第3話 女神と給料日ギャンブル、そして路地裏の魔族少女
給料日、といっても俺のじゃない。
朝一番、ギルドの隅っこのテーブルで、ルミナは金貨三枚を両手のひらにのせて虹色にかざしていた。窓から射す光を受けて、金面がきらりと瞬く。俺の胃はそのたびにきゅっと縮む。金貨三枚。聞けば、彼女の信仰ポイントが月に一度だけ現金になるらしい。つまり今月の生活費。俺と棒と女神、三人分。
「投資しよう」
ルミナが背筋を伸ばして宣言した。明るい声。嫌な汗。
「やめてください」
俺の口は反射で動いた。
「いい? 女神ナビによると、今日は幸運デー。勝率は七割」
「ナビって誰だよ」
「神界のトレンドを読む小鳥」
「鳥占いで財布を賭けないでくれ」
棒――ルートロッドが机に立てかけられたまま、落ち着いた声で言う。
「失敗のフラグを建てるな。高くて派手で折れやすい」
「聞こえなーい」
ルミナは両耳を親指でふさぎ、人差し指をぷらぷら揺らした。二歳児か。
止める間に、ルミナは金貨を懐に滑り込ませ、賭場の暖簾に吸い込まれていった。
俺は棒を肩に担ぎ、追いかけるしかない。朝の路地はパン屋の匂いと、井戸端会議の笑いが交じる。賭場の前だけ空気が違った。重たく、ぬるく、誰かのため息の温度。
一時間後。
床に転がる女神がいた。
「世界は不公平」
顔だけ上向けて、天井に抗議するみたいに言う。
「床も不公平だ。冷たすぎる」
棒がため息をつく。
俺はこめかみを押さえた。こめかみの辺りに今月の家賃が見える。遠ざかっていく。スローモーションで。
「もう一回だけ」
ルミナがうつ伏せのまま呟いた。
「それは人も国も滅ぼす台詞だ」
俺は彼女の手首をつかみ、引き起こした。
「働くぞ」
「やだ。神は休むべき」
「働かない神はただの綺麗な置物だ」
「置物でも需要はある」
「一週間で埃をかぶる」
押し問答の末、俺はルミナを引きずりながら外へ出た。暖簾が背中で揺れる。心も揺れる。財布は揺らせない。
角を曲がると、小さな影が看板の陰からこちらを覗いた。赤い瞳。尖った耳。ふわふわの尻尾。
魔族の少女、ノワだ。昨日、路地で会った子。
「やっほ」
ノワは笑って、俺の棒を指差した。
「それ、やっぱり変わってる。爆発の匂いと、森の匂いと、ちょっとだけ家の匂い」
家の匂い。胸の奥がきゅっとする。遠い日の夕立ちのあとみたいな。
「こんにちは、ノワちゃん」
先に手を振ったのはルミナだった。早い。名前をもう知っているあたり、さすが神。
「この街の裏には、魔族の居住区があるんだよ。人間とは仲良くないけど、喧嘩もしない。たぶん」
「たぶんやめようよ」
「言い切っちゃうと、喧嘩が始まることがあるの」
ノワは肩をすくめ、軽く笑った。その仕草がひどく人間っぽくて、俺は少しだけ安心する。
「困ってたら手伝うよ。爆発は少ないと嬉しいけど」
「努力します」
棒がこっそり囁く。
「俺は無実だぞ。爆発の主語をはっきりさせろ」
「お前以外に誰がいる」
ギルドの掲示板に戻ると、ちょうど「祭りの準備」の依頼に赤い印が押されるところだった。今日の夕方から夏祭りだという。広場に屋台、提灯、太鼓、踊り。
「やる」
俺は即答した。働かないと、腹が鳴る。鳴ってる。
昼下がりの広場は、木の匂いと布の新しい匂いでいっぱいだった。
俺は屋台の骨組みを立て、ルミナは脚立にのぼって色布を張る。ノワは紐を器用に扱って、子どもたちに結び方を教える。棒はといえば、脚立の足をさりげなく押さえ、俺の背中を小突きつつ、時々風向きを教える。
「これでよし」
ルミナが両手を広げた瞬間、脚立がきしんだ。
「危ない」
俺は咄嗟に脚立を抱え、ルミナの足首を支えた。ルミナは小さな悲鳴をあげ、そして照れくさそうに笑った。
「ナイスキャッチ。やっぱりカイル、主人公っぽい」
「その“っぽい”は余計」
棒が脚立の足元をとん、と叩く。
「安定した。だが天井付近は風が滑る。気をつけろ」
