第51話
午前6時30分。祐毅は、精神科の医局を訪れる。疎らな明かりが人々の現在地を示す室内。求める人物の座席に目をやると、照明に照らされるロマンスグレーが目に入る。最短距離を通って目的地に近づくと、柔らかな声で話しかけた。
「仁田先生、おはようございます」
「おや、祐毅く…いや、理事長。おはようございます」
広げていた新聞を畳み、わざわざ立ち上がって、仁田は祐毅に頭を下げる。
「朝早くにすみません。少しお時間をいただけないでしょうか?」
仁田はすぐに頷き、カウンセリングルームへと祐毅を誘う。夜勤の医者達の視線を感じながら、二人は医局を後にする。
カウンセリングルームに入り、双方着席するや否や、祐毅は話の口火を切った。
「仁田先生、あなたにこれを託したい」
ジャケットの内側に手を入れると、懐から白い封筒を取り出し、仁田に差し出す。その封筒に書かれている文字を見て、仁田は目を大きく見開いた。
「どういうことですか!?突然辞任だなんて…」
封筒の表には、"辞任届"と書かれていた。仁田がその文字に驚くのも無理はない。祐毅が理事長に就任して1年未満。理事達との衝突もなく、経営者として未熟ながらも彼は立派にやってきた。辞任する理由など、周囲の人間からすれば見つけられないのだ。
「僕は自殺志願者を見つけては、脳死状態にして路上に放置していました。そのことが、とある週刊誌に掲載され、今日の正午には配信されます。これから警察に出頭するので、その前に理事長の職を辞すことにしました」
祐毅の告白に、目が点になるほど驚く仁田。唐突過ぎる話、衝撃的な内容に頭が回らず、暫くは口を開いたまま固まっていた。
「どうして…そんなことを……」
「僕は、死を望む者には安らかな死を与え、その体から臓器を摘出して生を望む患者を救うべきだと考え、ある計画を立てました。その計画の第一段階で、自殺しようとしている人を探し、脳死状態にしてレシピエントが入院する病院の近くまで運んでいたんです。呼び出した救急車が運んだ先の病院で移植手術が行われることを祈って。この計画で見つけ、自殺を思い留まった人達を仁田先生に紹介していました」
淡々と説明を行う祐毅。それを静かに聴く仁田は、自身に紹介されていた患者達のいきさつを知り、驚きが僅かに薄れる。そして少時、視線を落として真っ白なテーブルを睨みながら沈黙した。なぜ祐毅がそんなことをしたのか、行動には理由があり、その理由には過去の出来事が関係しているのではないかと、自身が知り得る彼の過去を振り返る。行動と過去を照らし合わせ、繋がりがあるのかを考えた。だが、納得のいく繋がりは見つけられない。そこで、二つを繋げるために仮説を立て、その答えがYesであると仮定した時、彼は勢いよく顔を上げた。
「君はもしかして、誰から心臓を提供されたのか知っているのかい?」
ドナーの情報は、プライバシー保護の観点から、開示を求められても個人が特定できる情報は共有されない。祐毅の場合は、脳死となった姉の心臓を移植されたため、関係者はそれが本人に知られない様に殊更気を遣ったことだろう。
しかし、彼は知っている。よもやそんな質問をされるとはと、キョトンとした祐毅だが、左胸に手を当て、微笑みながら静かに頷いた。
「僕を治してくれたのは姉の心臓であると、退院してすぐに知りました。姉は僕達家族に、遺書のような手紙を遺してくれていたんです」
仁田は、そうかと呟いて、祐毅の右手を見つめた。彼が考えた仮説が、ようやく行動と過去を繋ぐ。眉を曇らせながら、少しずつ目線を下げ、またテーブルと目を合わせた。
「君は、紬祈ちゃんの心臓を移植されたことで、自責の念に囚われてしまったのかい?」
この問いかけに祐毅は、目をぱちくりさせた。ゆっくりと顔を上げた仁田と目が合うと、ニコッと笑い、さすがですねと声をかける。
