第58話
二人きりになってしまった、祐毅と崇志。前者は、だらりと背もたれに体を預けて天井と壁の交差点を見やる。一方後者は、ピンと伸びた背中を背もたれから離して前を見据えるが、正面から漂う雰囲気に気圧されて、伏し目になる。
「す、すまんな。もう二度と目の前に現れるなと言われ…」
「話って、何ですか?」
話を聴く姿勢ではなかった相手からの問いかけ。僅かに期待して目線を上げた崇志だが、その姿勢は微動だにしていなかった。耳を傾けてもらえるのかと不安は残るが、話したいと思ったのは己。太ももの上で拳をグッと握ると、覚悟を決めて口を開いた。
「わ、私は今、ある人と一緒に暮らしていて……その…幸せな生活を送っているんだ」
「はあぁぁぁぁ…」
吐き出す息にわざと声を当てて表される態度に、崇志は少しだけ肩を震わせる。あからさまな気もするが、祐毅の立場からすれば無理もない反応。顔も見たくない相手と再会し、かつ相手は幸せだと口にする。今の状況が、不愉快極まりないのだ。
祐毅は天井を仰ぎ見て、話を聞く気持ちすらも捨て去った態度を取る。その様子に、最初は苦い顔を見せた崇志だが、独り言ならば寧ろ話しやすいと、あえて吹っ切れた。
「幸せだと実感する反面、多くの事に気づかされた」
スッと短く呼吸をすると、崇志は祐毅の顎の辺りを見据えた。
「祐毅。私が今、幸せに暮らせているのはお前のお蔭だ。本当に感謝している」
「……は?」
名前が呼ばれたことは理解できた。しかし、その後の言葉が解釈できなかった祐毅は、顔をゆっくりと正面へと戻す。そこには、崇志のメッシュヘアだけが見えた。
「お前が警察に通報しなかったお蔭で、私達は一緒にいられるのだと、気づいたんだ」
聞く気の無かった祐毅だが、頭を下げる崇志を眺めていると、不思議と疑問が浮かび、自然に回答を探し始める。人が変わってしまった男、自分が警察に通報しなかった彼の悪事、そして私達という表現。誰と暮らしているのか、察しがついた祐毅は、カクンと首から力を抜いて、天を仰ぐ。
「そんなの偶然ですよ…幸せなら、僕なんか放っておけばいいでしょ」
脱力した声でぼそぼそと話す言葉を、崇志は聞き逃しはしなかった。すぐに顔を上げ、今度は喉元に視線を置く。
「放っておけるわけないだろう。お前が事件を起こすきっかけを作ってしまったのは、私なのだから」
「僕が勝手にやったんです…あなたは関係ありません…」
自身の言葉をのらりくらりと躱して返ってくる言葉。この先、何を言っても同じように肩透かしを食らう。そう思った崇志は、反応を期待することをやめた。
「今の幸せは…もっと早く掴めたはずだった。私が自身の欲望を優先しなければ……お前達家族を不幸にすることもなく、彼女に辛い思いをさせることもなかった」
目線を落とし、穏やかな目でテーブルを見つめながら、崇志は自身の過去を話し始めた。
「私は…人を使う立場の人間になりたかった。学歴や診療科で虐げられる人生は御免だと、必死に勉強して一流の大学を卒業し、当時日本トップクラスだと言われたあの病院に研修医を経て就職した」
崇志の脳裏に、ある男性の顔が浮かぶ。白髪頭に瘦せこけた頬のその男性は、どことなく崇志に似ていた。
「だが、いくら優秀な大学を卒業しても、研修生だから、新米だからと理由を付けて、仕事を押し付けられた。年功序列、これだけは努力で覆せるものではなくてな。どれほど努力を重ねても、私を見下す奴等が先に地位を得ていき、いつまでも上にのさばり続ける。そんな未来に辟易としていた時、小陽の存在を知った。お前の予想通り、彼女に取り入って婿養子になれば、ある程度の奴等を黙らせることができるし、将来的に理事長の席が手に入ると考えたんだ」
