第55話
「待って!」
祐毅の行動の先が読めた雅綺は、自ら彼に近づいた。あと一歩進めばぶつかりそうな位置で足を止め、彼の鎖骨辺りに両手を置く。ここから先には行かせない、そう言うように僅かに力を入れて彼の体を押す。
「ごめん、そろそろ行かないといけないんだ」
空いている手で雅綺の手首を掴む。強く握らない様に加減しながら自身の体から剥がすが、彼女はすぐにまた同じ位置に手を戻した。
「警察に捕まったら…祐毅さんは、どうなってしまうんですか?」
「僕の事は心配しなくていい。これも、計画の内だから」
言葉の通り、心配させまいと祐毅は微笑む。だが、その表情を見た雅綺は、顔から血の気が引き、段々と頭が下がっていく。彼女の額が祐毅の左肩に当たって止まると、両手が彼のジャケットをギュッと握る。首の後ろをジャケットに引っ張られた祐毅は、数秒間、驚いた表情で固まった。発言に偽りはない。自動的に出てくるようになってしまったが、表情は微笑んでいた。不安にさせる要素は、何一つない。なのに彼女は、どこかに違和感を感じ、こうして縋りついて行く手を阻む。
祐毅は、雅綺の後頭部にそっと手を置き、ゆっくりと一定の間隔で撫で始める。大丈夫、心配しないで、と穏やかな声で絶えず話しかけ、彼女の気持ちを落ち着かせようと努めた。
雅綺も子供ではない。数回祐毅に宥められ、静かに顔を上げる。彼を見上げるのは、曇天のような表情。悲しみや不安の残る瞳から、雨粒が零れ落ちる。祐毅は指で雫の通り道を拭うと、雲の切れ間から差し込む陽光のような、温かい笑顔を彼女に向けた。その顔を見た雅綺は、ぎこちなく口角を上げる。笑顔、ではないが、彼女の心に僅かな余裕ができた。そう感じ取った祐毅は、彼女の肩にそっと触れる。
「どれだけ離れていても、君はいつまでも僕達の大事な妹だ。どうか姉さんが紡いだその命を、大事にしてくれ」
これが、祐毅が雅綺にかける最後の言葉。今一度彼女に、親睦の深かった紬祈を思い出させた。現実は、良い事ばかりが起きるわけではないし、奇跡が毎回訪れるわけでもない。死を考えてしまっても、彼女が思い留まれるように、紬祈に救われたことと傍で見守られていることを、再認識させたのだ。
雅綺は、溢れ出そうになる涙を堪えた。泣いても事態は変わらない、そう理解していたからこそ、行動に制限を掛けた。だが、そこで抑えた感情は、違う形で表に出る。彼女の腕は祐毅の胴を回り、彼の体を強く抱き締めた。
「…はい……兄さんッ…」
不安定な声で語尾を詰まらせながらも、彼女は初めて”兄”と口にした。その瞬間、祐毅の脳裏に懐かしい記憶が蘇る。絵本を読んだり、ゲームをしたり、三人で楽しく過ごした時間。病室で雅綺と明禎が意気投合した時。病気を抱え、苦しい時は多かったが、家族がいて、妹がいて、友人がいた。心から笑えて、周りに笑顔が溢れていたのは、幼少期だけ。今思えば、あの時が一番幸せな時間だったかもしれない。そう思い至ると、祐毅の視界は突然滲む。
彼は、今までに何度も家族の笑顔を回顧した。その度に離愁と後悔に苛まれ、抱いた感情を復讐の炎に投じてきた。しかし今回だけは、幸福感に満たされる。全て失ったと思っていた笑顔は、皆の想いで命を紡がれ、たった一つだけ目の前に存在している。さすがに幼少期のような屈託のない笑顔は見せてくれないが、今を生き、笑いかけてくれる存在が残ってくれていることが、彼には堪らなく嬉しかった。
もう泣かないでと、子供を寝かしつけるように背中をトントンと叩く。その動作は、彼女と同時に己の心も落ち着けるように、規則正しいリズムで繰り返される。
