第12話 “木の棒”、ついに伸縮解放。屋根上決戦、連携は“技名”でキメろ!
夜の空気は、昼よりも軽いのに、音だけは重たく聞こえる。ギルドの寝静まった廊下に、短い笛の音が刺さった。爆ぜるでも、鳴り響くでもない。鋭い針の先をたった一度だけ、暗闇の皮膚に突き立てるみたいな音。夜襲の合図だった。
飛び起きるより早く、体が勝手に動く。靴、紐、扉。廊下を抜けた向こうで、ルミナが半泣き顔でこっちへ走ってくる。
「たいへんたいへんたいへん、看板が、看板が、看板が」
「一回でいい」
「看板が持っていかれる」
ギルドの看板は、ただの板じゃない。街の灯りに晒され続け、冒険者の出入りを見守ってきた厚みがある。誇りは重さを持つ。奪わせたら、明日の依頼の紙が湿って見える。
外へ飛び出すと、屋根の稜線に黒い影。軽業の達人らしい。太いロープを棟から棟へ渡し、看板を吊して外そうとしている。煙玉の薄い煙が漂い、目に刺さる辛さはないのに、視界だけが不規則に霞む。暗闇の中で、無駄のない足運び。十人はいる。
「高いところ、こわい」
背後でルミナが震え、足を滑らせそうになって俺の袖を掴んだ。掴む力だけは神のわりに俗っぽく強い。
「怖くてもやる。落ちるな」
「がんばる」
ノワは爪先で石畳を一度だけ軽く鳴らし、視線を屋根へ滑らせる。メリアは胸の前で両手を合わせ、息を整えた。棒――ルートロッドは、肩に立ったまま黙っているのに、木目の奥がざわりと熱を持つのがわかる。
「行くぞ」
掛け声だけで足が揃う。屋根のひさしを蹴って、雨どいに指をかけ、軒の端に体重を預ける。夜の瓦は乾いていて、思ったよりも素直だ。上りながら、盗賊団の布が風にたてる音を数える。十。いや、少しずつ位置を変えるから、九かもしれない。
「看板を外す鎖は二本。梁との結びが弱い方、右」
棒が低い声で言う。見なくてもわかるのが不思議だが、疑っている暇はない。俺は右側に回り込む。盗賊の一人がこちらに気づき、腰に下げた短い棒を横に払った。金属の鈍い音。顔狙いじゃない。落とすための打ちだ。
「コールで行く。呼んだら、返せ」
男子が燃えるのは、こういう混戦で連携がカチッと噛み合う瞬間だ。技の名前を叫ぶのは照れくさいけれど、名前は意思の最短経路だ。叫べば、全員の骨が同じ方角を向く。
「伸」
棒が、ぐぐっと伸びた。竿のように、あるいは蔓のように。二階分ほどの長さでぴたりと止まり、先端が屋根の棟をひっかく。支点は俺の腰。振り子になる。
「横薙・ペチスラッシュ」
名を叫ぶだけで、体の筋が勝手にその形になる。空気を切るほど大げさじゃない。乾いた音が一つ。ぺち。盗賊の手首がわずかに跳ね、足元が崩れる。そこへ影からノワ。
「影歩・膝抜き」
低く速い二歩で懐へ入って、膝裏にコツン。力は最小、効き目は最大。盗賊は素直に尻もちをついた。メリアが両手を少しだけ広げる。
「散華・星火」
小花火みたいな光がパッと広がり、視界の端に星の粉をまく。火傷はしない。眩しさは、逃げ足だけを奪う。夜目の達人ほど、光に弱い。ルミナは涙目のまま両手を合わせた。
「祝福・すべらない靴」
靴底が一瞬だけぺたりと粘り、屋根の上でも踏ん張りが利く。やるじゃないか、駄女神。こういう一瞬の安定が、落差をなくす。
敵のリーダーが見えた。縫い目のない黒い頭巾、目の周りだけが布の色よりも暗く見える。走らない。滑る。ロープを掌で操り、身体だけが風に運ばれていく。狙いは看板の鎖。すれ違いざまに短剣で切るつもりだ。
「こっち」
ノワが尻尾で俺の肩を叩く。メリアが息を合わせる気配を作る。俺は棒を縮めた。
「受け流し・ルート回し」
側面で力を受け、滑らせる。こするように、なぞるように。相手の重心は、相手自身が持っている。手を離すだけで、重さは勝手に転ぶ場所を見つける。リーダーの腰がすっと遅れ、短剣の刃が鎖から外れた。わずかに遅れたその時間に、ノワ。
「狐尾・払撃」
尻尾が音を置き去りにして走り、顔面を軽くはたく。痛みは少ない。驚きは大きい。体勢が崩れた瞬間、メリアが指先を一点だけ走らせた。
「一点凍結」
霜が線を引くみたいにロープの一点へ集まり、きゅっと固くなる。滑走は止まり、慣性は消える。俺は看板の鎖を棒の先で引き寄せ、屋根の梁にくぐらせて結び直す。結び目は二回。固くしない。ほどけない。鍛冶屋の爺さんに教わったやつだ。
