第5話 初ダンジョンへ。入口で爆破は風物詩じゃない
朝いちばん、ギルドの掲示板がざわついていた。
「近郊ダンジョンの偵察。初心者向け、危険度・低」
紙の端に、やたら安心させる言葉が並んでいる。入口だけ確認して戻る簡単なお仕事、と書いてあった。簡単、という字は、楽勝じゃなくて“油断しやすい”の顔をしている。けど、どこかで踏み出さないと冒険は始まらない。
「行く」
俺は手を挙げた。心臓が小さく鳴る。
隣でルミナが顔を青くする。
「入口って、危険がいっぱいだよ。入口はだいたい全部の物語の“つまづきポイント”だよ」
「そこを乗り越えないと、物語が始まらない」
棒――ルートロッドは無言。沈黙がいちばん怖い。
メリアはぴょん、と跳ねた。焦げ穴の増えた帽子を押さえながら、目はきらきら。
「やる。野外の魔法、勉強したい」
受付嬢が俺たちを見て、親戚のおばさんみたいな笑みを浮かべる。
「カイルさんたちなら大丈夫。昨日“爆発しない”実績、積みましたし」
評価軸のクセが強い。
ダンジョンは街から外れた森の根元、苔むした岩の口だった。
近づくほど空気がひんやりして、音が吸い込まれていく。石段は湿っていて、蔦が頭上で合掌している。入口の横の岩には、彫り跡の古い注意書き。
「火気厳禁」「大声厳禁」「初見厳禁」
最後のやつは初めて見た。
「初めての人が多いと、ドキドキが空気に混ざってモンスターが活性化する、っていう俗説」
メリアが小声で解説する。
「理屈はよくわからないけど、納得はするな」
「つまり、落ち着けってこと」
棒が短く言った。声が木目の奥から響いた。
俺たちは階段の前で、息を合わせた。
「入ったら、声は小さく。走らない。戻る合図は二回叩く音」
「了解」
ルミナは胸に手を当てて祈る仕草をする。
「今日、入口では爆発しません」
「宣言型のおまじない、好きだ」
最初の廊下は、ひそひそしていた。壁一面に小さな光苔が点々と輝いて、足音が思ったより遠くまで届く。湿った土と古い石の匂い。鼻の奥に少しだけ冷たさが残る。
曲がり角の先、ゼリー色の塊が一匹。こっちを見て、ぷるると震えた。
俺は棒をゆるく構え、肩を落として、軽く。
ぺち。
音は小さく、スライムは静かに弾けて、静かに消えた。
「今日はいい日かも」
メリアが囁く。
「縁起でもないことを言うな。いい日は言うと逃げる」
棒が渋く釘を刺す。たしかに、いい日って口にした瞬間にこけるのが人生あるあるだ。
廊下の先は、小さな小部屋だった。空気がほんの少し動いている。
壁の脇に、拳大の穴。ひんやりした風が出入りしていて、遠くで水の滴る音がする。
「出口側とつながってる穴かも」
メリアが目を細めて覗き込む。
ルミナは興味津々で小石を拾った。
「もしもーし」
ぽとん。石が奥で跳ね、少し間をおいて、どこかでかすかに「カン」と鳴った。
その瞬間、床が低く唸った。
天井の砂が、ぱら、ぱらと落ちる。
棒が鋭く叫ぶ。
「伏せろ」
ドン、と圧が来た。
空気が押し寄せて、背中まで震えた。小さい、でも近い爆発。
通路の向こう、入口に近い方角で土煙が立ちのぼる。
俺はメリアの肩を抱いて転がり込み、ルミナは半拍遅れて俺の背中にしがみついた。
砂が頬に当たり、ひやりと冷たい。
数秒後、音はぴたりと止んだ。耳の奥で自分の鼓動だけがうるさい。
「入口、崩れた……かも」
ルミナの声が震える。
「風物詩みたいに言うな。初回限定で十分だ」
俺たちは急いで引き返した。
崩落は“完全に”ではなかった。岩と土が積み重なって、すりガラスみたいに向こうの光を細く見せている。
棒が低く言う。
「落ち着け。石は積めば戻る。力じゃなくて、順番だ」
「順番?」
「下から、重ねて、支えて、抜かない。焦るな」
メリアが帽子を脱ぎ、髪を結び直した。目が据わっている。
「やる」
俺はしゃがみ込み、丸い石から順に手をかけた。
「まず左の平たいの。それで上の三角が安定する」
棒が指示を出す。
俺は指に力を込め、石の重みを掌で受けた。重い。でも持てる。
メリアが横から支え、ルミナが祈りで砂を固める。砂は手のひらサイズの板みたいにまとまって、支え木の代わりになる。
「これ便利」
「祈りは便利じゃない。真剣だよ」
「便利で真剣」
「……まあ、そう」
石は我慢強かった。俺たちの手の動きに合わせて、少しずつ場所を譲ってくれた。
「次、右の細いの。上に差し込んで。違う、角度が甘い」
棒は教師みたいだ。
額から汗が落ち、手の甲の砂に染みていく。
腕が震えるたび、メリアが支え、ルミナの祈りが足元を固める。
息を合わせなきゃいけないのは、戦いだけじゃない。こういう作業のほうが、むしろ合ってないと崩れる。
「はい、いったん止め」
棒の合図で皆が手を離す。崩れない。
細い隙間から風がすっと通った。頬にあたる。外だ。
「もう少し」
三人同時に笑った。笑い声は小さく、でも確かに明るい。
最後の石を持ち上げると、光が一段と強くなった。
