第16話 メリア暴走! 魔力暴走“オーバーキャスト”と仲間の一撃
月のない夜は、街灯の明かりが少し偉くなる。石畳の隙間まで照らそうとして背伸びをして、届かない場所は風が撫でておく。ギルドの裏庭は、洗いたての鍋や縄の匂いが混ざって、夜の準備運動みたいな湿り気を出していた。
「今夜、やらせてほしい」
メリアが言った。白衣の袖をまくり、帽子を胸に抱く。瞳は澄んでいるのに、奥で炎が小さく跳ねた。
「“中級の先”をちょっとだけ見る。ちょっとだけでいい」
「ちょっとだけって言葉、だいたいちょっとじゃ済まないやつ」
俺が止めるより先に、ルミナが真横にぴたりと立った。
「わたしが見てる。危ないとこ、ぜったい止める」
ノワは腕を組んだまま、影の上で足をそろりと滑らせる。
「暴れたら縛る。優しく、きつめに」
バルドは胸を叩く。
「飛んでくるものは全部、胸で受ける」
「胸は盾じゃない」
棒――ルートロッドが、肩で小さく鳴いた。
「退く練習を忘れるな」
「わかってる」
メリアは深呼吸を一つ。冷えた夜気をごくりと飲んで、両手を上げた。
「調律、弱。火と風と水、ひとかけらずつ。夜だから、光は息をひそめて」
彼女の手のひらの上に、小さな灯がともる。ろうそくよりも弱い、でも芯のある光。揺れない。すごく、いい。今夜は大丈夫かもしれない。そう思った瞬間、空の向こうで風の向きが変わった。雲のない夜に、見えない雲が通り過ぎたみたいな音がした。
「ん……?」
メリアの額が、ぱち、と光った。汗じゃない。薄い裂け目から、夜の裏側の光が漏れているみたいだった。彼女の足が地面を離れる。ふわり、と一寸。次の瞬間、手のひらの灯が一気に膨らんで、胸の前で球になった。
「メリア、やめ……」
「だいじょう……ぶ。あ、れ?」
強がりの最後の音が、胸の奥でひっくり返った。光が彼女の呼吸を追い越し、息より先に出ていく。空に細い雷が走り、石畳がきゅっと鳴って、裏庭の土が指で裂いたみたいに割れた。
「オーバーキャストだ。止める」
ルミナが即座に両腕を広げ、薄い膜のような光の壁を張る。祈りというより、保護者の手つきだった。
「安全圏、確保。押しと引きの合間、いまなら間に合う」
ノワは膝を落とし、足さばきを細かく刻む。影が糸になる。地面から伸びた黒い紐が、メリアの足首と膝のうらをそっと掬う。
「縛るけど、締めない。逃げ道は残す」
バルドは二歩でメリアの正面へ入り、両腕を交差して構えた。胸は出ているのに、心は一歩引いている。退く練習の成果が、筋肉の隙間に見えた。
「来い。どんと」
棒が俺の掌に収まる感触は、いつもと同じで、いつもより少しだけ重かった。根っこを掴むみたいな重み。俺は喉のかわきを一回飲み込み、足の裏を地面に貼りつける。
「近づく。俺がやる」
「いくなら、まっすぐ。無理だと思ったら、引く」
ルミナの声は硬くなく、柔らかすぎもしなかった。俺は頷く。体の中で、音が整う。胸、腕、指先、棒の先。脳内の太鼓が、どん、どどん、といつものリズムを打つ。
メリアの額から溢れる光が、夜の空気に触れて、変な泡になって弾ける。泡は明るいのに、冷たい。風鈴を氷で作って落としたら、こんな音がしそうだ。彼女の目は開いている。見ているのに、見えていない。
「カイル……ごめん、でも、もう、少し、先、見えそうで……」
「見るな。戻って来い。先は逃げない」
「今、なら」
「今じゃない」
声が届いたかはわからない。けれど、俺の足は届く距離を選んだ。一歩。二歩。息を殺さない。怖いのは、怖いと認めた上で踏み出す。三歩目で、俺は棒を逆手に持ち替えた。先端が青く、微かに光る。棒自身が、呼吸を合わせてくれている。
「——“零距離・心突きペチブレイク”」
叫ぶと、身体が勝手に正しく動いてくれるのが、技名のいいところだ。棒の先で、メリアの胸の前の光の球の、中心よりほんの少しだけ外側を、そっと突く。押すでもなく、叩くでもなく、触るに近い一撃。ぺち、と乾いた、だけど芯のある音。人差し指でシャボン玉の膜を破らずに、形だけ変えるような押し方。棒先の青が、胸の青を呼んで、二つの青が一瞬だけ重なった。
