第54話
雅綺の急な問いかけに、祐毅は目を見開いたまま停止する。
「院内ではお見掛けしませんでしたが…」
祐毅の様子に、躊躇いながらも質問の続きを話す雅綺。彼女からゆっくりと視線を外した彼は、床を見つめながら苦く微笑んだ。
「…姉さんは、死んだんだ。だいぶ前にね」
両手で口を覆い、絶句する雅綺。彼女の知る紬祈は、健康で元気な子供だった。医者になると豪語していたことを憶えているのであれば、この病院で働いているのではと、想像していたことだろう。
「でも、僕達の体の中で生き続けてる」
「……僕…達?」
最初、雅綺には言葉の意味が理解できなかった。“思い出”という形で生き続けている、と言う意味であれば、”心の中”が適切である。しかし、彼はその言葉を選ばなかった。ならば言葉の真意は別にあると、二人の共通点を探す。
祐毅は考える雅綺を黙って見守る。彼女なら答えを見つけられるはずだと、あえてヒントは出さず、回答を待った。そして十数秒後、彼の耳に入ってきたのは、彼女が息を呑む音。次に”まさか”と聞こえると、祐毅は大きく頷いた。
「僕達は姉さんから移植を受けて、こうして今も生きている。医者にはなれなかったけど、姉さんは僕達を治してくれたんだ」
「そんな……」
「僕と君だけじゃない。当時入院していた子供数名に、移植手術が行われた。皆が今も元気かはわからないけど、君が生きているとわかって嬉しかったよ。でも、自殺を考えていると知って、姉さんが救った命を死なせてはいけないと思った。秘書になって欲しいというのは、自殺を止めるための一案に過ぎない。僕の秘書にならなくても、どこかで生きていてくれれば、それでよかったんだ」
理事会で自分が理事長に就任することを見据え、秘書を探そうとしていたことは間違いない。だが、それは雅綺でなくても良かった。祐毅は、彼女が秘書という職に誇りを持っていると推理したが、一方で突然現れた男の秘書になどならないだろうという予測もしていた。彼女が生きたいと思えるように説得をし、誇りを持って働ける環境を準備してあげたいという思いで提案した、選択肢の一つ。
「一緒に仕事ができて、楽しかったよ。君がとても優秀だということは、院内の誰もが認めている。決して容姿や性別で秘書に選ばれたわけではないと、皆理解しているよ。僕の願いが届けば、次の理事長は仁田部長だから、秘書として、しっかりサポートしてあげて」
頬を緩め、軽い調子で話す祐毅。雅綺は目をギュッと瞑って、ブンブンと首を振る。まるで嫌がる子供のような反応に、祐毅は笑いを堪えきれず、ププッと吹き出した。
「いいんだよ、君が罪の意識を感じなくても。最後は誰も巻き込まないと決めてたし、颯毅にも逃げてもらった。それに、君には幸せに生きて欲しいんだ。今まで大変な思いをたくさんしてきたんだから、幸せにならないと。妹の幸せを願い、危険から守るのが兄の役目なんだよ」
「どうして……本当の兄妹じゃないのに…」
「そんなこと関係ない。時には血の繋がりが憎く感じる時もあるし、実の親ではない人が愛情を与えてくれる時もある。大事なのは相手をどう想うかだ」
柔和な表情で雅綺を見つめる祐毅は、崇志に叱咤された苦悩の日々を思い出していた。彼を排斥した今でも、当時を思い返すと陽炎のように心が揺らぐ。だが、大叔父達と過ごした平穏な日々が呼び起こされると、心に凪が訪れた。
「せっかく会えたのに…また一人に……」
雅綺の潤んだ瞳から、ほろりと雫が零れ落ちる。祐毅はため息を漏らすと、机から腰を上げ、彼女に歩み寄った。
「女の子を泣かせちゃダメなんだろ?」
ポケットからハンカチを出し、彼女の顔の近くに差し出す。雅綺は驚いたように小さく口を開く。自分が幼い頃に言った言葉だと気付いたのだろう。ありがとうございます、と呟きながら、祐毅の手からハンカチを取る。
「前に言ったことを憶えているかい?君は一人じゃないって。僕がいなくても、颯毅やレイラさんがいる。困ったことがあれば、二人を頼るんだ。必ず力になってくれるから。レイラさんのことは、あまり好きじゃないかもしれないけど、時には女性でなければ頼めない事もあるだろう?面倒見のいい人だから、きっと手を差し伸べてくれる。それに…」
左右の目尻を交互にハンカチで押さえながら、時折祐毅の顔を見上げる雅綺。瞬きで頷く彼女を、穏やかな目で見つめながら、祐毅は話を続ける。
「姉さんが、傍で見守っててくれるから」
「紬祈さんが?」
うん、と温和な声を出しながら、まるで子供を諭すように、膝を曲げて顔を覗き込む。目を赤くした雅綺は、きょとんとした顔で祐毅をじっと見つめる。数秒後、なぜか彼女はふふっと笑った。