長年行ってきた自分本位な行動、その背景が掻い摘んで語られる。淡々と話してはいるが、その途中では幾度か眉間に皺を作り、当時の感情を露わにしていた。
「入籍の準備に忙しく、仕事でもストレスを感じていた時期だった。気分転換をしようと、武蔵に連れて行かれたクラブで、出会ってしまったんだ。彼女に…」
”彼女に”その言葉だけはとても柔らかな声質で口にする。懐かしむように、少し目尻を下げ、口角を緩めると、話を続けた。
「一目で恋に落ちた…婚約している立場でありながら、隠れて店に何度も通ったよ。そして、彼女も私に好意を持っていると知った時、想いを抑えられなかった。今思えば…あの時が人生の分岐点だったかもしれない」
崇志は、僅かに姿勢を前傾にし、両手をテーブルの上に乗せてギュッと手を組む。そして、グッと顔を引き締めると、一呼吸置いてから口を開いた。
「あの頃の私は欲深かった。権力と愛の両方を得られると、誰にも知られないように彼女と逢瀬を重ねた。だが、全てが順調に進んでいると思った時だ。理事長になった後の権力維持を見据えて生した子供は、一人は女児で一人は疾患を抱えていた。どちらも跡取りには不向きだと、勝手に落胆したよ。計画が立ち行かなくなった苛立ちを小陽やお前にぶつけ、家庭は完全に冷めた。もともと、目的のための結婚で、結婚直後から夫婦のやり取りは最小限。愛する人が別にいたこともあって、小陽にも、紬祈にすらも愛情が湧かなかった。ただの同居人のような関係を続けながら、彼女に今まで以上に愛情を注ぎ、そして、お前が産まれてから1年程経った頃…」
話を止めた崇志は、ごくりと唾を飲み込む。視線を落とし、組んだ手を見つめながら、短い続きを話す。その声は、微かに震え、今までよりも音量が下がっていた。
「彼女から…妊娠したと告げられたんだ…」
天井を見つめていた虚ろな目が、ゆっくりと開いていく。どうやら話は聞いていたらしく、首に力を入れて頭を上げ始めた。そうして顔が起き上がった時、正面に見えたのは崇志の頭頂部。
「は?」
「彼女は、一人で産んで育てると言い張った。私に迷惑を掛けたくないから、養育費もいらないと。結婚したことは話していたから、最初から覚悟を決めて私に告げたんだろう。頑なな彼女に、私は頷くしかなかった。私達の間に子ができたことは嬉しかったのに、隠し子がいると知られれば、せっかく得た権力を全て失ってしまうと、保身に走ったんだ。全く、情けない男だよ」
真下を向いていた崇志が、少しだけ顔を上げる。祐毅から微かに見える表情は、悲しそうに微笑んでいた。
「彼女は私に出産予定を知らせることなく、本当に一人で産んだ。だが私は、どうしても気になって、二人共元気かだけでも教えて欲しいと連絡した。そうしたら、彼女は”子供の事は忘れて”とだけ返してきた。理由を問い詰めると、病気を抱えて産まれてしまって長くは生きられないからだと言う。失意にくれたが、愛する人との子を諦められなかった私は、彼女をどうにか説得して、子供をうちの病院へ転院させたんだ」
崇志の瞳には、涙が滲み始める。それが零れ落ちる前に左右の目を拭うと、深く息を吸って心を落ち着けた。
「お義父さんを探しに行く時にだけ、小児科フロアに様子を見に行った。廊下やプレイルームにいなければ見ることは出来なかったが、それでも懸命に生きている姿を時々見られるだけで幸せだったよ。そうして何年もひっそりと見守り続けていた、ある日の事だ。お義父さんを探し回っている時に見てしまった。プレイルームで、お前達三人が一緒にいるところを…」
最初こそ温かい声で話していた崇志だが、再び声が震えていた。頭の中で思い出すシーンに合わせて、彼の声質は表情のようにコロコロと変化する。