「姉は、あの人から虐待を受けていました。苦しみから逃れたいという思いと僕を助けたいという思いが重なって、あの日窓から飛び降りて自殺したんです。虐待と自殺、臓器の親族優先提供が行われない条件が2つも揃っているのに、姉の計画とあの人のエゴによって、僕に心臓が移植されてしまった。本来この心臓は、僕以外の誰かを救うべきだったものです。遡れば、僕にもっと早く心臓が移植されるか、もっと早く死んでいれば、姉が自殺することも、虐待を受けることもなかったかもしれません。今こうして僕だけが生きていることが恨めしかった。それと同時に、どれだけ患者が待ち望んでも手に入らない命が、自殺や事件で簡単に失われる世の中が許せなかったんです」
移植を受けた背景とその時抱いた思いを滔々と語る。概略しか話されていないが、それは仁田が知らない、紬祈の死の真相。目を見開き、その後奥歯を噛み締める彼は、当時移植手術を止められずに手術室の前で立ち尽くしていた自分を思い出す。
「君が自分を責める必要はどこにもないだろう?君は子供だった。大人で、医者である私達があの手術を、廻神を止めるべきだった」
「先生こそ、責任を感じる必要はありません。あの一件は、僕が病気で産まれてしまったことと、あの人の歪んだ思想のせいで起きたことですから」
仁田は力の入った目で見つめると、穏やかな目が返ってくる。祐毅が誰かを責めるとすれば、自分以外にただ一人。しかしその人物にはもう、自ら復讐を遂げた。そして、世の中への復讐は、無謀と理解して挑んだ通り、達成は出来なかった。彼にはもう、恨みを向ける相手などいないのだ。
「僕は、姉と僕のような経験と思いを、誰にもして欲しくないと思ったんです。姉は虐待に苦しみ、必死に抗いましたが、現状は悪化するばかりで失意に暮れた。加えて、苦しむ僕を見ているのが辛く、助けたいという優しさから、自殺と自己犠牲を結び付けたんです。でも、僕は姉の心臓を移植されてまで生きたくはなかった。姉が死ぬくらいなら、一緒に死ぬか、僕が先に死ぬべきだったと、今でも思っています。あの時の僕達に足りなかったのは、僕に適合する心臓。だから僕は、臓器提供を待つ患者が手遅れにならないように、見守る家族が苦しまないように、世の中を変えたかった。僕が生かされたように、倫理では救えない命を救う。そのために自殺志願者から臓器を摘出しようと考えたんです。彼等は辛い現実に悩み、苦しみ、抗い、耐えたが、何も変えられないと絶望し、生きることを拒絶した。彼等の思考が死という選択肢で支配されてしまえば、それはもう末期疾患患者と一緒です。病を患ったのが肉体か精神か、違うのはそれだけ。彼等は死という終末期治療を望んでいる。臓器を摘出する対価として、彼等を麻酔で眠らせてから、脳死状態にしました。死の間際だけでも苦痛を取り除く事が彼等にとっての救いであり、僕ができる最大限の感謝だと考えてのことです」
先生ならわかってくれますよね、そう静かに微笑む祐毅。仁田は返す言葉を見つけられず、ただただ彼の目を見つめていた。
祐毅の口調に抑揚はなかった。時と共に感情の熱量は落ちてしまったが、彼は20有余年、当時抱いた悲しみと恨みを、今も忘れずに胸の内に秘めている。友人の死で自殺志願者からの臓器摘出を思いつき、姉の死で彼等を救済すべきと考えを深めた。大人になり、医者として知識を身に着け、その発想の体現が禁忌であると知り得たが、彼はその禁忌を疑った。どんな方法を使っても、一人でも多く救う。この行いに、倫理という世の正義が勝るのかと。彼の中では答えはNo。倫理を守ることより、優先すべきは人命。己の行いが悪として世に露呈するその日まで、人を救い続けると決めたのだ。
「昼はこの病院の医者として、姉が生きていれば救うはずだった患者を救い、夜は僕の復讐を遂げるために行動してきました。それが誰かの代わりに姉の心臓で救われた、僕の役目だと思って。理事長の席も、役目を果たすために必要だっただけです。ですが、その役目は今日で終えました。なので、本来理事長になるべきだった人に、権限を返そうと」
テーブルの上、二人の中間辺りに置かれた封筒を、スッと仁田の前に押し出す。
昼と夜で別の顔を持つ、それはまるで建前と本音のようだが、その二つは”人を救う”という一つの信念をもとに作られた顔。本音が暴かれてしまった今、建前で繕うことは難しい。巻き戻せぬ時の流れの中で、せめて自分が奪ったものを本来あるべき場所に返そうと、祐毅は仁田を訪ねたのだ。