「棒のくせに天気予報すんな」
「木は風と長い付き合いだ」
ノワは紐の端を歯で押さえ、手早く蝶を作ってみせた。
「見て。きれいでしょ」
「速いな」
「手先は器用だよ。尻尾も器用」
ノワはくるりと回って、尻尾で結び目をきゅっと締めた。子どもたちが歓声を上げる。
「魔族って、もっと怖いのかと思ってた」
俺がぽつりと言うと、ノワは肩をすくめた。
「人間も怖いよ。どっちも怖い。でもお腹が空いたら一緒に焼きそばを食べる。それでいいじゃん」
理屈より早く笑ってしまう。こういう子がいると、世界は丸くなる。角が取れて、ひとつの円になる。
水撒き、提灯つけ、机運び。汗が目に入ってしょっぱくなるたび、ルミナが袖で拭ってくれる。途中で猫が足元をすり抜け、ノワの肩によじ登った。昨日助けたあの猫だ。
「恩返しにきたのかな」
「違う。うまく撫でられる人間に甘えてるだけ」
棒が言うと、猫は棒の先に頬をすり寄せた。
「ほら、人気者」
「俺は家具じゃない」
夕方、太鼓の音が最初の一打を広場に落とした。空がゆっくり茜色に変わっていく。
屋台の灯りが順々に点き始めた。提灯の赤い輪が風に揺れる。花の香り、新しい油の匂い、肉を焼く音、笑い声。
俺たちは屋台の裏、涼しい影で少し休憩した。冷えた麦茶を一口。喉を通る冷たさが胃に落ち着く。
ルミナが遠い目で夕焼けを見た。
「ねえカイル」
「ん」
「わたし、ちょっとだけ神様やめたいかも」
唐突に危険な単語が飛んだ。棒がぴくりと揺れる。
「どういう意味だ」
ルミナは真面目な顔になって、指でコップの結露をなぞった。
「神様って、祈られるでしょ。うまくいかなかったら、笑われる。今日みたいに、賭けに負けたり、脚立から落ちそうになったり。笑われるの、慣れてるつもりだった。でも、君と一緒に働くの、少し楽しかったから。『祈られる側』じゃない感じ。こういうのも、ありかなって」
言葉が喉の奥でつっかえた。
ノワが提灯の光に目を細める。
「神様が人間のふりをして笑ってくれるなら、わたしはけっこう嬉しい」
ルミナは小さく笑った。
「ありがとう。人間のふり、似合ってる?」
「似合いすぎ。給料日ギャンブルは人間味がありすぎ」
「そこは忘れて」
その時だった。
屋台の影に、黒い外套が三つ。ゆっくり動く影。祭りの金庫の方角に滑っていく。
「カイル」
ルミナの声が低くなった。
「嫌な気配」
棒が短く言う。
「金庫狙いだ。人混みと音に紛れる。王道の手口」
俺は棒を握り、腰を落とす。ノワが踵を返すと、足音もなく別の路地へ溶けた。迂回。背後を取るつもりだ。
「暴力は良くない」
ルミナが袖を引いた。手は震えている。
「わかってる。でも守る」
俺は深呼吸を一つ。胸の中で太鼓が鳴る。自分の心臓と同じリズム。
「軽く、しなやかに、狙いは手首」
棒の声が耳の後ろに落ちた。
一歩。影の横へ。
ぺち。
乾いた音。男の手からナイフがこぼれ、地面に跳ねた。
もう一人が振り向く。俺は半歩引いて、足首を払う。
ぺち。
男の膝が折れ、地面が近づく。
「なにっ」
最後の一人が金庫の留め具に手を伸ばす。
「ノワ」
俺が呼ぶより早く、上から提灯の紐がするりと落ちた。
暗がりに沈んだ男の手が止まる。視界が揺らいだ彼の背中を、俺は軽く押す。
「寝ろ」
男はうめき、屋台の柱に寄りかかった。
太鼓が高鳴る。人々の歓声が波のように押し寄せる。騒ぎは、祭りの音に飲まれて薄まった。ギルドの腕自慢が走ってきて、あとは大人の仕事。
ほどなく騒動は収まった。
屋台の灯りがまたやさしく揺れる。
ルミナが俺の袖をぎゅっと握って、ほっと息を吐いた。
「ごめん。怖かった」
「俺も」
正直に言う。手のひらが汗で少し濡れている。棒の木肌が、汗を吸って滑らかになった気がした。
ノワが焼きそばを三つ運んで来る。湯気が立って、ソースの匂いが鼻に刺さる。
「英雄さんたちに差し入れ」
「英雄じゃないよ」
「英雄っぽいよ」
ルミナが横でうなずく。
