第十九話 鏡界タイムアタック! 崩壊まで残り九九九カウント
空が鳴る、というより、空そのものが砂を流しはじめた。雲の上に逆さに突き立った巨大な砂時計。黒い空の真ん中で、上から下へ、金色の砂が勢いよく落ちていく。最初の一粒が落ちた瞬間、鏡で塗ったみたいな地平線に、細いひびが一本走った。ひびは迷わず増えて、蜘蛛の巣みたいに世界を分割する。
《告示。鏡界は未承認世界。ホスト不在。自壊進行》
神界の無機質な声が、鼓膜ではなく胸骨の裏側を叩いた。ノワが耳を伏せ、メリアが息を飲む。ルミナは空を見上げて、泣きそうな笑いを浮かべた。
「ホストって、鏡ノアのことだよね。倒したから……」
言い切らないうちに、町の端の塔がひとつ、音もなく沈んだ。基礎からすりガラスになって崩れ落ち、粉のような破片だけが風に巻き上げられる。人の叫び声、鳩の羽ばたき、泣き声。バルドが大剣の柄を握り直し、俺は胸の奥の青い灯りを軽く叩いた。折れた棒は、もう形にならない。けれど、間合いは胸に残っている。届かせたいものの場所を、はっきりと指す光だ。
「置いていけば、俺たちだけは帰れる。——でも、それ、面白いか?」
誰も答えない。代わりに、ノワの尻尾が小さく揺れた。メリアが帽子のつばを指で握る。ルミナが両手を合わせた。バルドは歯を見せ、力が入っているのかいないのか分からない笑いを作る。俺は息を吸って、叫ぶ。
「行くぞ。残りを、全員連れて帰る。作戦名、タイムアタック・オールクリア!」
砂時計の縁から、砂の音が強くなる。カウントの数字が、頭の中に直接浮かぶ。九九九から、一拍ごとに減っていく。焦りに足が絡みそうになるのを、胸の青で押し戻す。焦りは合図だ。速く動けって言ってるだけ。なら、従えばいい。
崩れはじめた街路は、板チョコみたいに割れて、段差の階段を作っている。段差の合間で、人が動けず固まっている。俺は一段飛びで駆け上がり、胸の青を前に押す。見えない棒が、手の先に伸びる。届かない子どもの手首に、見えない輪が掛かったみたいに感じる。引く。軽い。抱き上げる。肩に乗せる。
「“空渡り・ルートレール”!」
名を叫ぶと、胸の青が細い線になって、屋根と屋根の間を走った。青いレール。俺は片端を低く、片端を高く設定するみたいにイメージして、最初の住民を滑らせる。足が地面から離れた瞬間、人の表情は子どもみたいになる。ノワが影で受け、反対側の屋根へと送り出す。影の受け皿は、猫の掌のように優しく凹む。メリアが風の道をその上に重ね、滑りは勢いを失わない。
「いいね、次いで!」
ルミナは両手を広げ、「すべらない祝福」を連打する。段差の縁に薄い膜が張られ、足をかけた大人が空回りせずに体勢を立て直す。バルドは崩れかけた庇を素手で持ち上げ、下をくぐる人に「胸を張って!」と訳の分からない掛け声を飛ばす。胸を張ると、人の足は少しだけ速くなる。不思議だが、ほんとうだ。
砂の音が強くなる。頭の中のカウントが一気に減り、六百台に入った。遠くの広場で、鳩の群れが上空へ舞い上がる。鏡の空に小さな穴が開いて、そこから青空の色が覗いた。出口はある。けれど、その穴はまだ全員を通すには狭い。
「中央大橋のほうが、先に裂ける!」
