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異世界ガチャで“初期装備”だけ当たったけど最強だった件 ――運だけは最低、でも世界一ツイてる男。  作者: しげみち みり


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第17話 魔王ノアの宣戦布告。“もうひとつの正義”との決戦前夜

 夕暮れの色は、いつもならパン屋の看板をやさしく染めて、子どもの笑い声をほんの少しだけ甘くする。けれどこの日の空は、砂鉄をまぜたみたいに重く赤かった。鐘楼の鐘が鳴る前に、街じゅうの空気がぴたりと止まる。風が引き出しにしまわれ、音が息を潜め、次の瞬間、空そのものが声になった。

「人間よ。神の不正を正す。課金と笑いに酔った世界を、初期化する」

 頭の上、空の真ん中に広がった赤の向こう側で、はっきりと彼女の輪郭が見えた。角は短く、尻尾は長く、瞳は赤。けれど、あの無邪気な上向きの口元ではない。冷たい線で引かれた口。氷の直線だ。

 え、ノワ——?

 俺は思わず口に出していた。隣でノワ本人が眉を寄せる。彼女の尻尾が不安げに揺れる。

「違う。……わたしじゃない。あれは」

 肩の上の棒が、小さく鳴って言葉を継いだ。

「“鏡界”からの来訪者だ。同じ名を持ちながら、別の道を歩いたノア。世界が笑いを禁じた方向へ、真っ直ぐに育った影」

 鏡界——。俺はその言葉をうまく呑み込めないまま、空のノアの宣告を聞いた。

「神の名の下に、笑いを禁ず。混乱の火は、涙を干上がらせる。秩序を戻し、世界を初期化する。それが私の正義」

 広場にざわめきが走る。パン屋のおばちゃんですら、パン切りナイフを持つ手を止めた。ルミナが小さく頭を押さえる。

「初期化って、また……。世界にとって“便利”な言葉はたいてい、誰かの今を壊すんだよ」

 横からレイが歩み寄る。黒い外套の襟を直し、いつもの冷静な目で空を見上げる。

「情報を。——鏡界。こちら側の出来事が“もう一つの選択”で積み上がった世界。笑いが禁じられ、祈りが申請制になり、失敗に罰がつく。魔王は監察官の長にして、処置の執行者でもある。名はノア。こちらのノワに似た顔を持つ」

「似た顔で、似た名で、似ていない笑い方」

 ノワが自分の尻尾を握りしめた。

「たぶん、向こうの“わたし”。向こうは、笑ってはいけないんだ」

 バルドが歯を食いしばる。

「力で止めるしかねぇのか!」

 俺は首を振る、前にルミナが強く振ったからだ。彼女は涙目で、それでもきっぱりと言う。

「違う。彼女を“笑わせる”んだよ。笑えない世界から来たのなら、笑える世界を見せる。——それが、わたしたちの正義」

 棒が肩で鳴る。

「笑わせるのは容易ではない。禁じられた笑いは、胸の奥で硬貨みたいにずっと冷たく重い」

「なら、溶かす。俺たち、火の扱いはもうわりと上手い」

 冗談みたいな言い方になったのに、誰も笑わなかった。笑わなかったけれど、それぞれの顔に“笑い方”が戻る準備が見えた。メリアが片手を挙げる。

「なら、準備しよう。鏡の向こうへ行くなら、鏡が必要。水面か、磨かれた石か、夜空か。どれがいい?」

「水面」

 ノワが即答する。

「水は、嘘をつかないから」

 レイが地図を広げ、街外れの古い採石場跡を指差す。

「鏡湖。昔、石工が磨いた石を沈めた湖。夜になれば、空が底まで写る。そこから“向こう”へ渡れる可能性が高い」

 ルミナが掌を握りしめた。

「渡る前に、ひとつだけ。——今日、笑っていく」

 彼女は広場の真ん中に立ち、両手を胸の前で合わせた。祈りじゃない。合図だ。俺は棒を肩からおろし、地面を一度、軽く叩く。ぺち。音が広場に広がって、張りつめた空気が薄皮みたいに剥がれた。パン屋のおばちゃんが、焼き立てのコロッケをひょいと掲げる。

「いつもの笑顔、サービスだよ!」

 誰かが笑った。背中合わせに誰かがため息をついて、それから笑った。小さな笑いが三つ、四つ。伝染しない笑い。自分で選んだ笑い。俺たちの街には、これがある。これを持って、向こうへ行く。

 夕陽が沈み切る前に、俺たちは準備を始めた。ギルドの倉庫からロープと鉄杭、手のひらサイズの鏡をいくつか。メリアは水を扱うための小瓶を並べ、ノワは小さな鈴を紐に通す。バルドは胸の前で腕を組み、深呼吸を繰り返して心拍を落とす。

