悪の判断を福利厚生で揺らすな」
「揺れてない。ふわっとしてるだけ」
「それを揺らぐと言う」
説明は驚くほどしっかりしていた。
現場の安全対策、休憩の取り方、相談員の配置。過激なスローガンは一つもない。代わりに、働く者の身体と心を守る仕組みが並ぶ。
「わたしたちは、戦う時は戦う。でも、生活を守ることをやめない」
司会者の言い切りは、やけに静かで、やけに真っ直ぐだった。
自己紹介タイムがやって来た。
前の席の大男が立ち上がる。
「バルドです。筋肉が趣味です」
趣味の規模が違う。彼は二の腕をぐるぐる回し、豪快に笑った。場が少し温まる。
その流れで、俺に順番が回ってくる。
「カイルです。初期装備で頑張ってます」
会場がざわつく。司会者が興味津々で身を乗り出す。
「初期装備? どんな?」
俺は肩の棒を掲げた。棒は小声で「やめろ、目立つ」と言ったが、もう遅い。
「せっかくですので、デモンストレーションを」
舞台袖から声。補助の兵士が、舞台の隅に木の台を運び込む。
嫌な汗が背中を伝う。俺は深呼吸した。
「軽くでいい。床を叩く時は、手首から先じゃなく、肩と腰を一緒に落とせ」
棒が穏やかに言う。
俺はうなずき、台の端を、ほんの少し。
ぺち。
木目が鳴き、ほこりがふわりと舞い、微かな音が響いた。
爆発はしない。
ほっとする会場。
俺は短く言った。
「初期装備でも、丁寧に使えば役に立つ。そう教わって」
棒が、ほんの少しだけ誇らしげに震えた気がした。
拍手が起きる。バルドが親指を立て、ノワが口角を上げ、ルミナが「うちの子、やればできる」と親みたいな顔で頷く。親ではない。
休憩。
「食堂の見学になります」
案内に従って廊下を曲がると、そこは香りの天国だった。
揚げたてのコロッケの音。煮込んだスープの湯気。焼けたパンの表面が歌う。
俺の初期装備心は、揚げ物に弱い。
ノワが胸を張る。
「うちの食堂、美味しいよ」
「“うち”って言った」
「だって“うち”だもん」
ルミナが財布を取り出し、空を見つめる。
「食券買う余裕はない」
「今日は見学だけ」
棒がくいっと俺の背に押しを入れる。
「行け。食べろ。たまには贅沢しろ」
「棒が誘惑してくる」
「木は揚げ物に弱い。油を吸う」
「理屈が気持ち悪い」
誘惑をかわし、俺たちは見学だけで食堂を後にした。
午後は適性検査。
配られた紙の項目は、予想外に人間くさかった。
「爆発へ耐性があるか」
「失敗を笑えるか」
「仲間の欠点を愛せるか」
俺、全部満点の自信がある。
試しに鉛筆を走らせてみると、係員が本気の目で近づいて来た。
「ぜひ、我が軍へ」
「はやい」
「うちには、失敗後の後始末を笑ってできる人材が必要なんです」
「褒められてるのか、傷口を撫でられてるのか」
「両方です」
横からバルドが肩を組む。
「一緒に筋トレしようぜ。まずは飯。筋肉は飯から」
誘い方が直球だ。腹が鳴りそうになる。
ノワは笑って肩をすくめる。
「人間も魔族も、ちゃんと働けば誰かの役に立つ。それでいいと思う」
ルミナは少しだけ震える声で言った。
「でも、わたしたち、魔王を倒す側じゃないの?」
会場の空気が一瞬だけ重くなった。
司会者は笑顔を保ったまま、少しだけ声を落とす。
「敵対は制度です。けれど、制度を運用するのは人です。わたしたちは生活を守りたいだけ。戦う時は戦う。でも、笑える時は笑いたい」
「笑える時」
その言葉が、腹の底に落ちていった。
俺たちは今、笑っている。なら、今は敵じゃない。
プログラムの最後は、簡易演習だった。
会場隅の仕切りの向こうで、模擬の突入訓練。大声禁止。迅速撤退の練習。
俺たちは見学だけのはずだったのに、気づけばルミナはヘルメットを被らされ、メリアは小さな盾を渡され、俺の手には白い布。
「負傷者役です。運んでください」
係員の笑顔が眩しい。
「ちょっと、勝手に役を」
「倒れた仲間を静かに運ぶ練習。声は出さず、目線で合図」
ルミナが目をまんまるにする。
「目線で……えいっ」
なぜかウインクが飛ぶ。違う、そういう合図じゃない。
メリアが真顔で頷いて、俺の袖を軽く引いた。
「左に二歩」
「了解」
棒が肩で短く音を立てる。
「足の裏、音を殺せ。重心はかかとから親指に流す」
「棒のくせに足裏指導すんな」
「木は地面と友達だ」