メリアが額に手を当て、風の流れを読む。鏡界の風は、匂いが薄いのに、冷たさだけが濃い。メリアが指を鳴らし、俺たちを先導して走り出す。大通りは左右に割れて、底の見えない溝が生まれている。ノワが影で溝の一部をつなぐ。影の橋は細いが、踏めば広がる。踏めば広がる橋は、人間の勇気みたいだ。最初の一歩がいちばん怖い。でも、最初の一歩があると、後ろの人が続ける。
大橋に着いた瞬間、嫌な音がした。硬い木が湿気を吸って、内部から縦に裂けるような、低い響き。橋の真ん中がめり込んで、左右に大きく揺れる。対岸に取り残された避難民の群れが、一斉にこちらを見た。遠い。近い。遠いのに、目の色が手に取るように分かる。泣き笑い。叫び。祈り。
「支える!」
バルドが両腕を橋の縁に引っかけ、背中を反らす。筋肉が縄のように浮き出て、裂け目がほんの少しだけ閉じた。閉じた瞬間、メリアが杖を突き出す。
「“一点凍結・橋脚固定!”」
橋脚の根元に、氷の杭が生えた。鏡界の氷は、現実よりも透明だ。透明だから、脆く見える。でも、透明だから、ひびの走る方向が見える。メリアはひびを先回りして、氷を足した。ひびは方向を失い、そこで止まった。
「縄だ! いや、影だ!」
ノワが自分の影から手のひらほどの小さな影を千切り、それを細く延ばして対岸へ投げる。影の先端が、向こう側の手すりの影に絡んだ。ノワは息を吸い、尻尾をゆっくり下げる。影の縄がぴんと張って、橋の上に、もう一本の細い道ができる。人が一人分、通れる幅。怖い道だ。けれど、道だ。
「最初のひとりは、俺が連れてく!」
俺は胸の青を両手に集め、見えない棒を前に突き出す。間合いが伸びる。対岸で泣いている男の子の肘を、すっとすくうように引っ掛ける。引く。重さは驚くほど軽い。軽いのは、俺が強くなったからじゃない。あっち側で、誰かが背中を押してるからだ。押す手の感触が、青の中に伝わる。俺は引き、引いた勢いで自分の体も前へ投げる。橋板が軋み、氷が鳴る。バルドの叫びが飛ぶ。
「胸で受けろ、胸で!」
「胸で何を!」
文句を言いながら、俺は男の子を胸に抱え込む。心臓と心臓が重なって、互いに速くなる。速くなる鼓動は恐怖の合図じゃない。走れって命令だ。走る。次のひとり、次のひとり。ルミナの「すべらない祝福」が足の裏に貼りついて、滑り落ちそうになる足を救う。手と手が、ひとつずつ、確実に繋がる。
頭の中のカウントが、二百台になった。砂の音が強すぎて、世界の音を上回る。橋の上の鳴き声が、遠くなる。ダメだ、足が遅い。遅いと分かったら、やることはひとつだ。
「加速する!」
メリアが風を押し出し、影の縄の上に斜めの風の板を敷く。足に当たる風が、前に踏み出す足の重りをひとつ外す。ノワが影の縄を二本に増やす。二列だ。バルドの背中がさらに反り、裂け目がもう一歩閉まる。ルミナは両手を押し出して、祈りの数を増やす。祈りは薄い。薄いのに、重ねれば厚い。厚さは、回数のことだ。俺は胸の青を左右に分け、見えない棒を二本にする。両側の手すりに、同時に引っ掛ける。自分の身体が空に浮いた。空中で、まっすぐに張られた縄の上を、足の裏が走る。走れる。走る。
「最後尾、あと四!」
ノワの声が張りつめる。影が震え、氷に亀裂が走る。バルドの腕が限界に近い。額から汗が落ち、汗が鏡の床に吸われて、薄い光の輪になる。輪はすぐ消える。消えるけれど、目に残る。
「三、二、一……!」
メリアが数え、最後の老人を押し出す。老人の背中を、若い女の子が押す。押す手は震えている。震えは悪くない。震えは、まだ生きているって合図だ。俺は見えない棒で老人の腰を支え、引く。引いた瞬間、氷の杭が音を立てて割れた。橋板が空を蹴り、俺たちをすとんと落とそうとする。