爆発はしなかった。代わりに、白が降ってきた。耳の後ろで小さな風が鳴り、目の前の空気が薄紙みたいに剥がれて、静寂がいくつも重なって落ちてくる。地面の割れ目はそこで止まり、雷は夜の端で消えた。俺はそのまま前へ出て、浮いたままのメリアの背に腕を回す。軽い。軽いのに、熱い。
「メリア!」
息がある。胸の上下が、少し不揃いだけれど、ちゃんとある。顔色は悪い。けれど、唇の色はまだ街の灯りに負けていない。俺は膝をついて、そっと地面に横たえた。ルミナが結界を薄くして空気を入れ替え、ノワが影の紐を緩めてほどく。バルドは両腕を下ろし、深く息を吐いた。
「止まった、か」
「止めたというより、“戻した”。ギリギリ」
棒が俺の肩の上で、かすかに震えた。木が笑うとこうなるのか、という揺れ方だった。
「根に触れたな」
メリアの瞼が薄く開く。青い目が、夜の分だけ深く見える。
「……ごめん。無茶した。でもね、少し、見えたの。世界の“根”。すごく静かで、すごく、笑ってた」
ルートロッドが、ゆっくりと鳴る。
「それは、俺の仲間たちだ。昔々、俺がまだ一本の根だったころ、一緒に眠っていた連中。冗談好きで、頑固で、よく笑う」
「根が、笑うの?」
「笑うさ。水が来たら笑う。土が重くなったらわざと寝返りを打って、石をずらして笑う。風が通れば、もっと笑う」
メリアの目尻から、涙が一粒、夜のほこりみたいにこぼれた。泣いているのに、口角が上がる。泣きながら笑うのは、強さの証明だ。男子はそういう瞬間に、あっさりやられる。俺もその一人だ。
「よかった……生きてる……」
口に出してようやく、胸の奥の固いものが砕けた。肩の力が抜け、膝の裏が笑う。ルミナがふぅと息を吐いて、結界を解いた。光の壁が薄紙みたいに畳まれて、空へ戻る。ノワがメリアの手を握り、指先を合わせる。
「今は、ここ。先は、明日」
「明日……見ていい?」
「うん。でも、みんなで」
バルドが鼻の頭をこする。
「胸で受ける必要、なかったな」
「受けてくれて、助かったよ。視界塞いでくれたから、俺、真っ直ぐ行けた」
「胸で視界を塞ぐ役は初めてだ」
「二度とするな」
「はい」
緊張が切れると、裏庭の音が一つずつ戻ってきた。遠くの井戸で水が跳ね、隣家の犬が気の抜けた声で鳴く。夜風がロープを鳴らす音が、今夜だけは音楽に聞こえる。
「ねぇ」
メリアがかすれた声で笑う。
「わたし、また、謝るけど。ごめん。でも、少しだけわかった。怖いのは、火じゃない。留まることだ。こわいまま、じっとしてるのがいちばん怖い。だから、進みたかった。でも、ひとりで進むと、迷子になるね」
「迷子になったら、迎えに行く。迎えに行って、いっしょに帰ってこい」
「うん」
彼女が目を閉じる。眠ったわけじゃない。意識を地上に、戻しているだけだ。ルミナがそっと額に手を当て、余計な光を払うみたいに撫でる。
「メリア、今日の“ちょっとだけ”は、ちょっとじゃなかった。でも、ちゃんと帰ってきた。えらい」
「えらいって言葉、好き」
「好き」
ノワが立ち上がり、周囲を見渡す。
「地面の割れ、浅い。直せる」
「やるか」
俺は棒を地面に当て、割れ目の縁を軽く叩く。ぺち。土の粒が寄っていく。バルドが両手で押さえ、ルミナが薄く水を滲ませ、ノワが影で支え、メリアが指先で風を送る。割れ目が閉じ、夜の傷が夜のうちに塞がる。こういう“片付け”が、俺たちは上手くなった。
「カイル」
レイがいつの間にか、裏庭の塀の上にいた。外套の裾が夜に溶ける。彼は淡々とした目で、俺たちを見下ろす。
「監察のコメント。——よく退いた。よく届かせた」
「見てたなら手伝ってくれればいいのに」
「監察は、見届ける役目だ。だが、助言はする。暴走は、一度止めると“止め方”を覚える。次は、今より早く止めろ。——それと」
レイは少しだけ視線を逸らし、メリアに向かって短く言った。
