第8話
約束の日、祐毅が向かったのは銀座。金曜日の夜ともなると、車も人もより一層行交い、広く整備された歩道から、時折車道に人が零れ落ちる。自らが落ちぬよう、そして誰かを落とさぬよう、祐毅は群衆の間を軽い身のこなしで縫って歩く。至る所でクラクションが雷鳴のように轟くが、いくら近くで鳴っても祐毅は振り向こうとはしなかった。自分が無関係とわかっていて、なぜ振り向くのだと言いたげに、座った眼をして、見知らぬ人の後頭部を一瞥する。
暫く歩くと、建物側へと斜行し、ある商業ビルに吸い込まれていった。1階の通路を真っ直ぐ進み、突き当りにあるエレベーターホールに着くと、上ボタンを押してようやく歩みを止める。腕時計を確認すると、約束の6分前。目の前のドアが両側に開き、中に入って行きたい先の数字を押す。目的の階に到着する頃には、約束の5分前になっていた。
降り立ったフロアには、壁に飾られた「クラブ Sanatio」と書かれた看板と黒いフレームにすりガラスがはめられた扉だけ。扉の向こうから漏れてくる賑やかな声に笑みを零しながら、重い扉を引く。カランカランと入店を知らせる合図が扉の先に響くと、すぐに電話で耳にした声が聞こえた。
「いらっしゃい。今日も5分前行動ね」
店内に木霊する歓迎の挨拶よりも、天井にぶら下がる絢爛豪華なシャンデリアよりも、真っ赤な絨毯に佇む着物の女性に耳と目が惹きつけられる。
エメラルドグリーンの生地に、肩から裾にかけて金糸の流水紋とその上を流れるように白い胡蝶蘭がデザインされた爽やかな着物。オレンジブラウンの髪をシニヨンにまとめ、着物とお揃いの生花を髪飾りにすることで、華やかと凛とした印象を身に纏っている。パッチリとした二重は目尻を下げ、透明感のあるピンクの唇は弧を描いていた。
「ご無沙汰してます。レイラさん」
祐毅が微笑みながら会釈をした相手は、このクラブのオーナーママであるレイラ。数年前に別なクラブで知り合い以来、今日まで客として彼女に会いに来ている。
「本当、ご無沙汰よね。月に一度は会いに来てくれるって言っていたのは、私の記憶違いかしら?」
ツンとして顔を背けるレイラに、祐毅は苦笑いをする。その約束に心当たりがあるからだ。
「すみません、忙しくて……あ、その髪飾り、胡蝶蘭ですか?しかも生花だ。着物とお揃いとは、レイラさんはやっぱりセンスがいいですよね!とても綺麗ですよ」
手の届く距離まであっという間に近づき、髪飾りにそっと触れる。恐らく彼女がファッションのポイントとしていた箇所を、的確に、流れるように褒めた。そして、畳みかけるように名の知れたパティスリーの紙袋を差し出し、皆さんでどうぞと手渡す。
褒められて悪い気のする人はほぼいない。その美貌から褒められ慣れているレイラでも、顔が綻んだ。だが、手土産を渡された瞬間、表情は寸刻前に逆戻り。
「本当にあなたって調子が良いんだから。まぁいいわ。美味しいお菓子に免じて許してあげる」
呆れ顔で紙袋を受け取ると、様子を察して近くに寄ってきたボーイに預けた。
「奥の部屋、空けてあるから、そこで話しましょ?」
ついて来いと言うように、視線を残しながら祐毅に背を向けると、しなやかな足取りで店の奥へと進んでいく。案内の通りに後ろをついて歩きながら、祐毅は店内を見渡す。開店して一時間が経過した店内は、空席を探す方が難しいほど大盛況だった。ドアの外まで声が漏れ聴こえていた時点で気づいてはいたが、目の当たりにすると、その人気ぶりになぜか祐毅は誇らしさを覚える。
すれ違うボーイ、接客中のホステス、そのほとんどと顔馴染みの祐毅は、歩を進めるたびに一声かけられる。客の邪魔をしないよう、短い言葉と笑顔を返した。右に左にと忙しくしている間に、店の一番奥に辿り着く。