「胸だ!」
「胸やめろ!」
バルドの怒鳴り声が頭で跳ねて、俺は老人の胸の高さに自分の胸を合わせる。肩じゃない。胸だ。胸と胸をくっつけると、不思議と体の傾きが合う。合った傾きで、俺たちは足をひとつ前に出した。足の裏の祈りが、薄い膜を一枚だけ残して、消える。最後の一歩は、自分で踏むしかない。踏む。踏んだ瞬間、影の縄が切れた。橋が崩れ、鏡の破片が花みたいに舞い上がる。
頭の中のカウントが、残り一、と囁く。砂の音が止まる。金色の砂時計がひとつの大きな音を立てて割れ、金の砂が空から花火みたいに降ってくる。降る砂は熱くない。冷たくもない。温度がないのに、懐かしい匂いがした。乾いた麦の匂い。夏のはじまりの匂い。涙腺が勝手に反応する。泣くな。泣くなら帰ってからにしろ。泣くなら笑って泣け。そう自分に言い聞かせ、俺は地を蹴った。最後の跳躍。空は近い。現実の色は、手の届くところにある。
白い光が視界いっぱいに広がり、足の裏が柔らかい草を踏んだ。転がる。転がりながら、身体のあちこちの痛みが順番に自己紹介してくる。膝、肘、肩、胸。痛い。痛いけれど、痛いと感じるほうがいい。痛みは、ここが生きているって知らせだ。
耳が、音を返す。風の音。鳥の声。遠くの鐘楼の、いつもの鐘。鏡の空ではない。俺たちはもう、草原にいた。元の世界の、よく知っている草の匂い。草の色。草の冷たさ。背中に重みを感じて起き上がると、さっき抱えた老人が俺の胸の上で眠っていた。誰かが笑い、誰かが泣く。助けた人たちが、互いの肩を抱いて、地面を確かめるみたいに叩いている。
「……生きてる」
メリアがぽつりとつぶやき、帽子で顔を隠した。肩が小さく震える。ノワは尻尾を高く掲げ、ひと回りしてから、俺の足元に座った。ルミナは空に向かって両手を伸ばし、指の間から差し込む光を一度掴んでから笑った。バルドは仰向けで空を見て、深呼吸を三回した後、俺の胸を軽くどん、と叩いた。
「ギリギリ、好きだわ」
「お前の好きは信用できない」
笑う。笑いながら、腹筋が痛んだ。痛むからこそ、笑いは深くなる。深い笑いの底から、俺は胸の青を軽く叩いた。返事が来る。棒はない。けれど、ここにいる。間合いは胸に住みついて、脈と一緒に動く。
「ねえカイル」
ルミナが顔を寄せる。頬には涙でできた細い跡が残っている。それでも目は明るい。
「ギリギリって、最高にドラマチックだね」
俺は空を指さした。さっきまで砂が落ちていた場所には、薄い虹の切れ端みたいなものが残っている。虹は最後まで虹にならず、空の青に溶けていった。
「ギリギリを笑って越えるのが、俺たちだ」
「うん」
短い相槌が、風と一緒に遠くまで飛んでいく。助けた住民たちが「ありがとう」と言い、俺の手を取って、握った。握られた手のひらは、一人一人違う。硬い手、柔らかい手、温かい手、冷えた手。違いを確かめるたびに、胸の青が少しだけ明るくなる。俺たちは、まだ走れる。まだ笑える。まだ、やれる。
ひと段落した頃、レイが草原の端から歩いてきた。外套は砂埃で薄く汚れているが、目の落ち着きは変わらない。俺の前に立ち、軽く会釈をする。
「時間内に、全員分。想定より二割早い」
「数字はやめろ。今は褒めろ」
「褒めている」
「分かりにくい」