「看板は返してもらう」
言いながら周囲を見る。煙が流れ、風の向きが少し変わった。敵は十から七になり、七から五に見える。屋根の端に別動隊。石畳の上には、ギルドの夜番が数人、長柄を構えて待機している。誰も勝手に飛び込まない。確実に帰るための待ち。俺たちが天井、彼らが床。網は大きく、穴は小さい。
煙の向こうから、別の影が滑り込んできた。ロープを足に引っかけ、逆さの体勢でこちらへ突っ込んでくる。逆手の短剣が、月の線を引く。
「縦のやつ、来る」
棒が言うより前に、体が反応する。俺は片足で屋根の脇を蹴り、身体を回転させた。棒は縮みきり、杖の長さ。お腹の前で水平に構える。
「弾き・芯ずらし」
刃の軌道に芯を置かず、外側だけを叩く。ぺち。抜けるような軽い音。刃は嫌がって、空を切った。逆さの男は足でロープをきつく締め直して反転し、逃げる。追わない。追い詰めると、屋根は人間を落とす。落とすための屋根じゃないが、そう働く。
ルミナが喉を震わせる。
「祝福・つかむ手」
何もない空気が、指先の下で少しだけ粘る。不思議な感覚だ。俺は棒の先で、逃げる影の足首だけを引っかける。引き戻すのではない。足首の速度を、ほんの少しだけ遅くする。そこへノワの膝。速度の差は、倒れ方の差。静かに倒れる。
「うしろ」
メリアの声。振り返らない。振り返らずに、背中の地図だけを探る。屋根の影に、低い気配。こちらの視界の外へ出ようとする動き。棒の根本でコツンと合図を鳴らし、足をずらす。
「代行・さかさ枝」
棒の先ではなく、根本で払う。構えの低さが、相手の足とぶつかる。ふくらはぎの力の向きが、わずかに逸れる。それで十分。
敵のリーダーは、逃げの合図を一度だけ出した。指笛の音が短く二回。彼はひとりだけ残り、看板の鎖を見て、俺たちを見た。
「技名を叫ぶのは、正直、ダサいと思っていた」
「わかる」
「だが、案外悪くないな。合図になる。揃う」
「叫んだ技は、絶対に決める。それが俺たちのルールだ」
「ルールは守れ」
リーダーは短く頷き、退路へ跳んだ。追う気配を見せると、屋根は牙を剥く。追わない。追わせない。夜番が下から見上げ、親指を立てた。
喧騒が去り、夜の音が戻る。瓦の間を抜ける風の糸、遠くの酒場の笑い、犬が一声だけ、誰かの夢に吠えた。
「鎖、もう一回確認」
棒が言う。俺は身体をずらして梁の上へ、結び目を触る。ざらりとした縄の感触。固めていないのにほどけない結び。爺さんの顔が頭の片隅で笑った気がした。ルミナが片手で目元の涙を拭い、もう片方の手で胸を押さえる。
「心臓、がんばった。ほめたい」
「ほめろ。心臓はほめられて伸びる」
メリアが屋根の端で、さっきの光の粉の残りを両手で掬い、何かを確かめるみたいにじっと見ている。ノワは尻尾で屋根の汚れを払ってから、静かに座った。屋根の縁に腰をかけ、足をぶらぶらさせる。星が近い。鐘楼の上に乗ったばかりの新しい瓦が、夜なのに少し明るい。昨日の火の跡は、もうほとんど見えない。
「なあ、ルートロッド」
棒に声をかける。さっき、本気で戦った時、お前は俺が叫ぶより早く伸びたり縮んだりした。勝手にやっているのか、俺が勝手にやっているのか。どっちでもいいけど、知りたい。
「本気の時、お前、勝手に伸びたり縮んだりするよな」
棒は、少し間を置いてから答えた。
「間合いは、気持ちだ。お前が届かせたいと思えば伸び、守りたいと思えば縮む。俺はただ、応えるだけだ」
「武器と心のリンク、来たな」
「名前をつけたのはお前だ」
「じゃあ、今日はもうひとつ名前をつける」
俺は屋根の縁から少しだけ身を乗り出し、さっきの結び目をもう一度確かめた。ゆるく、でも解けない。俺たちの連携も、そうでありたい。固すぎると、切れる。緩すぎると、ほどける。
「命名、屋根上連携・四人四様」
「長い」
「うるさい。こういうのは長い方が強い」
「強さの定義が雑だ」
笑いながら、でも、胸は少しだけ熱い。本気で怖かった時、ちゃんと笑えた。笑いながら、ちゃんと動けた。その感じは、癖になる。男子はこういう癖を持つと、面倒くさいかわりに強い。
「下の見回り、交代してくれ。上はおしまいだ」
夜番の声がかかり、俺たちは縄を伝って屋根から降りた。地面に足をつけると、足首が軽く抗議する。無視してはダメな声だ。適度に反省して、適度に誇る。