一枚の扉が開くと、煌びやかな店内とは様相が違う、シックな内装が目に飛び込む。オフホワイトの壁、ガラステーブルを中心にコの字型に黒革のソファーが並ぶこの部屋は、店で一番大きなVIPルームだ。
「適当に座って?」
ドアを止めているレイラが、中へ入るように手で合図する。導かれるまま、祐毅が手前のソファーの中央に腰かけると、その隣に彼女は静かに座った。
「それで、早速なんですけど」
「ちょっと待って」
今日ここへ来た目的を達成しようと、早速話を切り出した祐毅の顔を、レイラは両手で挟んで話も動きも止める。抑え込まれてタコのようになった口を、祐毅はモゴモゴと動かして、何ですかと聞いた。
祐毅をじっと、睨むように見つめ、時折目線を少しだけ下げる。何ですか、に対する最初の回答は、頬を抓るというアクションだった。
予想外の行いに、痛いです、と反射的にレイラの手を掴んで頬から引き剝がす。頬は、赤くもなっていなければ、痛みすら感じないほどの力で摘ままれていただけだった。
「あまり寝てないでしょ?クマができているし、お肌が荒れてきているわよ」
本題とは全く関係ない話に、祐毅は呆けた顔をする。その顔を見て、レイラは大きなため息をついた。
「ねぇ。もしかして、また晩御飯を食べていないの?お薬、飲まないといけないのでしょう?」
その話には回答の準備ができていたのか、しっかりとした顔をして応対した。
「大丈夫。常にゼリー飲料を持ち歩いているので、すぐに薬は飲めます」
鞄の中をゴソゴソと探し、手にしたゼリー飲料をまるで警察手帳のようにレイラの眼前に突き出した。にこやかな祐毅とは異なり、レイラの顔は徐々に曇っていく。そして、臨界点に到達したのか、先程より声の音量とテンポを上げて話し始めた。
「もう!どうしてあなたはいつもそうなの!体調管理を疎かにして。賢いのに、医者の不養生って言葉を知らないの?」
突然始まった説教に、祐毅はたじろぐ。弁解しようと口を開くも、そのような隙は与えてもらえない。いつもは冷静で笑顔を絶やさない祐毅は、肩をすくめ、しょんぼりとした顔で説教が終わるのを待つしかなかった。
「まずは寝なさい!30分でもいいから。その後ご飯を食べて、薬を飲みなさい。サンドイッチ、作ってもらうから」
一方的に今後の予定を決められた祐毅は、スッと立ち上がるレイラに不服を申し立てる。
「あの!先に話をしてからでもいいんじゃ……」
最初の呼びかけには勢いがあったが、彼女のムッとした顔を見てすぐ怖気づく。
「ダメ。話を聞いたら、あなた帰るでしょ。休んで、薬を飲むまで帰らせないから」
自分の行動を読まれ、さらに冷たい視線まで向けられ、祐毅は従うしかなかった。だが、もう一つだけ聞かなければならない疑問が浮かび、勇気をもって問いかける。
「すみません!サンドイッチってパーティサイズですか?お店のメニューの……」
食べきれる自信がないです、と消え入る声で話すと、レイラは目を真ん丸にした後、クスッと笑った。
「一緒に食べましょ?その方が美味しいから」
ドアの近くに備え付けてある受話器を取り、注文を始めるレイラ。彼女が笑ったことで強張りが解けた祐毅は、首元を緩め、ソファーの背もたれに体重を預ける。
「靴を脱いで、横になって?」
注文を終えたレイラが、端の椅子に置いてあったクッションを持って戻ってきた。寝ころぶ祐毅を想像し、頭が置かれるだろう位置に枕代わりとしてセットする。
え?と戸惑いを見せる祐毅に、枕をトントンと叩いて無言で催促するレイラ。諦めるスピードが速くなった彼は、渋い顔をしながらも彼女の言う通りに仰向けになった。
「ちゃんと起こすから、ゆっくり休んで?」
柔らかな手が祐毅の頭を撫でる。それに安心したのか、よほど疲れていたのか、目を閉じるや否や、静かに規則正しい呼吸をし始めた。
顔を覗き込み、起きないことを確認すると、レイラは目を細めた。
「ほんと、可愛い人」