レイは少しだけ口元を崩した。彼の笑いはあいかわらず鈍いが、鈍いぶん、長く残る。
「鏡界の後始末が必要だ。神界は再構築に入る。おそらく——君たちの手を借りたがる」
「借りられるなら、貸す。貸せるぶんだけ。……その前に、みんなに飯」
腹が鳴る。鳴った瞬間、周りから同じ音がいくつも返ってきて、草原に小さな笑いが波紋みたいに広がった。バルドが立ち上がって伸びをし、肩を鳴らす。
「飯の前に、胸」
「胸の話やめろ」
「胸を張る、のほう」
「ああ、それならいい」
くだらない会話をしながら、俺たちは草の上に腰を下ろす。誰かが余った干し肉を回し、誰かが水筒を回す。鏡の世界の冷たい光じゃなく、太陽の温かい光が、皮膚の上をやわらかく滑っていく。
ふいに、耳の奥で薄い音がした。ぺち。反射で顔を上げる。空にはもう砂時計はない。かわりに、遠くの雲の縁で、小さなきらめきが跳ねたように見えた。気のせいかもしれない。けれど、俺は胸の青をそっと叩いた。返事が来る。返事は短い。短いけれど、確かだ。
「おかえり」
「ただいま」
誰にも聞こえない声でやり取りをして、俺は地面に手をついた。草の葉が二本、手のひらにくっつく。はたいても、うまく取れない。取れないなら、連れていけばいい。手のひらに生えた二本の草をそのままにして、俺は立ち上がる。
「さあ。次のクエスト、受け付けるか」
「次は神界の再構築だよ」
ルミナが言う。いたずらを思いついた子どもの目をしている。神様なのに、地上の子どもみたいな目をするのが、彼女のいちばんいいところだ。
「神界、片付け、掃除、模様替え」
メリアが指を折りながら並べる。ノワは尻尾でぽん、と俺の背中を叩いた。
「それと、再ガチャ」
「再ガチャ?」
「初期装備の、ね」
胸の奥で、青がちいさく笑った気がした。折れたものが元に戻るなら、それはそれでいい。戻らないなら、戻らないぶん、やり方を増やせばいい。どっちにしても、面白い。面白いものは、だいたい正しい。
助けた人たちと別れの挨拶をし、草原から街道へ出る。遠くに見える鐘楼は、いつもより少しだけ背筋が伸びているように見えた。俺たちは歩幅を揃え、歩いた。途中で何度か、同じ方向へ歩く人とすれ違った。肩が触れ、笑って、離れる。離れても、なぜか心は軽くならない。軽くならないのは、重なったぶん重くなっているからだ。重さは悪くない。重さは、仲間の数のことだ。
陽が傾きはじめた頃、街の門が見えてくる。門の上から、見張りの兵士が手を振った。俺たちも手を振り返す。笑う。笑いながら、門をくぐる。門の影が一瞬だけ冷たく、次の瞬間には温かい。影が温かいのは、きっと誰かがそこに立っているからだ。
この街は、今日も生きている。鐘は鳴る。パンは焼ける。子どもは走る。俺たちも走る。走って、止まって、また走る。そのたび、胸の青が明滅する。砂時計は割れた。割れたなら、次は時計を作る番だ。神界の再構築。初期装備の真実。再ガチャ。別れと再会。笑って終わる最終話。書くことは山ほどある。
「ギルド寄って、報告して、腹を満たして、寝る」
「寝る前に、神界から書類が来るよ」
「やめてくれ」
笑い合いながら、俺たちはギルドの扉を押した。木の扉は、今日もいい音で鳴る。ぺち、ではない。けれど、どこかで一本の棒が、確かに笑った気がした。胸の奥の青が、ほんの少しだけ強く灯る。俺は心の中で、見えない相棒に短く告げた。
——次も一緒に、届かせよう。