「祖父は生前、病院を継がせるなら信頼できる者に、と言っていました。恐らく、あなたに任せるつもりだったんです。孫の様子を担当医ではないあなたに診に来させるくらいですから、相当信頼していたのでしょう」
酔った勢いだったかもしれないが、明禎の言葉を本音と受け取り、祐毅なりに該当する人物を推察した。彼自身も信頼を置く仁田であれば、例え明禎の意思とは異なっていても、病院を任せられると判断して、辞任届を託す相手に選んだのだ。
それは少し違うな、と仁田はくすりと笑う。その言葉と笑いに対し、祐毅は首を傾げた。
「私が君の見舞いに行ったのは、お祖父さんに診てほしいと頼まれたからでもあるが、子を持つ親として勝手に心配していたからなんだ。君と廻神の関係は、なんとなくわかっていた。君を授かった時、最初は喜んでいたのに、なぜだかあいつは急に態度を変えてね。いくら聞いても子供などいないと言い張った。心臓に病を抱えていることがわかったと、後でお祖父さんから聞いたんだ。なぜ廻神があんな態度を取ったのかはわからない。でも君は、病気と必死に闘い、毎日を懸命に生きていた。だから、何かしてあげたいと思ったんだ」
何もできなかったがね、そう言って苦笑いする仁田。その顔を見つめる祐毅の心には、一瞬だけ”この人のような父親だったら”という思いが芽生える。だがすぐに、その気持ちは消え去った。”自分に父はいない、祖父が父親代わり”、その言葉が自然と湧いてきたからだ。
「依存症の時もそうだったが、私がもっと廻神を診るべきだった。あいつが何を考えてあんな態度を取ったのか、きちんと原因を突き止めて、対話を重ねていれば、態度を改めたかもしれない。私は友としても、精神科医としても失格だ。本当にすまなかった」
テーブルすれすれまで頭を下げる仁田にすぐさま、祐毅は頭を上げるように声を掛ける。その数秒後に上がってきた顔は、酷く渋い顔をしていた。
「出頭すると言っていたが、君は自分がどんな罪を犯し、どんな罰を受けるのか、わかっているんだね?」
「はい。行動する前に全て調べて、わかった上で実行してきました」
そうか、と呟いて項垂れる仁田は、祐毅の犯した罪の重さと受けるべき罰、そして彼の行く末までをも察しているようだった。
「これも計画の内と言うことか……途中で止めようとか、逃げようとは思わなかったのかい?移植を受けたことに負い目を感じず、ただ幸せに生きて欲しい。お祖父さんや紬祈ちゃんがそう願っていたと、君もわかっていただろう?」
「もちろん、理解はしていました。これでも、幸せな人生を送れたと思っているんですよ?全ては無理でしたが、人を救うことに命を費やすことができた。己の信念を貫き通せる人生は、そう送れるものではありません。家族には"ありがとう、幸せだった”と、胸を張って言えます」
「今からでも、計画の結末を変えることは出来ないのかい?君に生きていて欲しい、そう願うのは私だけではないはずだ。君を大事に想ってくれている人もいるだろう?」
”大事に想ってくれる人”裏を返せば”祐毅が大事に想う人”でもある。ぽつぽつと、幾人かの顔が頭に浮かぶが、彼は小さく首を横に振った。それは仁田と自らに向けた、そんな人はいないという回答。
「この計画を考えた時に、いつどうなってもいいように、何も残さない様に生きると決めました。人間関係もその一つで、出来るだけ親密な人間関係は築かずに生きてきたつもりです。友人と呼ぶ人達も、この計画に必要だったから近づいただけで、僕が犯罪者と知れば自然と離れ、いずれ存在を忘れるでしょう」
微笑みを維持し、自身に向けられた哀愁を含んだ瞳を見返す祐毅。対する相手は、その瞳から伝わる覚悟を悟り、視線を落とす。辞任届を見据え、テーブルからゆっくりと両手で持ち上げると、封筒の両端をクシャッと握る。
「私に、何かできることはあるかい?」
項垂れながら、震える声で仁田は問うた。これ以上説得を重ねても祐毅は意志を曲げない。自分に出来ることは彼の意志を尊重し、未練のないように願いを聞き届けることだと、自身の無力と無念に目を瞑った。