「夜を嫌いにならないこと。嫌いになると、夜の方が先に“嫌う”」
「夜に嫌われたら、魔法使いは半分死ぬ」
「そう」
彼は塀からふわりと降り、影の中へ消えた。残るのは、猫が歩いたみたいな音だけ。ノワが肩をすくめる。
「言い方がいちいちかっこつけ。でも、嫌いじゃない」
「嫌いじゃない」
メリアが手をふり、ゆっくり起き上がる。まだ足がふらつくので、俺は肩を貸す。彼女は遠慮なく寄りかかった。軽い。ほんの少しだけ重い。人間の重さだ。
「ねぇ、カイル」
「ん」
「わたし、今日、もうひとつ見えた。カイルが“突く”前、わたしの光に、カイルの音が混ざった。棒の音。ぺち、って。音って、形があるんだね。ぺちは、丸い」
「丸いのか」
「うん。だから、痛くなかった」
棒がくぐもって鳴く。
「痛くしないために、丸くしている」
「いつから」
「さぁな。多分、お前が“そうしたい”って思った夜の数だけ」
ルミナがあくびを噛み殺し、手を叩いた。
「解散! 寝る! メリアはわたしのベッド。今日は真ん中で寝なさい。落ちたら危ない」
「子ども扱い」
「今日は子ども。明日また天才」
バルドが背伸びをして、腕を回す。
「俺は見張りしよう。こういう夜は、胸が目を覚ましている」
「胸は寝かせろ」
「はい」
片付いた裏庭に、夜露の匂いが濃くなった。灯りを消すと、星の代わりに音が増える。遠くの酒場が笑い、どこかの家で静かな喧嘩が始まって、すぐ終わる。夜は生きている。嫌いになれない。
メリアを部屋まで送って、扉の前で彼女が振り向く。
「カイル」
「ん」
「さっきね、世界の根が笑ってて、もう一つ、“呼んでる”感じもした。もっと、奥に。危ない呼び方じゃない。あったかくて、でも、ちょっと寂しい呼び方」
「根は、寂しがりだ」
棒が言う。俺たちは同時に棒を見る。棒はいつも通り、木だった。
「根は、つながるために生きている。切り離された俺は、まだ遠くに残っている仲間を探している。——多分、それだ」
「探しに行く?」
「行く。でも、退く練習が先」
「了解」
扉が閉まり、木の軋みが一回鳴った。俺は壁にもたれて息を吐き、天井の煤けた板を見上げた。呼吸が落ち着くと、今度は笑いがこみ上げてきた。泣いた後の笑いは、強い。泣きながら笑うのも、悪くない。男子はそういうのに弱い、とさっき思ったばかりなのに、自分が真っ先にやられている。
階段を降りると、ルミナが台所で湯を沸かしていた。湯気が夜の湿気と混ざって、ちょうどいい温度になる。
「お疲れさま。今日の記録、神界の監査ログにもう書いといた」
「何て」
「“広告は失敗。笑いは保持。オーバーキャスト、回避。仲間、機能”」
「最後の“機能”って何」
「褒めてる」
「そう?」
「そう」
湯飲みを二つ持って裏口へ。外は暗い。暗いけど、見える。見えるものだけ見ればいいと思える暗さだ。俺は湯をすすり、棒を縁側に立てかける。
「なぁ、ルートロッド」
「なんだ」
「俺、今日、怖かった」
「俺もだ」
「でも、行った」
「行ったな」
「届いた」
「届いた」
「こうやってきっと、俺たちは“届かせ方”ばっかり覚えていく」
「退き方も、な」
「な」
沈黙が、湯気の中に沈む。誰かが表通りを歩いていく靴音がして、遠くの鐘楼が夜の真ん中で一回だけ、小さく鳴る。合図じゃない。ただの挨拶。いい夜だ。
寝床に戻ると、布団がいつもより柔らかかった。全身の力が抜け、目を閉じる寸前で、ステータス画面を小さく開いてみる。何も飛び出してこない。角に小さな言葉が灯っている。
《今日の笑顔:自分で決定》
「決定」
声に出して、決める。眠りに落ちる直前、世界のどこか底の方から、土の中で誰かがくぐもって笑う音がした。たぶん、根だ。たぶん、仲間だ。たぶん、明日も笑える。
——男子中高生が涙目になりながらニヤつくゾーン、無事通過。次は、もっと深いところまで届かせる番だ。俺たちの棒は、まだ伸びる。心も、まだ伸びる。退く練習を忘れずに。叫んだ技は、また必ず決める。