解かれる腕、少しずつ離れる体。俯いた顔には即座に両手が伸び、左右に忙しく動く。手が体の側面に垂れると、ようやく顔が上げられた。赤く腫れた目と視線が合うと、祐毅は朗らかに笑う。笑顔を向けられた雅綺は、そっくりな笑みを返した。
「では、僕はそろそろ行きます。真島さん、最後に一つ仕事を頼みたい」
彼女の顔から、笑みはすぐに消えた。祐毅の言葉に反応ができず、目を白黒させたまま硬直する。
「公私混同をしないあなたなら、仕事を引き受けてくれますよね?」
「……理事長は、本当にズルい人です」
祐毅はしたり顔を見せ、真島はその顔を睨みつける。その瞳に宿る感情は、恨みや怒りよりも寂しさが強かった。祐毅は右足を左足の後ろに引き、体を横向きにする。そして右手で机を指した。
「この箱の中身を、全て処分しておいてもらえますか?」
机の上には、段ボールが一つ。この部屋に持ってきた荷物は、1年程で再び箱の中へと戻った。そのハンカチも、そう付け加えると、体の向きを真島の正面へと戻し、スッと背筋を伸ばす。
「では、行ってきます」
真島の目をしっかりと見据えて微笑むと、彼女の横へと大きく一歩を踏み出し、そのまま通り過ぎていく。ズンズンと扉に向かって歩く祐毅。すぐに彼の姿を目で追う真島は、振り返るとローヒールパンプスをピッタリと揃える。背中を見据え、彼がドアノブに手を掛けた瞬間。
「どうぞお気をつけて行ってらっしゃいませ」
お腹の前で綺麗に手を重ね、45度の角度で腰から上半身を倒す。頭の頂点から背筋に掛けて1本芯が通ったような美しいお辞儀を、扉から出る直前、祐毅は視界に捉える。秘書として送り出すその姿勢は、雅綺と真島の両方と別れを済ませたことを表しているようで、彼の表情からは自然と笑みが零れた。
「姉さんと一緒に、見守ってるからね」
優しい響きは彼女に届く前に、閉じられた扉の音にかき消される。体を反転させ、扉に静かにもたれ掛かる祐毅は、そっと左胸に手を当てて目を瞑った。
「姉さん。今まで頑張ってくれて、本当にありがとう。やりたいことをやれて、僕は幸せだったよ。だからいつでも、休んでいいからね」
傍から聞けば、ただの独り言。だが祐毅にとっては、彼の命を救い、彼の幸せを願った、大切な姉へのメッセージ。手に伝わる鼓動は、乱れることなく動き続けていた。瞼を開き、いつもの微笑みで表情を固定すると、祐毅は秘書室を後にする。
午前8時過ぎ。病院の裏口から出ると、そこには弁護士の御武が待っていた。待たせたね、と詫びを伝えて彼の車に乗り込むと、すぐに車は発進する。
午前8時半。車を駐車場に停めた二人は、目的地まで歩いて向かう。
「僕の要望、忘れてないよね?必ず頼むよ?依頼人は僕だから」
「わかってる。善処はするよ」
至って冷静に不確実な回答を返す御武に、眉を顰める祐毅。少々不満を抱えながらも、それ以上念を押すことはしなかった。
二人はある建物の敷地内に入る。大きく聳え立つ建物。その正面玄関から、久我原が現れた。ドスドスと大股で近づいてくる彼に、おはようと祐毅が陽気に挨拶をする。だが、神妙な面持ちの彼から、挨拶が返ってくることはなかった。
「本当に、来たんだな」
祐毅と御武を交互に見る久我原。もちろん、そう微笑んで返す祐毅は、はっきりとこう、口にする。
「僕は罪を犯したからね」
グッと奥歯を噛み、言葉を堪える久我原。話は中で聞く、そう落ち着いた声で言うと、彼は二人に背を向けて歩き出す。後に続いて祐毅と御武は、警視庁本部庁舎へと入っていった。




