第53話
午前7時半。理事長室の前まで戻ってきた祐毅。扉を開くと、秘書室には真島がいた。
「あっ。おはようございます、理事長」
来訪者とは違い、ノックもせずに入ってきたことに驚く彼女は、入室してきた人物が祐毅だとわかると、丁寧にお辞儀をした。しかし、普段沈着な彼女の表情は、なぜか曇ったまま。
「おはようございます。ちょうどよかった。話したいことがあるので、理事長室に来てもらえますか?」
「はい。私もお話があります」
真島の返答に疑問を抱きながらも、彼女を理事長室へと招き入れた。
広い理事長室。祐毅は、どの椅子にも座らず、木製の重厚な机に腰かける。真島は、入室早々呆気に取られながら、室内をキョロキョロと見回す。ゆっくりした足取りで祐毅と対面する位置まで歩き、踵を整えると、彼の顔から下に目線を走らせた。
「今日は、普段とは雰囲気の違う服装なのですね」
「あぁ、これですか?むしろこっちが本当の僕なので」
真島の指摘に、祐毅はワイシャツの襟を指で軽く引っ張る。彼のスーツも、ワイシャツも、ネクタイに至るまでオールブラック。自殺志願者を回収する時に纏う服装は、復讐のために行動した自分が逮捕されるのだと、けじめをつけるために身に着けた。もちろん、真島がその意図に気づくはずもない。
「それで、話と言うのは?」
腕時計に目線を落とした祐毅は、先に真島の話を聞こうと問いかける。自身の台本からは逸脱するが、アドリブを許容する時間はあると見込んだからだ。
話を促された真島は、返事をしながらスマートフォンを操作する。一枚の画像を表示させると、一歩祐毅に近づいて画面を見せた。
「これが昨晩、池神大臣の秘書の波須沼さんから送られてきまして…」
見覚えのある画像に、ハッと息を呑む。それは、祐毅が千登里から入手した記事だった。
「理事長が逮捕されるかもしれないから、大臣が私を心配して情報を提供してくれたそうです。一緒にいれば逮捕される可能性もあるので、記事が世に出る前に退職して大臣の下に来れば、守ってもらえると…」
話を聞き、祐毅の脳裏に会食の時の光景が浮かぶ。手を握る仕草、彼女を見つめる目線。大臣をただの女好きと認識していたことが、甘すぎたのだと悟る。
「狙いはあなただったのか…」
はーっと長く息を吐き、カクンと首を落とす。自分の行いのせいで彼女が目をつけらたのか、それとも逆なのか。考えたところでそれは鶏が先か卵が先かというジレンマ。考えるだけ無駄であり、この問いは台本の大筋に影響を及ぼすものではないと判断した祐毅は、僅かにアドリブを書き足して話し始める。
「僕は、これから警察に出頭します。あなたが大臣の下で働きたいということであれば、止めはしません。ですが、僕がいなくなった後もここで働けるよう、仁田部長には話しておきました。僕個人としては、あなたの力で次の理事長を支えてほしいですし、大臣の下よりはこちらの方が環境は良いと考えていますが、選ぶのはあなたです」
"出頭"という言葉を聞いて真島は、えっ、と呟き、悲痛な表情を浮かべる。だが、やけにスムーズな説明と提示された選択肢に、思考は段々と冷静になり、話を理解していく。静かに目を閉じ、そして何かを決断したように小さく頷くと、真っ直ぐ祐毅を見据えた。
「私は、理事長と一緒に行きます」
「駄目です、僕一人で行きます。あなたはただ、僕に言われてスケジュールを調整しただけで、関与はしていない。話を聞かれても”知らなかった”と答えてください」
「私は、理事長のしていることが罪に当たると知っていて止めませんでした。共犯として罰を受けるべきです」
真島は、胸の前でギュッと両手を握る。微弱に震えるその手からは、罰を受けることへの恐怖が感じられる。だが、祐毅に向けられた真剣な瞳は、覚悟を決めたと訴えてきた。その目を見つめ返す男は、彼女が話し終えて数秒後、手で口元を抑えながら、失礼にもクスクスと笑う。
「真面目だなぁ。いいんですよ、罰を受けるのは僕一人で。事を始めたのは僕、勝手に計画を話して巻き込んだのも僕です。まぁ、あなたなら理解してくれると思って打ち明けたんですけどね。レシピエントの気持ちが」
腕を体の前にだらりと垂らし、笑うのを止めると、穏やかな目で彼女を見つめる。
「ですよね、真島つむぎさん。いや、美住雅綺さんか。それとも、こう呼んだ方がいいかな?」
祐毅はニッコリと笑い、同意を求めるように首を傾げた。
「マッキー?」
「やっぱり、ユッキー…祐毅さんなんですね」
笑顔が固まり、そして徐々に引き攣っていく祐毅の表情。対して雅綺は、真剣だった顔つきが次第に緩み、潤んだ眼差しと穏やかな面持ちへと変わる。
「え?いつから気づいてたの?」
「あの屋上で自己紹介をしてくれた時に、なんとなく…免疫抑制剤を飲んでいたことと、計画の内容を聞いて、確信しました」
二人が最後に会ったのは、もう20年以上も前の事。記憶も面影も朧気だろうに、雅綺は再開を果たしたその日から、かつて兄と慕った人物ではと、漠然とした印象を抱いていた。
予想だにしない事実を明かされ、あの日屋上で出会ってから今日まで彼女と共にした日常を脳内再生する祐毅。早送りで再生しながら、段々と火照っていく顔をゆっくりと両手で覆う。
「はっず…いや、”つむぎ”に改名するって聞いた時、姉さんのことを憶えてるのはわかったんだけど…今更”ユッキーだよ”なんて言って、憶えてないって言われたら寂しいから、黙ってたんだ」
「忘れるわけ、ないじゃないですか…ずっと会いたかったんです。退院する時、挨拶しようと祐毅さんの病室に行ったら、もぬけの殻で……どうしたのかと、心配だったんです」
「そうか…ごめんね。僕も挨拶をしたかったけど、事情があって退院することは誰にも告げずに病院を去ったんだ」
両手を顔から外し、申し訳なさそうな表情で雅綺に視線を向ける。
苦境を共に乗り越えた友人、ままごとではあるが共に時間を過ごした妹。当時は祐毅も、皆に挨拶をしたい、退院を見届けたいと思っていた。だが、紬祈に託されたものを確認するため、崇志から逃れるため、明禎と共に下したやむを得ない判断だった。
退院おめでとう、元気でね。そう伝えたかった相手が今、立派に成長した姿で目の前に存している。当時掛けたかった言葉は、口にせずともその姿で交わすことができた。やっと互いの正体を認識した二人は、見つめ合い、微笑み合う。暫し安穏とした雰囲気が理事長室に流れた。しかし突然、雅綺は何かに気づいたように、ハッと小さく口を開く。
「そういえば、紬祈さんは?」