「主人公っぽい」
「その“っぽい”に愛はあるのか」
「ある。たぶん」
三人で笑って、焼きそばを啜る。舌をやけどしそうな熱さ。こういう熱さは嫌いじゃない。
ギルドの人たちが犯人を引き取り、金庫は無事、祭りは続行。
あちこちから声が飛ぶ。
「さっきの見たか」「かっこよかった」「爆発しなかった」
最後の一言だけ妙に強調される。
「俺のキャラ付け、そこなの」
「平和的でよい」
棒が満足そうに言う。
ルミナは目を潤ませて笑った。
「やっぱり、わたし神様やめるのやめた」
「急に二重否定」
「祈られて、笑われて、それでも君と一緒なら笑い飛ばせる気がする。賭けに負けても、脚立から落ちかけても、今日みたいに」
その言い方が可笑しくて、可愛くて、俺はつい吹き出した。
「負けは笑えないけどな」
「笑顔は無料」
「請求書は来ないの?」
「棒に聞いて」
棒は咳払いを一つ。
「神の家計簿はつけない主義だ」
「じゃあ今日の働きはプラスで」
「うむ。心の資産は黒字だ」
夜風が気持ちいい。
提灯の赤い光が、ノワの頬をやわらかく照らす。尻尾が音もなく揺れる。
「ねえ、やっぱり人間と魔族、仲良くないの?」
俺の問いに、ノワは少しだけ考えてから言った。
「仲良くない時もあるし、仲良い時もある。どっちも嘘じゃない。今日は焼きそばがおいしいから、仲良い日」
「単位がお腹なの面白いな」
「生き物はだいたいお腹で動くよ」
「間違ってない」
夜が深くなるほどに、音は軽くなる。
太鼓は踊りに変わり、踊りは拍手に変わる。
俺は棒を壁に立てかけ、少し離れて祭りを眺めた。
初期装備。サビた木の棒。
最初の爆発で笑われて、給料日で泣きかけて、屋台の影で息を合わせて。
何ひとつ完璧じゃない。
でも、今日みたいな夜があるなら、案外、十分なのかもしれない。
「カイル」
ルミナが呼ぶ。
「ん」
「明日、何する?」
「爆発しない仕事」
「高難度だね」
「だろ」
ノワが笑って、指先で空を指した。流れ星がすっと走る。
「願いごと」
「家賃が払えますように」
「現実的」
「現実を殴れるのは現実だけだ」
棒が静かに言う。
「それと、爆発が必要な時には、俺が受け持つ」
「頼もしい」
「俺は家具じゃない」
「武器でもないのかよ」
「導き手だ」
ちょっとだけ誇らしげな声。俺は笑って、棒の先を軽く指で弾いた。
木目がやわらかく響く。音は小さいけれど、胸の奥に残る。
祭りの後片付けが始まる頃、賭場の暖簾の方角から、ひょいと手を振る影が見えた。昼間の店主だ。
「兄ちゃん。昼は悪かったな。これ、福引の残りだ。持ってけ」
差し出されたのは、ひと袋の小麦粉と、砂糖と、金貨一枚。
「え、いいんですか」
「祭りの夜は、気前がよくなる」
金貨一枚。今日の笑顔は、金貨三枚より高いと感じたけれど、現実のおまけはやっぱり嬉しい。
ルミナが顔を輝かせる。
「やった。これで来月までに、焼き菓子が食べられる」
「そこ」
「大事」
帰り道、三人で荷物を分け合う。ノワは尻尾で紙袋を支え、俺は棒を肩に、ルミナは両手で金貨を握り締める。
「落とすなよ」
「落とさない」
「賭けない」
「賭けない」
誓いは軽い声で、でも本気で交わされた。
宿に着くと、俺は棒を壁に立てかけ、ベッドに座った。
「なあ、ルートロッド」
「なんだ」
「もし、お前がほんとに伝説の武器じゃなかったとしても、俺、けっこうお前が好きだ」
少しの沈黙。
「俺もだ。お前が主人公でも脇役でも、俺には関係ない」
「いいこと言うな」
「家具ではない」
最後だけ余計だ。
灯りを落とす。窓の外で、祭りの最後の歌が遠く揺れた。
今日、爆発は一度もしなかった。
そのことが、眠る前の祈りみたいに静かに胸に染みる。
祈りか。ルミナに祈るんじゃなく、ルミナと笑うために。
そんなふうに、願ってもいいのかもしれない。
明日は、もっと面白くなる。
きっとなる。
俺はそう思って目を閉じた。