外の色だ。草の匂いが混ざる。
俺たちは順番に身体をねじこみ、地面に腹ばいで滑り出た。
土の上に顔を出した瞬間、目が痛い。昼の光がまぶしい。
俺は両手を地面につき、大きく息を吐いた。肺の奥まで風が入ってきて、身体の砂が一度に出ていく気がした。
生きてる。五体満足。
メリアが帽子を胸に抱え、空を仰いだ。
「怖かった。でも、楽しかった」
「あのさ」
ルミナが両手を合わせ、真顔で言う。
「二度とやらない」
「お願いします」
「……でも、次はおやつ持って行こうね。血糖がないと意思が弱くなる」
十分で前言撤回。嫌いじゃない、その軽さ。
口の中をざらつかせながら森を抜けると、木陰からノワが顔を出した。
赤い瞳が細く光る。腕にはいつもの猫。
「入口、吹っ飛んだ音、聞こえたよ。森の鳥が一斉に飛んだ」
遠くまで響いたらしい。俺たち、話題を作るのだけは上手い。
ノワは袖から小さな包みを取り出した。
「魔族の塩菓子。落ち着くやつ。おばあちゃんのレシピ」
ひと口かじると、淡い甘さのあとにやさしい塩が来て、張っていた心がゆるむ。
「うまい」
「お茶請けに最高」
ルミナが目をとろりとさせる。
ノワは少しまじめな声になった。
「人間は怖いし、魔族も怖い。でも、怖い時、一緒に食べ物を分け合えたら、ちょっとだけ安心できる。おばあちゃんが、ずっとそう言ってた」
「そのおばあちゃん、会ってみたいな」
「会ったら、すぐおかわり勧められるよ。容赦ない」
それはそれで、会いたい。
街に戻る頃には、手の砂は落ち、腕の震えも引いていた。
ギルドの扉を開けると、受付嬢が顔を上げる。
「無事の顔。よくやった」
労いの言葉は短いほど染みる。
報酬の金貨は軽かった。だが今日はそれでいい。重さよりも、手触りがあった。
伝票にサインをすると、受付嬢が紙を一枚くれた。
「注意事項の追記、提出しておきます? 『小石を穴に投げない』」
「それ、大事」
ルミナが真剣に頷く。
メリアは帽子の焦げ目を指でなぞった。
「順番、ね。石って、積む順番があるんだ」
棒がこつんと床を叩く。
「命も同じだ。焦って上だけ積むと、土台が割れる」
「名言やめろ。泣きそうになる」
夕暮れ。橙色の風が通りを抜けていく。
ノワが店先で猫にミルクをあげ、俺は屋台で薄いスープをすすった。塩がやさしく舌に広がる。耳の奥では、まだダンジョンの風が鳴っている気がした。
ルミナが木の椅子に腰を下ろし、両手をひらひらさせる。
「ねえカイル、今日の学びを三つ」
「三つ?」
「三つって言うと賢そう」
「一つ目。入口で爆破は風物詩じゃない」
「標語っぽくてよい」
「二つ目。怖いときほど、声を小さく、手を大きく」
「実用的」
「三つ目。順番。力じゃなく順番」
ルミナはえへへと笑って、スープを啜った。
メリアが両手で器を温めながら、ぽつりと言う。
「わたし、火の制御も、石積みも、同じ気がしてきた」
「どう同じ」
「焦らない。風を読む。いちばん下から動かす。できたら、ちゃんと一回喜ぶ」
「一回じゃ足りない」
棒が言った。
「二回喜べ。一回目は命が繋がったことへ。二回目は、次に繋げられることへ」
「家具のくせに人生語るな」
「導き手だ」
帰り道、暮れかけた空が紫にほどけていく。
通りの端で子どもたちがチョークで絵を描いていた。
今日の俺は、土下座じゃなく、石を積んでる。棒は横で腕組みしている風。芸が細かい。
「うまいな」
「モデルがいいから」
「爆発してないから、描きやすいのかも」
子どもが笑って、白い線で俺の口元に小さな笑みを足した。
似合っている気がした。
宿に戻ると、棒を壁に立てかけ、床にごろりと転がった。
腕がじんわり重い。それが嫌じゃない。使ったぶんだけ、体が自分のもので濃くなる。
ルミナは机で今日の出費と収入を並べ、舌を出す。
「黒字。やった」
「金貨は軽いけどな」
「心のほうが重い。重いのは落ちにくい」
メリアは借りてきた古い地図を広げる。ダンジョンの入口に赤丸。
「明日、学院で水の魔法。終わったら、また少し歩きたい」
「入口はもういい」
「中も危ないよ」
「入口で学んだ“順番”、中のほうが役に立つ」
その言い方が頼もしくて、俺は笑った。
灯りを落とす前、棒がふいに話しかけてきた。
「カイル」
「ん」
「今日、お前はよかった。手の震えを、呼吸で抑えた」
「見てたのか」
「俺は木だ。風と震えには詳しい」
「……ありがとな」
「礼は二回。命と、次へ」
棒はそれ以上何も言わなかった。木目が夜の闇に溶けていく。
目を閉じる。
土の匂い、冷たい風、砂のざらつき、仲間の息づかい。
入口は怖い。けれど、入口を越えなければ何も始まらない。
爆発で目を覚ます物語もあるだろう。俺たちは“積む”ところから始める。
順番。焦らない。笑いを忘れない。
そして、入口で爆破は、風物詩じゃない。
明日はきっと、今日よりうまくやれる。
そう思って眠ると、夢の中の石段は、ちゃんと下から積まれていた。