「祐毅さんは変わりましたね。昔は幽霊とか、空想とか、そういう類は信じない、大人びた子供だったのに」
今度は祐毅が、束の間ぼうっと動きを止める。頭の中では、明禎が昔話していた言葉を思い出していた。”神様が助けてくれる”その言葉に対して自分が何を思ったかを。そういえばそうだったと思い至った時、真っ先に動いたのは口角。両端がクッと上がり、次に目尻が下がった。
「…そうだね。確かに昔は、目に見えないものを信じなかった。けど、今まで目の当たりにしてきた出来事が、僕の意識を変えたんだ。姉さんが脳死になり、その心臓は僕への適合条件を満たして移植された。いくら適合する心臓であっても、拒絶反応が起こる可能性はゼロではなく、生きているうちはその確率が完全に無くなることはない。でも、僕には今まで目立った拒絶反応は起きなかった。それに、姉さんの体から移植を受けた子供達は皆無事に退院し、少なくともこの病院には亡くなったという記録は残されていない。他にも、説明をつけるのが難しい出来事に遭遇したことが、医者になってから何度かあったよ。人為的でなく、科学的にも証明が難しい、ごく稀に発生する好事は、奇跡や幸運と呼ばなければ腑に落ちないと、徐々に信じ始めたんだ」
神や幽霊、奇跡といった目に見えないものは信じない。現実主義者だった子供は、心臓移植を契機に、その思考に変化が現れる。姉の日記に書いてあった”二人の運を信じる”と言う言葉。姉の心臓で自らが歩んできた人生。その二つが影響し合い、彼は奇跡や運というものの存在を意識し始めた。そこで更に、医者として働く中で、身の回りで起こる稀有な出来事。中でも自殺志願者の回収で遭遇した、非血縁者間でのHLA型の一致は、彼が不思議な力や存在を認知するには十分な出来事だった。
「だから僕は、姉さんが今もどこかで見守ってくれてると思ってる。天国とか、幽霊とか、不確実なものだけど、こうして僕達が健康に過ごせているのは、近くで病気の脅威から守ってくれてるんじゃないかってね」
祐毅自身、病気に罹らないことを、全てスピリチュアルな理由で説明付けようとは思っていない。免疫抑制剤を飲み続ける彼は、マスクの着用や手指消毒などを毎日20年以上欠かさなかった。まるで呼吸をするように続けてきた感染予防の成果に加え、姉に守られているという意識が、ある種プラシーボ効果として彼の健康を支えてきたのだろう。
考え過ぎかな?と微笑する祐毅。表情、口調、雰囲気から、彼が本当にそう思っていると感じた雅綺は、左右に2往復、首を振る。彼女にも、そうであって欲しいという思いが、芽生え始めた瞬間だった。
「きっと姉さんは、君の事も見守ってくれているよ」
慈愛に満ちた表情でかけられる温柔な声。その言葉の意味と祐毅の気持ちは、雅綺の心にしっかり届く。はい、と言う返事は掠れ、再び溢れ始める涙。それをハンカチで受け止めながら、彼女は俯いて顔を隠す。再び泣かせてしまったことで、己に落胆する祐毅は、あーぁと口にする。彼には、まだ話すべきセリフが残っていた。この様子で聞いてもらえるのかと、不安が顔に現れる。だが、泣き止むのを待ってはいられない。祐毅は、そっと雅綺の肩に手を置き、彼女の名前を呼んだ。
「君には、困難な状況にも自分で対処しようとする、強い心がある。でももしかしたら、死んだ方が楽だと考えてしまうほど辛く苦しい出来事が、今後起こるかもしれない。そういう時は、周りを頼れ。周りの助けがあっても解決できなかったら、現実から逃げてもいい。どれだけ逃げてもいいから、絶対に死ぬな。生きていれば、僕達が出会えたように、きっと奇跡が起きるから」
いいね?という優しい問いかけに、顔を伏せたまま頷く雅綺。肩を震わせ、すすり泣く声しか出さない彼女に、祐毅は一方的に話し続ける。
「あの時、僕の手を取ってくれて…生きることを選んでくれて、ありがとう」
ピクッと両肩が上がり、震えが止まる。彼女は懸命にハンカチで目を拭いながら、ゆっくりと顔を上げた。
「私は…祐毅さんかもしれないと…思ったから…手を取ったんです」
しゃくり上げながら答える雅綺。祐毅を一心に見つめる濡れた瞳は、パッチリと開かれていて、もう寂しさや辛さといった感情が宿っているようには思えない。ありがとう、満足そうな笑みを浮かべてそう言うと、祐毅は雅綺の肩から手を放した。彼女に背を向け、机に数歩で戻ると、置いてあった鞄を手に取る。身を翻し、雅綺の元まで戻るが、先程の半分の歩数で足を止めた。見下ろした先の、自身を見上げる揺れた瞳と視線がぶつかると、用意していた最後の言葉を掛けるために、すぅっと小さく息を吸う。