ギルドの玄関に戻ると、受付嬢が真夜中なのに姿勢が崩れていない。
「看板、守ってくださってありがとうございます」
「最初に外されないことが大事だ。外されたあと戻すのは、信用が遅れて戻ってくる」
「名言っぽい」
「ぽい、でいい」
道具袋にロープを仕舞う。ノワは脱力した尻尾で床をぱたぱたし、メリアは水差しを手に全員へ順に配る。ルミナは椅子に座って、靴を見つめている。
「すべらない靴、成功。神、やればできる」
「やってくれ。いつもそれで頼む」
「いつもはできない」
「なぜだ」
「緊張しないと、神の手は甘やかす」
「甘やかさないで」
そんなふうにくだらない話をしてから、俺たちは屋根の見回りの続きを夜番へ引き継いだ。交代は早いほうが事故が少ない。段取りは筋肉、筋肉は事故を減らす。筋肉のバルドがいたら喜びそうな理屈だ。
部屋に戻る前、玄関の外で、ひゅう、と短い笛の音がした。レイの笛に似ていたけれど、もっと軽い。扉の向こうには誰もいない。夜風だけが、笑っていた。
「見てたかもな、監察役」
ノワが肩をすくめる。
「どうでもいい。見られて困る動き、してない」
「それだ」
階段を上りながら、俺はさっきの連携を頭の中で巻き戻す。伸のタイミング、ペチスラッシュの角度、散華の間合い、祝福の粘り、受け流しの曲率、狐尾の距離、一点凍結の位置、弾きの芯のずらし、代行・さかさ枝の高さ。名前を呼べたぶんだけ、体が応えた。名前が合図になって、全員が同じ風を見る。技名を叫ぶのは、恥ずかしさをちょっとだけ犠牲にする代わりに、みんなの耳を揃える儀式だ。
「なあ、メリア」
「ん」
「星火、いい。あれ、目の端に残る」
「狙い通り。怖いほど明るくない光は、逆に怖い。人は、暗闇の片隅で光るものに弱い」
「言い方が少し怖い」
「褒め言葉」
ノワが横から口を挟む。
「尻尾、かっこよかった」
「自画自賛か」
「尻尾は自分で褒めないと誰も褒めない」
「俺は褒めたぞ」
「知ってる」
ルミナが階段の途中で振り返り、真剣な顔をした。
「ねえ、技名、もっと増やそう。叫べば揃う。揃えば、落ちない」
「いい。増やす。ただし、覚えられる数に限界がある。短く、具体的に」
「短く、具体的に、神、苦手」
「克服しろ。明日から“短く具体的練習”だ」
「訓練名がもう長い」
「それは俺の趣味だ」
笑いながら部屋に入ると、疲れが膝にのしかかってきた。ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。さっきの屋根の稜線が、目の裏に残っている。落ちそうな感覚はない。落ちる前に、ちゃんと誰かの技名が聞こえた。聞こえた瞬間、体が勝手に正しい方角へ向いた。あの感覚は、武器を握っていない時にも使える。
「カイル」
棒が呼ぶ。声じゃないけれど、呼ぶ。
「お前、今日、いい叫び方をした」
「叫び方」
「技名の声は、ただの音ではない。誰かのために、音の形を整えろ。お前が整えれば、みんなが揃う」
「了解。整える」
「それから」
「まだあるのか」
「いつか、叫ばないで決める日が来る」
「黙って決める」
「うなずくだけで決まる。それは、もっと先の話だ。そこへ行くために、今は叫べ」
「いい階段だ」
「階段は足元を見るな。合わせろ。段差のリズムに」
「明日も働け、ってことだな」
「そうだ」
目を閉じる。耳の奥で、夜番が屋根の上を歩く音が、小さな規則になって続いていた。瓦が鳴り、靴が鳴り、風が鳴る。鳴り方を覚えれば、次は鳴らし方を覚える。鳴らし方を覚えたら、黙り方を覚える。
寝入りばな、ルミナが小さくつぶやいた。
「明日、技名を考える会」
「短くな」
「うん。短く、強く、笑えるやつ」
「笑えるは重要」
「笑いの練度」
「上げとけ」
笑いが、布団の中で転がって消えた。
屋根の上の夜風は、もう一度だけ弱く吹いて、黙った。看板は梁に揺れて、生きているみたいに微かにぎしりと鳴った。誇りが、夜の中でちゃんと重さを持っている。俺はその音を聞きながら、深く息を吸い、眠りへ落ちた。
明日、俺たちはもっと強くなる。もっとおかしく、もっと優しく。技名は増える。増やしながら、短くする。叫びながら、笑う。初期装備のくせに、間合いは心で伸び縮みする。伸びれば届く。縮めば守れる。そういう夜を、俺は今日、身体で覚えた。




