第7話
廻神祐毅は今年で35歳になった。父が理事長兼院長を継いだ神明大学病院で、医者として働いている。
医師国家試験にストレートで合格し、研修医期間を経て総合診療科の医者となる。さらには、理事長の息子ということもあり、33歳の時には若くして理事に抜擢された。
エリート街道まっしぐらの彼に向けられる羨望の眼差しは多い。だが、当然真逆の視線も多かった。
親の七光り、医者になれたのは理事長のおかげ、などと妬みの典型的ワードが飛び交うのは当たり前。特に研修医時代や専門医として働き始めの頃には、嫌がらせや悪口をその身に多く浴びた。雑用を押しつけたり、評判を落とそうと謀ったり、悪意ある者が彼の周りに集まる。
ただ、祐毅は賢く聡かった。皆にとっての雑用は、彼にとってはすぐに片付く些事。謀など、最初から全てを警戒している彼からすると、滑稽でしかなかった。向けられる敵意を逆手に取って相手の弱みを握ったり、手懐けたり。毎度趣向を凝らされる挑戦は、いつしか祐毅の楽しみと化していた。
いくら策を巡らせても効果がないとなると、相手方も諦める。加えて、祐毅の対外的人格は、非の打ち所がなかった。総合診療科という立場から、どの診療科の医者とも看護師とも接する彼は、偉ぶりも媚びもせず、平等な態度と相手を敬う応対を貫いた。こうして、誠実で社交的な廻神先生というキャラクターを続けた結果、妬む側の立場を悪くすることに成功。
この歳になって嫌がらせの類はようやく落ち着き、祐毅は医者として多忙だが充実した日々を送っていた。
ある日の昼食。病院の食堂で、トレイに並べた料理をスマートフォンで撮影する祐毅。彼はSNSに画像を投稿するような男ではない。ピントも画角も気にすることなく、ただ真上から一枚だけ撮影する。そして、画像をチェックすることなく、すぐにある人物に送り付けた。今日の昼食です、その一言だけを添えて。
スマートフォンをテーブルに伏せ、小鉢のサラダに手を付ける。一口目を口に入れ、しっかりと咀嚼していると、テーブルがブルッと振動した。相手がどんな内容を返してくるか、ある程度予想している祐毅は、サラダを食べ終えるまでは見ないと心に決めて、手と口を動かす。だが、いつもは一度で終わるはずの振動が、間を空けて再び起こる。それにはさすがに手を止めた。口は動かし続けたまま、箸と小鉢を置き、スマートフォンを手に取る。メッセージ画面を開くと、一つ目はいつも通りの食事のアドバイスだった。普段ならここで二つ返事のスタンプを返して終わり、なのだが、今日は違う。なぜなら、送られてきたメッセージは、祐毅の回答を必要としていたからだ。
「お昼ご飯の後、電話で話したいのだけれど、何時なら都合がいいかしら?」
祐毅は眉をひそめた。一体何の話だろうかと、相手と出会ってから今日までのやり取りを回想する。思い当たる内容は一つしかないが、こちらから依頼したのはもう何年も前の案件だ。いや、向こうが話したい別件ということもある。考えるだけ時間の無駄、との判断に至ったのは、メッセージを開いた3秒後。10分後に連絡しますと返事をし、食事を再開した。
食堂を出ると、近場の通話可能エリアを探し、すぐに電話を掛けた。すると、呼び出し音はたったのワンコールで止まる。
「もしもし?ごめんなさいね、食事を急がせてしまって」
落ち着いたリズムの甘い声音が、丁寧に言葉を紡ぐ。祐毅は、久しぶりに耳にするその音が、記憶している音と相違ないことを確認すると、言葉を返した。
「いえいえ。お腹は満たされましたから。それより、お話と言うのは?」
本題を求める祐毅の耳に、そう急くなと言いたげな微笑が届く。
「今日は連絡だけ。探していた子、ようやく見つかったわよ」
「本当ですか!」
この言葉が何を意味しているのか、即座に理解した祐毅は、無意識に声量の上がった本音を発していた。と同時に、通話可能エリア中の視線が彼に集中する。区切られた場所ではないことを、一瞬の後に悟った祐毅は、ヘコヘコと頭を数回下げながら、窓際に距離を取った。
「詳しい話と、今後の流れについて相談したいのだけれど、お店に来てもらった方が話しやすいと思うの」
提案を聞き、祐毅はスマートフォンを耳から離すと、すいすいと指を動かす。スケジュール管理アプリと難しい顔でにらめっこをし、しかし数秒もすると穏やかな顔に戻る。
「明後日の20時にお店に伺います」
わかったわと短い返事を聞くと、ではと別れの挨拶を返して電話を切った。
淡々とした短いやり取りだったが、彼にとってはとても重要な話であった。自然と口元が緩み、スマートフォンを持たぬ手は拳を握る。
ようやくだ。捜索を依頼して数年、見つからないのだろうと半ば諦めていたが、ようやく見つかった。これで目標達成への道に光が差した。待ち望んだ瞬間まで、あと数歩で届くのだ。
ふと、窓に反射する自分の顔を見て、己が舞い上がっていることに気づいた。周囲に振りまくものとは似て非なる笑顔がそこに映っていると、周りが気づいていないか窓を利用して確認する。
いけない、油断してはならない。周囲に悟られては、今までの我慢が水泡に帰してしまう。
拳を緩めて左胸に当てると、深く呼吸をして顔と気の緩みを正す。再度、鏡のように窓を見つめ、微笑みで表情を固定すると、踵を返し、午後の診察へと向かった。