第二十三話 メリアの心の告白と、ノワの背中の約
夜の風は、昼間よりも素直だ。鐘楼の上は街の匂いが薄く、焼き串も油も遠くに感じる。かわりに鼻をくすぐるのは、石に染みた夜露と鐘の金属の冷たさ。風がひと筋抜けるたび、足元の板がひゅうと鳴る。俺は腰に核を収めたまま、欄干にもたれて空を見た。月は欠け、星は多い。街の灯りがまばらに点いていて、下を歩く人の影が魚の群れみたいにゆるくうねる。
「呼び出したのはそっちでしょ」
背中から声。靴音の軽さで、誰かはもう分かる。メリアが帽子を胸に抱えたまま、階段の最後の一段で足を止めた。いつもの白衣を夜仕様のコートの中へ半分だけ押し込み、髪には風。彼女はいつもより少しだけ姿勢が固い。肩の線に、決意と迷いが交ざっていた。
「うん。逃げないから」
俺が正面を向くと、メリアは息を吸って、視線を泳がせた。帽子のつばの影が頬に落ちて、瞳が大きく見える。彼女は一度うなずいて、言葉を探すみたいに舌で唇をなぞった。
「わたしさ……カイルが怖いときがある」
空気がひゅっと冷える。俺の喉が少し鳴ったのが、自分でも分かった。彼女は続ける。
「怖いって言っても、悪い意味じゃない。ううん、やっぱりちょっと悪い意味もある。だって、きみ、どんなときも笑うでしょ。足が震えてても、頬が切れてても、無茶な間合いへ踏み込む直前でも、笑う。そういう笑いを見ると、安心する。だから足が前に出る。わたしも出せる。けどね、同時に思うの。もしかしたら、きみはどこかで、誰にも見せない怖さを一人で飲み込んでるんじゃないかって」
メリアは帽子をぎゅっと抱きしめた。胸の前で布がくしゃりと音を立てる。
「世界の根が笑っているのを、あの夜、少しだけ見た。魔力が暴れたとき、光の底で。きみが触れる“芯”の向こうで、誰かが笑ってた。あれ、たぶん、仲間の笑い。でも、その真ん中に立ってるきみは、わたしたちの笑いに背中を向けたまま、前だけ見てた。格好よかった。でも、怖かった。だって、きみの背中がどこまででも遠くへ行けそうに見えたから」
言葉が夜気に溶ける。俺は欄干から背を離して、距離を半歩だけ詰めた。手を伸ばせば届く距離。届かない方が緊張する距離。
「でもね」
メリアは笑った。涙腺が弱いわけじゃないのに、目が少しだけ潤んだ。
「その笑いにつられて、わたしも前に出られた。氷の加減も、火の手綱も、昔は怖かったのに、今は怖さの中に楽しいがある。きみが笑ってるから、わたしも笑って、前に出られる。だから、怖いけど、好き。人として。魔法使いとしてでも、女としてでもなく、まずは“人”として。きみのそういう在り方が、わたしは好き」
胸の奥がぐっと熱くなる。何か言おうと口を開いたけど、出てきたのは短い言葉だけだった。
「ありがとな」
それしか言えない自分が、少し情けなくて、でもちょっと笑えた。そういう笑いをメリアは逃さない。目を細めて、肩の力を抜く。
「ずるいなあ。短いって、ずるい」
「長いと噛む」
「知ってる」
そこでふいに、階段の暗がりからひょいと影がずれた。ノワだ。黒い上着のフードを半分だけかぶり、狐尾を手で押さえながら顔を出す。夜目が利くその瞳は、月よりも明るい。
「来ちゃった。二人の空気、おいしそうだったから」
「おいしくはない」
「いいや、おいしい。塩気があって、火加減がちょうどいいやつ」
メリアがむっとするかと思ったら、意外と落ち着いている。帽子を胸の前で整えて、ノワへ小さく会釈した。ノワは欄干の上にちょこんと腰を下ろして、足をぶらぶらさせた。危ない、と思った瞬間、尻尾が支え木みたいに欄干の裏へ伸びて固定される。器用だ。