白い布の端を持って運ぶ。
思ったより重心がぶれる。沈黙で合図を交わす難しさに、額に汗がにじむ。
「止まる」
「置く」
「支える」
短い言葉で、体が噛み合っていく。
練習が終わる頃、司会者が拍手した。
「素晴らしい。静かに、速く、美しかった」
褒められて、少し照れた。
休憩室に戻る途中、廊下の窓からグラウンドが見えた。
端の方で、小さな集団が輪になって座っている。
ノワが顎でそちらを示した。
「新人の、悩みごとシェアの時間」
「そんなのまであるのか」
「怖がりを隠さない練習だって」
輪の中の誰かが、膝を抱えてゆっくり喋る。誰かは黙って聞く。誰かは鼻で笑って、でも隣の背中を軽く叩く。
戦う前に、戦わない練習をしてるみたいだ。
日が傾き、プログラムの締め。
司会者が小さな封筒を配る。
「困ったら、相談室へ。食堂だけの利用も歓迎です」
封筒の中には、白いカードが一枚。角が丸く削られて、手触りがいい。
ノワは自分のカードを指で弾いて、俺の手にもう一枚押し込んできた。
「予備。緊急用コロッケ券、みたいなもの」
「正式名称ではないよね」
「だからこそ覚えやすいでしょ」
帰り際、バルドがもう一度肩を叩いた。
「筋トレは裏切らない。悩んだら、まず飯。次に寝る。最後に動く」
「順番、か」
「そう。順番」
昨日の石積みが頭をよぎる。入口も、爆発も、順番で変わる。たぶん、戦いも。
会場を出ると、街はオレンジ色に染まっていた。
グリフォンが空を横切り、遠くの屋台から甘い匂い。
ルミナがぽつりと言う。
「ねえカイル。わたしたち、どうして戦うんだっけ?」
俺は少しだけ考えてから、口を開いた。
「戦うために戦わない。笑うために、戦わずに済む道を探す。たぶん、そう」
棒がやわらかく肩に寄りかかる。
「なら、明日も笑えるように、今日も働け」
「了解」
夕暮れの風が頬を撫でる。
角を曲がると、ノワが猫を抱いて立っていた。
「どうだった?」
「福利厚生が強かった」
「だよね」
「危うく入隊しそうになった」
「うち、いい職場だもん」
「さらっと陣営を漏らすな」
ノワは肩をすくめた。
「制度が敵でも、人は敵じゃない日がある。今日は多分、その日」
「……そうだな」
ギルドに戻ると、受付嬢が「どうでした?」と首を傾げる。
「コロッケの匂いがやばかったです」
「そこですか」
彼女は笑い、今日の雑務を一つ回してくれた。
「広場の片付け、手伝ってくれたら、残り物のパンが出ます」
「やります」
パンのために動く冒険者。立派な動機だ。
日が沈みきる前に仕事を終え、宿へ。
机にカードを並べ、財布にそっとしまう。
ルミナが布団にダイブし、仰向けのまま天井を見つめた。
「ねえ、カイル。もしも、魔王軍の食堂だけ使ったら、裏切り?」
「裏切りじゃない。多分、胃袋の外交」
「いい言葉」
「俺が考えた」
「偉い」
棒が壁から低く笑う。
「胃袋が満ちれば、暴発も減る」
「医学みたいに言うな」
「木学だ」
灯りを落とす前、ルミナが小さな声で言った。
「今日、ちょっと怖かった。制度って言葉が出てきた時」
「わかる」
「でも、笑ってた。司会者も、新人も、バルドも。笑ってた」
「笑える時は、敵じゃない」
自分で言って、自分でうなずく。
メリアの帽子の焦げ穴、ノワの渡してくれたカード、バルドの分厚い手。今日の景色が、ひとつの袋にまとめられて胸に入る。
棒が俺の名を呼ぶ。
「カイル」
「ん」
「お前は、どこにいても“初期装備”でいることを忘れるな」
「うん」
「初期装備は、不足の言い訳ではない。選び方の話だ」
「選び方」
「足りないから、手を伸ばす。足りてないから、笑う。足りないから、一緒にやる」
「……それ、今日の締めにちょうどいいな」
「家具は締めが上手い」
「導き手な」
窓の外、遠くでグリフォンの羽が鳴った。
明日は学院で水の訓練。終わったら、また石を積むように、少しだけ前へ。
福利厚生に心が揺れたのは事実だ。でも、それに負けないくらい、自分たちの日常を豊かにすればいい。
初期装備で。笑いながら。
そのために、明日も働く。
目を閉じる。
眠りに落ちる前、胃袋がコロッケの残り香を思い出して、ちょっと鳴った。
俺は笑って、布団をかぶった。
――いい一日だった。
そして、明日はもっといい一日にする。