「技名の最終確認!」

 メリアが手帳をぺらぺらめくる。最近は“技名ノート”がある。なんかもう恥ずかしいのは通り越して、頼もしい。

「まずは移動。“渡り橋・ミラーステップ”。湖面を足場にする術式。——掛け声でリズムを合わせる。二拍子」

「二拍子は得意」

 棒がうなずいた。ルミナが別ページを差し出す。

「笑わせる戦術。初手は“ちょっとずらし”。緊張の場に、ほんの少しのズレを入れる。受け取り側の心が、受け皿に変わる」

「ずらしは、俺の得意分野」

「得意の意味が違う」

 ノワが鈴を一度鳴らす。澄んだ音が、隊列の隙間を撫でる。

「向こうのノアは、きっと完璧。すべてが真っ直ぐ。真っ直ぐな相手は、少し曲げられれば転ばない。曲げずに、揺らす」

「揺らすのは、俺の役」

 バルドが胸を叩く。

「胸板、振動装置」

「自分で言うな」

 レイが腰のポーチから、薄い鉄札を二枚取り出した。片方は、いつも俺たちに渡す通行証。もう片方は、見たことのない紋章——鏡の中に逆さの剣。

「渡航許可。鏡湖で必要になる。敵地だ。監察の名目で入れるのは、最初の一歩だけ。後は自分で進め」

「借りる」

 俺は札を受け取り、胸元のポケットにしまった。札の冷たさが、鼓動で少しずつ温かくなる。いい合図だ。

 準備の合間に、街の人たちが差し入れを持ってきた。パン屋のおばちゃんからは薄いパンの切れ端にハチミツを塗ったやつ。学童の子どもたちからは、色鉛筆で描いた俺たちの似顔絵。ギルドの受付嬢からは、こっそり用意してあった予備の包帯と笑顔。

「帰ってきて、またつまらない依頼を取っていってくださいね」

「つまらないやつ、大好きです」

 俺は笑って受け取り、旗をもう一度高く掲げた。「フリープレイヤーズ」。旗の布地が夕風を飲み込んでふくらみ、俺たちの影をひとつにまとめる。

 ノワが少し離れて立っていた。尻尾の先が、いつもより落ち着かない。俺は近づいて並ぶ。

「怖いか」

「怖い。向こうの“わたし”は、わたしで、わたしじゃない。会ったら、嫌いになるかもしれない」

「嫌いになっていい。でも、嫌い方を選べ」

「選べるの?」

「選べる。嫌いでも、手を放さないっていう嫌い方がある」

 ノワは目を細め、口の端で笑った。

「へんなこと言う」

「へんって言う方が、いい顔だ」

 ノワの肩が小さく揺れた。笑い、出てくる。こういう笑いを、向こうへ運ぶ。技名より万能な技だ。

 夜。鏡湖へ向かう道は、街の灯りが背中を押すように伸びていた。石を敷き詰めた古い道を抜け、草の匂いが濃くなる。やがて視界がひらけ、湖面が夜空を吸い込む音が聞こえた。ほんとうに音がした。広い湖全体が巨大な胸みたいに、静かに上下している。

「きれい」

 メリアが思わず帽子を脱いだ。ルミナは祈らず、ただ手を合わせた。バルドは深呼吸をし、ノワは鈴を一度鳴らした。レイは外套の襟を立て、湖の縁に立つ。

「渡る」

 棒が俺の手のひらの上で、軽く震えた。合図だ。俺は片足を出し、湖面にそっと触れる。

「渡り橋・ミラーステップ。——せーの、どん、どどん」

 いつもの二拍子。棒のぺちが、湖面に薄い輪をつくる。輪は重ならずに連なって、向こう岸へと見えない橋をつくった。俺たちは一列で歩き出す。足の裏に、ひやりとした感触。怖い。でも、音があるから進める。男子はこういうとき、音に助けられる。

 湖の真ん中に、鏡の扉があった。扉は扉の形をしていなくて、ただ夜空が濃くなっている場所。レイが鉄札を掲げ、低く呟く。

「監察通路、開通」

 夜空の濃い部分が一度だけ脈打ち、扉になった。向こう側に、同じ湖が見える。けれど、色が違う。光が硬い。水が笑っていない。

「ここから先は、監察じゃなくて、俺たちのやり方で」

 俺は言い、旗を握り直す。ルミナが頷いた。メリアが指を鳴らし、ノワが尻尾を振り、バルドが胸を叩く。棒が短く言う。

「爆発、禁止」

「たぶん無理」

「禁止って言われると燃える」

 全員が笑った。よし、入る。

 踏み出した瞬間、空気が変わった。温度じゃない。空気の“姿勢”が違う。背筋を伸ばすように、細かく整列している。鏡界の湖は、波紋が角張っていた。遠くで鐘楼が鳴る。音が時間を区切るように鳴り、笑い声が一つも乗ってこない。