「わたしも、一個だけ言っていい?」
ノワは俺をまっすぐ見た。眠たげに見える時もある瞳が、今は少しだけ尖っている。
「君の背中、好き。いつも“先に傷つく”から。危ない時、迷う前に出ちゃう。手が勝手に動く。そんな背中は、ずっと見てられる。だけど、ずっと見てるだけは、嫌。だから、次はわたしが先に走る。約束。君が笑う前に、わたしが先に飛び込む。君が一人で怖さを飲み込む前に、わたしが先に噛んでやる」
「噛むのはやめろ」
「比喩」
ノワの尾が夜風でふわりと揺れる。言い切る時の彼女は、冗談を挟まない。そこが頼もしい。俺は核の柄に指をかけ、鐘の縁を軽く叩いた。コーン、と澄んだ音が夜空に広がって、街の灯りが一瞬揺れた気がした。
「青春、してる」
階段の影から、ルミナが顔だけ出す。頬に手を当て、にやにやしている。審判棒を持っていないのが珍しい。今日は休みの日らしい。
「してない」
「してる」
「してないって」
「じゃあ、青春の定義を言って」
「今それやる?」
「やる。神だし」
神様の茶化しは、風鈴みたいだ。うるさいようで、風が止まるとこっちが寂しくなる。メリアが少しだけ肩をすくめて笑い、ノワはわざとらしくあくびをした。俺は核から指を離し、欄干に背を預ける。
「俺、笑うって言ったな」
「言ったよ」
「メリアの言う通り、見せない怖さはたぶん、俺の中にある。正直に言う。でも、それは別に格好つけてるわけじゃない。俺は怖いのを知ってる。だから少しでも軽くしたい。そのために笑う。笑うって言っても、馬鹿にする笑いじゃない。胸の中の重しをちょっとだけ爪でこそいで、軽くする笑い。俺が笑ったら、隣で誰かの重しも少しは削れるかもしれない。そういう希望が欲しい。俺が欲しがってるだけだ。押しつける気はないけど」
「押しつけでも、きっと嫌じゃないよ」
メリアの声は、夜の底でよく響く。ノワが尾の先で鐘をちょんとつつく。鳴らない。細工された金属は気まぐれだ。
「それに」
ノワが付け足す。
「君が笑ってくれると、わたしも笑う。笑うと走れる。走れると勝てる。勝てたら、ご飯がうまい。そういう単純なやつが、好き」
「単純万歳」
ルミナがどこからともなく紙袋を取り出す。中身は小さな焼き菓子だ。誰かが夜店でもらってきた余りらしい。彼女はひとつつまんで、俺たちの鼻先に差し出した。
「はい、青春の糖分」
「それ、甘いやつか」
「ちょっとだけしょっぱい。涙の味」
「うわ、失敗感のあるキャッチコピー」
笑った瞬間、鐘楼の下から小さな叫び声が上がった。遠く、屋根の方角。俺たちは同時に顔を上げる。黒い影が屋根の縁を走り、ぎくしゃくと跳ねた。盗賊か、迷子の猫か。どちらにせよ、笑い話で終わるうちに動いた方がいい。
「行く?」
メリアの口元が引き締まる。ノワの尾がすっと細くなる。ルミナは焼き菓子をまるっと飲み込んで、両手をぱんと合わせた。
「青春、運動の時間だ」
「号令が軽い」
俺は核を抜く。棒にはならない。芯だけで十分だ。鐘楼の縁から見下ろすと、屋根から屋根へ、細い木板が不安定に渡されている。祭りの準備で職人が置いた足場の残骸だ。そこを、子どもが一人、懸命に走っている。足がもつれ、板がきしむ。背中に背負った籠から、何かが転がり落ちた。丸い。果物か、あるいは卵か。
「あれ、ギルドの屋根裏の鳥小屋から持ち出したやつだ。鳩の卵。保管場所、変えたの忘れてた」
ルミナの声に、俺は肩で息を吸う。
「メリア、風を抑えて。ノワ、右へ回って影の足場を作って。ルミナ、滑らない祝福、板の真ん中だけに」