祐毅はいつしか、他人事ではないと前のめりで話を聴いていた。そして彼も同じく、記憶を探り出す。紬祈も自分も、あの部屋でたくさんの子と接してきた。崇志は一体、誰といるところを見たのかと。
「ゾッとしたよ、これは運命なのかと。冷静に考えれば、三人が出会う可能性は転院前に予見できたのに、あの子を救いたい一心で気が回らなかった。あの日以降、お義父さんを探しに行っても、あの子を見ることは止めたよ。側にお前達がいそうな気がして、怖くなってしまったんだ。それでも、何か出来ることはないかと考えて、彼女のもとに何度も通った。真正面から渡しても受け取ってもらえない金を、客という立場を利用して渡す。父親として出来る事は、そんな方法しか思いつかなかった。二人への資金援助という目的が増えた私は、更に権力を得ようと画策し、紬祈やお前に無情な行いをしてしまった」
怒鳴り声の中で、地べたに這いつくばる子と、それを見下ろす親。祐毅と崇志は、同じ場面を思い出していた。だが、抱く感情は決して同じではない。一方は眉間に深い皴を作り、もう一方は眉尻を下げる。
「その後、子供は手術を受け、無事に退院した。経過は気になったが、彼女に会えばその様子で、二人が仲良く元気に暮らしているのだろうと想像できた。そうして何年もたったある日、彼女の様子が僅かだがいつもと違って見える日が続いた。気になって、子供と何かあったのかと尋ねると、あの子と連絡が取れないと言う。中学生になった頃から、彼女の仕事のせいで周りから卑しい目で見られるから辞めてほしいと、何度も言われていたらしい。だが、子を養わねばならない彼女は、仕事は辞められないと謝り続けるしかなかった。そのやり取りを繰り返すたびに親子関係は悪くなっていき、子供は大学進学と同時に家を出て、”もう連絡してこないで”という連絡を最後に音沙汰が無いそうだ。涙ながらに話す彼女に、私は慰めの言葉しか掛けられなかった。悪い連絡が来ないのなら、元気に暮らしているのだろうと」
組んだ己の手に視線は向いているが、目には力が入っていない崇志。彼が見ているのは、記憶に焼き付いて離れない、愛する人の涙。悲しみに表情を歪める崇志を、何時しか怒りを忘れた顔で祐毅は見つめていた。
「それ以降、彼女の前であの子の話はしなかった。思い出させてはいけないと、無意識に避けていたんだろう。しかし一方では、彼女のためにあの子を探してやりたいとも思っていた。私が引き裂いてしまった二人の仲を、どうにか戻したいと。記憶にある幼少期の顔を思い出しては、来院する患者の中にいないかと時折気を配ったが、当然見つかるはずもなかった。手がかりすらも探せず、10年以上が経過したあの日…病院を去ることになった、あの日だ…」
虚ろな目に力を入れ直し、顔を上げた崇志は、悲痛な表情を祐毅に向ける。
「お前が連れていた女性が、似ていたんだ…若い頃の彼女に。人伝に名を聴いたら“真島つむぎ“だというから、他人の空似かと、その時は気に留めなかった。だが、お前が逮捕され、病院の対応が報道された時だ。マスコミに答える仁田の後ろに、あの女性がいた。その姿を見ると、彼女は酷く驚いた顔をして、名前を呟いたんだ」
祐毅にしては珍しく、終始静かに話を聴いていた。普段の彼ならば、これまで聞いた内容から相手が何を話したいかを先読みし、答えを提示していたことだろう。相手が崇志なのだから、尚更そうして共にいる時間を短縮したかったはずだ。だが、思いもよらぬ隠し子の存在、そしてその対象が自身の身近な人物であるという驚倒が、彼の思考を停めてしまっていた。
短く、だが大きく息を吸った崇志は、こう祐毅に問いかける。
「お前の秘書だった女性は”美住雅綺”という名ではないのか?」