「歓迎はない」

 レイが短く情報をくれる。湖の縁に、黒い外套の一団が並んだ。鏡界の監察官たち。先頭に、彼女がいた。魔王ノア。顔はノワと同じ線で描かれているのに、違う。目の奥にある“遊び”が完全に消えている。

「監察上層ノア。こちらは誰」

 彼女の声は、よく研がれた刃物みたいに滑らかで冷たい。俺は旗を少し下げ、言った。

「ただの冒険者。笑って暮らす訓練中」

「笑いは、不要」

 即答。ノワが一歩前へ出る。二人のノアが向かい合う。尻尾の長さは同じ、揺れ方が違う。こちらのノワは小さく揺れて、向こうのノアは一切揺れない。止まっているのに、風になびかない尻尾。怖い。

「ノア。向こうのわたし。あなたは、何で笑いを消したの?」

「笑いは、秩序の敵。混乱を呼び、判断を濁す。——わたしは、世界を守る」

「世界は、笑うと守れる部分がある」

「データにない」

 レイが小さく肩をすくめる。彼もこちら側では珍しく、眉をほんの少しだけ寄せた。

「議論は、あとだ」

 俺は割って入る。ここで言葉だけを投げても、彼女の胸に届かない。届かせるなら、俺たちのやり方だ。

「試合しよう」

 ノアの眉がわずかに動く。「試合?」

「勝った方のルールを、ひと晩だけ通す。俺たちが勝ったら、この世界に“笑う余白”をひと晩だけ許してくれ。君が勝ったら、俺たちは黙って帰る。喧嘩じゃない。試合だ。——“笑わせ試合”」

 監察官たちがざわめく。ノアの瞳に、初めて小さな火が入った。怒りでも、嘲りでもない。興味。氷に入った針の先みたいな興味。

「勝敗はどう決める」

「ここにいる、人たちの心で。こちらが“笑う”を起こせたら、俺たちの勝ち。君が“笑いは害だ”と示せたら、君の勝ち」

 ルミナが一歩出て、静かに言葉を足す。

「ただし、笑顔は強制しない。笑わない権利を含める。それが“わたしたちの笑い”のルール」

 ノアはほんの少しだけ目を細めた。彼女の背中の外套が風を受けずに揺れ、湖面に硬い波紋が並ぶ。

「受けよう。ただし、時間を区切る。夜明けまで。——秩序は、時間で守られる」

「いいよ」

 俺は棒を構え、肩で呼吸を整える。心臓が打つ。どん、どどん。棒先が静かに青く灯る。メリアが帽子を深くかぶり、ノワが鈴を握り、バルドが胸を叩く。レイは一歩下がって腕を組み、監察官としての顔で見届ける。

「最終決戦前夜」

 思わず、口に出していた。男子がだいすきな、あれだ。星が一つ、鏡の空に瞬いた。こちらの空よりもずっと遠い場所で。ルミナが笑って、けれど目に涙を光らせる。

「爆発、禁止ね」

「たぶん無理」

「禁止って言われると燃える」

 俺たちは笑って、闇へ向かった。

 試合の前に、場を整える。鏡界の広場——こちらの広場とそっくりの場所に、ノアは監察官たちを整列させた。人々は家の戸口からこちらを覗き、子どもは親の背中に隠れる。誰も声をあげない。誰も笑わない。笑わないというより、“笑い方”を忘れている。息の仕方を忘れるのと同じくらい、まずい。

「第一演目。“ずらし”」

 ルミナが前へ出る。俺は棒を軽く叩いてリズムをつくる。ぺち、ぺち。ゆっくり、低く。ルミナは監察官の列の前に立ち、深くお辞儀をした。

「神界から来ました、ルミナです。今日は“神らしくない”ことをします」

 彼女は胸の前で手を合わせ、そこで合掌を離して、両手で頬をむにっとした。神様、むにっ。監察官の列に、小さな“?”が並ぶ。ノアの眉がほんの少しだけ上がった。ルミナは真顔で続ける。

「神は秩序。でも、人は“秩序に疲れる日”がある。だから、神も疲れている日がある。——今日、わたしは“疲れてます”。ので、ちょっとだけ、間違えます」

 そのまま、彼女は靴の左右を入れ替えた。神なのに、靴の左右を間違える。たったそれだけで、監察官たちの整列に薄いひびが入った。前列の真ん中の男が、目を泳がせる。列は列であろうとしながら、心が列からはみ出す。