「了解」
「了解」
「了解。青春、連携技」
こういうのがいちばん好きだ。格好をつける時間はない。全員の動きが先に出る。メリアは両手を前に出し、小さく円を描く。風の端が丸くなって、板の左右の揺れを抑える。ノワは屋根の影から影へ飛び移り、板の下へ細い影の支柱を生やしていく。ルミナが目を細め、指先で空中をつまむようにしながら囁く。
「すべらない祝福、ちょびっとだけ」
板の中央に薄い光。子どもの靴裏がそこを踏む瞬間、きゅっと音がして、体重が前へ滑らずに止まる。俺は核を伸ばさずに、手だけを伸ばす。最後の板の手前で子どもが足を止めて、振り向いた。泣きそうな顔。背中の籠が傾き、卵が一つ、ころりと抜ける。
「大丈夫。ここ」
核の先で卵を下から支える。核は優しく、でも確かに硬い。割れない。子どもは目を丸くし、卵を抱え直した。最後の一歩を、こちらへ踏み出す。俺は左手で子どもの手を取り、右手で核を引き、板の端から屋根へ飛び上がる。メリアが風を切り、ノワの影が消え、ルミナの光がふっと薄くなる。全員の力がほどける音が聞こえた。
「お兄ちゃん……」
子どもは言いかけて、顔をくしゃっとさせた。泣くのを我慢している顔だ。俺は笑って、頭をわしわしと撫でる。
「鳩には今度、ちゃんと許可を取ってから。夜は寒い。卵は温かい場所に戻してやれ」
「うん……ごめんなさい」
「怒ってない。怒るのは鳩」
「鳩、怒るの?」
「鳩は意外と怒る」
子どもがそれでも笑って、涙がひとつだけこぼれた。ノワが尾でそっと拭う。メリアが帽子の中から布を取り出して渡す。ルミナは胸に手を当てて深呼吸。緊張をほどく呼吸だ。俺は核を腰に戻す。芯は静かで、でも鼓動みたいにわずかに震えている。生き物じゃないのに、こういう時、いつもそうだ。
「青春、点数をつけると満点」
ルミナが親指を立てる。メリアが肩で笑い、ノワはうんうんとうなずく。子どもは卵を抱えて、屋根から梯子を伝って降りていった。俺たちはそれを見届けてから、鐘楼へ戻ることにした。
戻り道、屋根の縁を歩きながら、メリアがぽつりと言う。
「さっきの話、続きがある」
「うん」
「怖いけど好き、って言った。もうひとつ足す。好きだから、怖いを一緒にやる。わたしの魔法は、もう暴れない。暴れても、わたしが手綱を握る。それをきみに見てもらう。そのために、もっと練習する。次に大技を打つ時、きみが笑う前に、わたしが笑う。やるよ。約束」
「約束」
同じ言葉が二重に重なる。ノワがその間に割って入る。
「わたしの約束はもう言った。先に走る。もう一個足す。背中、預ける。君の背中だけじゃなくて、君にわたしの背中も預ける。ずっと守られてばかりは、こっちが嫌になる。だから、交代。今日はわたし、明日はメリア、その次はルミナ、その次はバルド、たまにレイ。順番制。公平」
「公平は大事」
「だろ」
ルミナが手を挙げる。
「順番、神にも回して」
「神は審判」
「ええ。審判もたまに走りたい」
「じゃあ、走る審判。反則取るの誰」
「自分で自分を取る。反省会、開催」
四人でくだらないことを言いながら歩く。屋根の瓦は冷たく、滑りやすい。ルミナの祝福がまだ薄く残っていて、靴がきゅっと鳴る。それがなぜか心地いい。何でもない音に、今日の手触りが残る。
鐘楼に戻ると、バルドが下から大きく手を振っていた。後ろでアルゼが控えめに片手を上げ、レイは腕を組んで空を見上げる。遅れて合流だ。みんな夜風に当たりたかったらしい。バルドは階段を三段飛ばしで駆け上がり、その勢いのまま俺の背中をドンと叩いた。
