第6話
友達ができる。それは良いことばかりではないということを、この日祐毅は初めて知る。
「あれ?今日も晄君、来てないの?」
晄は、祐毅がプレイルームに連れて来られた時、最初に話しかけてくれた男の子。プレイルームの玩具は全て彼から遊び方を教わり、野球のボードゲームでは頻繁に遊んだ。祐毅がプレイルームに来る時は大抵先に部屋にいるのだが、ここ数日は姿を見せていない。室内にいる他の子供に聞いても、最近見ていないと、同文の回答しか得られなかった。
子供ながらに胸騒ぎを感じはしたが、他の子に誘われて遊びに耽っていると、プレイルームに一人の大人が入ってきた。医者でも看護師でもないその女性は、黒のタートルネックにジーンズを履いたラフな服装で、肩には大きく膨れたトートバックをかけている。女性は何かを探すようにキョロキョロと室内を見渡すと、入口近くで遊んでいる子に声を掛けた。話しかけられた子供が室内のいくつかの場所を指すと、女性は会釈をして指された場所に向かって歩く。
「こんにちは。祐毅君、かな?」
女性から声を掛けられ、そちらに顔を向けると、祐毅は思わず息を呑んだ。
口角が上がってはいたが、目は腫れぼったく、明らかに憔悴した顔の女性。その顔を見た瞬間、祐毅は先程抱いた胸騒ぎを思い出した。普段は知らない人に声を掛けられても易々と返事はしないが、この時ばかりは、そうです、と何か覚悟を決めたようにしっかりと頷く。
探していた人物だと確認が取れると、女性は祐毅の近くにしゃがんだ。
「突然ごめんね。私、晄の母です。祐毅君は、よく晄と遊んでくれていたんだよね?」
予感は少しずつ現実味を帯びてくる。やはり晄に何かあったのだと、祐毅は瞬時に悟った。
「僕がいつも遊んでもらっていたんです。初めてここに来た時、最初に優しくしてくれたのは晄君でした。僕にできた、初めての友達です」
祐毅の話を噛み締めるように何度も深く頷きながら、段々と目に涙を溜めていく母親。そんな顔を見てしまうと、彼が今どうしているのかと聞くのは躊躇われた。
祐毅は母親の言葉を待つ。彼女も、祐毅が話し終わり、そして話を切り出すことを待っていると感じたのだろう。零れ落ちそうな涙を拭きながら、口を開いた。
「晄とたくさん遊んでくれて、ありがとう。晄がね、これを祐毅君に貰って欲しいって」
肩からトートバックの紐を一つ降ろすと、中から青いベースボールキャップを取り出した。帽子のつばを祐毅に向け、スッと両手で丁寧に差し出す。
それは晄が好きだと話していた、海外の野球チームのエンブレムが刺繍された帽子だった。いつか試合を観に行きたい、野球選手になりたいと、話していたことを祐毅は思い出す。
「これ……晄君の大事なものなんじゃ……」
「大事だからこそ、友達にあげたいんだと思うの」
大事にしている物を誰かに渡すなど、滅多にあることではない。母親の口から直接聞くまでは予想でしかないが、祐毅のそれは確信に変わりつつあった。
「あの……晄君は……」
晄に起きたことを避けて通ってはならない、知らなければならない現実なのだと、祐毅は覚悟を決めて問いかける。
だが、やはり母親にとっては酷な質問だったのであろう、先程まで下瞼が留めていた雫が、ぽつりぽつりと溢れ出す。
「晄は……今朝、天国へ旅立ったの……」
最初こそ彼の名前を聞き取れるほどはっきりとした声であったが、次第に高く、か細く、最後は嗚咽に変わっていった。
祐毅は俯き、拳をギュッと握る。想像はしていたが、改めて彼の母親から事実を語られると、堪えるものがある。これまで彼と一緒に遊んだ思い出が頭の中で録画映像のように鮮明に再生される。その中の、彼と互いの病気について話した記憶だけがなぜか、一時停止した。
「見つからなかったんですね。ドナーが……」
祐毅が知っていると思わなかったのだろう。母親は体の動きと涙をピタリと止め、一拍置くと驚いた表情で彼の顔を見る。
「聞いていたのね、晄から。うん……随分待っていたのだけれど、見つからなくて……」
晄は、残念ながら親族の誰とも型が一致せず、ドナーを探していた。親族以外から適合者が見つかる確率は数百から数万分の一。母親はそれを知ってから涙もろくなったので、自分が代わりに笑ってやっていると、彼が話していたことを祐毅は覚えていた。
「帽子、僕が貰っていいんですか?晄君の物は家族が持っていた方が良いんじゃ……」
「ううん。これは晄の願いだから、祐毅君に受け取って欲しいの。他の子にも受け取ってもらっているし、晄が私達に残してくれたものは、たくさんあるから」
母親は、会った時よりも目を真っ赤に腫らしてはいるが、今度はしっかりと微笑んでいた。
晄はおそらく、これから家族が笑顔でいられるように、形無きものもたくさん残したはずだ。失意の闇に飲み込まれず、彼の最後の願いを叶えるために母親が行動している。その源は、母親の記憶に焼き付いている彼の笑顔なのだろう。
「ありがとうございます。じゃあ、いただきます」
祐毅は、両手で大事に母親の手から受け取ると、頭に被り、笑って見せた。晄も喜んでいるわ、そう話す母親は、祐毅の脳裏に焼き付いている晄とよく似た顔をしていた。大事にします、祐毅がそう伝えると、体を大事にねと優しい言葉を残し、母親は別な子供の元へと向かった。
初めて経験した友人の死。その現実が祐毅に与える影響は大きかった。
晄が亡くなった翌日から、祐毅は不調を訴え、数日間病室に籠った。体の不調、ではあるのだが、その根本は心にある。
あれほど元気で、常に笑顔を絶やさなかった友ですら、僅か数日の間に命を失った。自分も近いうち、同じように突然亡くなるのだろう。どれだけ体力をつけようが、楽しみを増やそうが、無駄な時間でしかない。
塞ぎ込む心が体に倦怠感をもたらし、体を動かさないことによって、自分ももう駄目なのだと思い込む。この負の連鎖で、祐毅は日に日に悄然としていく。
そんな精神状態の時、人は悪い情報ばかりが耳につく。
少しでも気が紛れないかと祖父が点けていったテレビ。そこから聞こえるいくつかの単語に、祐毅は意識を引っ張られた。
自殺、事件、侵攻や戦争。自ら命を絶ったり、誰かが誰かの命を奪ったり、連日数多の命が容易く失われていく。
命とは大事なものではないのか?病気の子供や家族がどれだけ望んでも手に入らない命が、これほど身勝手に消えていく。
もしかしたら、消えていった命の中に、晄と適合するドナーがいたかもしれない。移植を待つ子供、いや、移植を待つ日本中の患者、その一部に適合するドナーがいるかもしれない。その可能性は日々低下し、今日もどこかで晄のように亡くなってしまう人がいる。
祐毅は無意識のうちに、震えが起きるほど拳を強く握っていた。テレビを睨みつけ、奥歯をグッと噛み締める自分に、彼は気づいていない。
簡単に命を投げ出したり、奪ったり。そんなに命を粗末に扱うくらいなら……
「僕等に……寄越せよ」
子供ながらに芽生えたこの感情が、彼が歩む道の契機となる。移植がそう容易ではないことを後々知るが、捨てられる命を拾う、命のリサイクルを始める男の誕生である。