「第二演目。“段取り”」

 バルドが出る。彼は胸を張り、真剣な顔で言った。

「段取り説明します! 一、胸を張る。二、息を合わせる。三、胸を張る。四、胸を——」

「張りすぎ」

 ノワの尻尾がバシッとバルドの脛をはたく。監察官の列に、緊張の割れ目が広がる。真面目な列ほど、ずらしに弱い。メリアがすっと前に出た。

「第三演目。“失敗してからの一手”」

 彼女は指先に小さな光を灯し、わざと手元を狂わせて、地面に光をぽとりと落とした。光はすぐ消える。監察官の列が硬直する。メリアはすぐに片膝をついて、光を落とした場所に小さな花の絵を指で描いた。失敗の跡が、花になる。子どもの目が思わず、その花を追う。列の後ろの方で、誰かの喉が鳴った。笑いじゃない。でも、笑いの前の音。喉が笑う準備を思い出した音だ。

 ノアはまだ動かない。動かないが、目の奥が少しだけ揺れる。俺は棒を握りなおし、最後の合図を出した。

「連携技、いくぞ。“心拍・三拍子”」

 ぺち、ぺち、ぺち。棒の音が、広場の石畳を渡っていく。俺たちはそれに合わせて動いた。ルミナが左右の靴をまた入れ替え、バルドが胸を“ほどよく”張り、メリアが指先で花を増やし、ノワが鈴を鳴らして子どもの足元に影のうさぎを走らせる。うさぎが石畳を跳ね、子どもの目がそれを追い、親の肩が少しだけ落ちた。

 笑え。笑うなと言われた世界。笑ってはいけないと言われて、息の方を先に止めてしまった世界。——笑え。

 棒のぺちが、三拍子を重ねるほどに柔らかくなる。俺の胸の中の太鼓は、どん、どどどん、どん。緊張の糸が一本ずつ緩む音が、広場中に広がる。そのとき、最前列の監察官のひとりが、たまらず鼻をすすった。そこからほんの少し盛大に。息が笑う。口が追いかける。ひとりの口角が、ほんの一ミリだけ上がる。ノアの目が、その一ミリを見逃さなかった。

「取り締まるべき案件」

「取り締まらないで」

 ノワが言った。彼女は一歩進み、向こうのノアの前で尻尾をゆっくり揺らす。

「あなた、わたし。——ねぇ、楽しかったこと、ひとつもないの?」

「楽は、害」

「楽、じゃない。楽しい、の方。……たとえば、コロッケ」

 ノアの瞳がほんの一瞬だけ泳いだ。俺はその泳ぎを見逃さなかった。彼女の胸の奥で、何かがはたと止まり、過去のどこかへ戻っていく音がした。食堂。匂い。列。ひとつだけもらった熱。

「夜明けまで、試合は続く」

 ノアは言った。声が少しだけ低く、少しだけ人間の重さを持った。俺はうなずく。終わりじゃない。始まりだ。

 鏡湖から吹き上がる風が、こちらの旗を大きく揺らした。文字が夜空に踊る。「フリープレイヤーズ」。笑いは無料。友情も無料。けれど、どちらも手を使って取りに行かなきゃ、手元には残らない。

 俺は棒を肩に担ぎ、仲間を見回した。ルミナの目の涙は、もう光っていない。メリアの指先の光は、今にも花になりそうに丸い。ノワの鈴はいつでも鳴らせる位置にあり、バルドの胸は、ほどよく沈んでいる。レイは腕を組んだまま、口の端で見えない応援をくれた。

「夜明けまでだ。笑わせる。——世界を」

 男子中高生がだいすきな“最終決戦前夜”は、叫んだ言葉を現実に変える練習の夜でもある。叫んだら、決める。笑うかどうかは、自分で決める。

 空の星が、もう一つ増えた気がした。鏡界の星は遠い。遠いけれど、見える。見えるなら、届く。棒の先が、静かに青く灯る。俺たちは円を描いて立ち、呼吸を合わせた。

「どん、どどん」

 いつものリズムで、見慣れない世界を叩く。音が、橋になる。橋を渡るたびに、世界が少しだけこちら側へ寄ってくる。

 夜は長い。長いけれど、笑いの訓練はもっと長い。俺たちは笑って、戦って、また笑う。爆発? なるべくしない。なるべく、だけど。禁じられると、燃える。燃えた火で、凍った根を温める。その準備は、もうできていた。

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