「青春、筋肉にもいいな!」
「筋肉に青春は不要」
「うるさい、筋肉は全部いる」
アルゼは少し離れたところで、外套の襟を直した。今日の路上決戦から、まだ時間は経っていない。彼の外套は、そこだけ少し重く見えた。でも、目は軽い。レイは小さく頷き、俺の頬の傷を指で示した。
「消毒は」
「青春の塩味で」
「無意味だ」
そんなやり取りをしていると、鐘楼の鐘が風に揺れて、微かに鳴った。さっき俺が核で叩いた響きが、いまもう一度帰ってきたみたいだった。音が冷たい夜に広がり、街のあちこちで灯りが少し揺れた。
「ねえ」
メリアが俺の袖を軽く引いた。帽子のつばの下から、真っ直ぐな目。
「怖いって言ったの、撤回はしない。でも、ちゃんと言い切る。わたしはきみの笑いに、何度も助けられてきた。だから、次はわたしが助ける。笑いながら、前に出す。その練習、付き合って」
「任せろ。練習、好きだ」
「わたしも」
ノワが肩で笑い、尾を揺らす。
「じゃあ、次の路地裏テストはわたしが出す。課題は、笑いを一度も使わずに、相手を笑わせる。うん、いい課題」
「難易度の設定、雑」
「余白がある方が面白い。世界、余白ができたんでしょ。神に聞いた」
ルミナが胸を張る。
「余白、実装済み。みんなの希望の更新、承りました」
「更新、早い」
「神界、働いてる」
「でも、課金はやめた」
「やめた。人で働く。だから、腹が減る」
ルミナのお腹が、タイミングよく鳴った。誰も笑わないでいられなかった。笑うと、夜が少しだけ近づく。寒さが遠のく。胸の中の重しが薄くなる。全部、分かりやすいことだ。
「行こうか」
俺が言うと、全員がうなずいた。鐘楼の階段を降りる。足音が重ならないように、でも離れすぎないように。屋台の光が近づく。湯気が見える。汁物の匂いが浮いてくる。アルゼが財布を握り、バルドが肉の串の長さを身振りで示し、レイが静かに行列の最後尾に並ぶ。ルミナは皿を持つ気満々で、ノワは最短で席を確保する動線を目で描き、メリアは手帳を胸に押し当てた。何を書くのか聞いたら、笑って誤魔化された。
階段の踊り場で、俺は一度だけ振り返る。夜の鐘楼。さっきの場所。風が通り、鐘が細く鳴る。そこに残っているのは、言葉の残り香と、笑いの余熱と、約束の影。どれも目に見えない。でも、全部が確かにここにある。核が腰で小さく鳴った。聞こえた気がしただけかもしれない。けど、十分だ。
「行くぞ」
俺は一歩降りる。背中に視線を感じる。ノワの視線だ。先に走る、と言った彼女は、今日は一段だけ前に出て、すぐに俺の横に戻った。並びたい時に並ぶ。それでいい。メリアは俺の少し後ろ、半歩の場所にいる。眼差しは強く、呼吸は落ち着いている。ルミナは完全に腹の音の方へ意識を持っていかれている。神様は、こういう時がいちばん人間だ。
男子中高生に言いたい。こういう夜の階段が、一番だ。告白は大声じゃなくていい。約束は短くていい。背中は一人で背負わなくていい。笑いは軽い。でも、軽いから遠くまで届く。届いた笑いが帰ってきて、もう一度鳴る。鐘みたいに。何度でも。
屋台の灯りの手前で、俺は核を指で叩いた。鳴らない。鳴らなくていい。手の中で確かに重い。重いから、明日も振れる。明日も笑える。明日も、誰かの前に出られる。
青春、してる。そう言われたら、否定しながら笑っておく。笑いながら、鍋に湯気のかかる席を全力で取りに走る。誰が先に走るか。今日はノワ。明日はメリア。明後日はルミナ。いつかバルド。たまにアルゼ。たまにはレイ。俺は、だいたい、その横。いい位置だ。いい夜だ。いい約束だ。