「真島さんを、引き続き秘書として、ここで働けるようにして欲しいんです。彼女は僕の計画に一切加担していません。真面目で気配りのできる優秀な秘書なので、きっと次の理事長の事もしっかりとサポートしてくれると思います。あと、その封筒の中にあなたを理事長に推す推薦状を入れました。尤も、理事長を辞める僕の推薦状など何の効力も持たないでしょうが、理事達に内容を共有してください。内容を聞いた上で、理事会で決議がなされたのなら、僕だけでなく、祖父も納得するでしょう」
テーブルに向けて、はぁっと大きく息をぶつけると、ようやく顔を上げる仁田。力強い目をし、わかったと頷く彼も、祐毅同様覚悟を決めたようだ。返事を聞き、祐毅は安心したのか、ニコッと笑いかける。しかしすぐに表情を切り替えて、そろそろ行かないと、と真剣な顔をして立ち上がる。
「久しぶりに、君の本音を聞けた気がするよ」
「え?」
思いもよらない言葉に、真ん丸にした目を仁田に向ける。見上げてくる温かい目と視線が合うと、話が続けられた。
「昔、自分の子供が病気になったらいらないと思うか、私に質問したことがあったね?あの時、廻神と何かあったのかと聞いたら君は、何もないと答えた。でも本当は何かあって、それを隠したんだろう?大人になって、父を止めたいと相談に来た時は、ちゃんと親子としての関係を築き直せたのだなと思っていた。しかし、今はずっと廻神の事を"あの人"と言っている。本当はあの時、父と呼びたくなかったんじゃないのかい?」
仁田の推察は、祐毅の心理を的確に言い当てていた。目をパチクリとさせ、次にハハッと明るく笑うと、感服しましたと何度も頷く。
「病気を理由に”息子ではない”と言われました。その時に、僕もあの人を父と思うことをやめたんです。祖父が父親代わりとして僕を育ててくれて、亡くなった後はあの人と暮らしましたが、ただあの人の欲を満たす道具として生かされただけでした。父親らしいことをしてもらった記憶は、一切ありません」
祐毅が思い出す崇志に笑顔はない。怒り、嫌悪、無関心。愛情を抱く人間が向けないような表情ばかりが思い浮かぶ。そしてその反対に、仁田が病室に何度も訪れたことを思い出す。喜び、哀れみ。元気づけるためだったかもしれないが、朗らかな笑顔を多く見せてくれたことは、祐毅にとって救いだった。
スッと背筋を伸ばし、仁田を正視すると、祐毅は平身低頭の姿勢を取る。
「仁田先生には家族共々、本当にご迷惑をおかけしました」
本来は、今まで世話になり、これから迷惑をかける自分の分だけでいい。しかし祐毅は、不慮の事故で礼を伝えられずに亡くなった祖父と、友であるのに横柄な態度を取った崇志が伝えるべきだった感謝と謝罪も、自らの礼に込めた。
ガタッと、立ち上がる勢いで椅子を倒しながら、仁田はテーブルを回り込む。頭を上げなさいと、彼の両肩に手を置き、ゆるりと上に押し上げる。
「君の行いは確かに罪で、罰せられなければならない。だが、その裏にある想いや信念までは、罪ではない。患者とその家族の心中を深く理解している君は、その心身を救おうと多くの人に寄り添った。きっとお祖父さんも紬祈ちゃんも、医者として頑張ったんだとわかってくれるよ」
頭を上げろという導きが聞こえた方向を祐毅が見ると、目に映った顔にハッと息が止まる。仁田の目には、涙が滲んでいた。
「私が…私がもっと早く、君の苦しみや辛さに気づいていれば……本当にすまなかった…」
ゆっくりと頭が下がっていく仁田。彼は、友人やその息子と話した過去を顧みる。突然態度を変え、我が子の存在を否定し続けた友人。実の父に言われた言葉と抱いた感情を、何でもないと隠す息子。一方は冷淡な表情で、一方は愛想笑いで、これ以上聞くなと突き放してきた。優しい性格の持ち主で、精神科医である仁田が二人を心配しないわけがない。実の親子なのだから背中を向け合ってはいけないと、対話をしようとも考えた。しかし、それはあくまで家庭の事情であって、自分は赤の他人。踏み込み過ぎれば逆効果になると、仕方なく見守ることにした。だが、どちらか一方とだけでも対話を続けていれば、祐毅の未来は変えられたかもしれない。そんな想像をし、後悔の念に駆られる。
床に崩れ落ちそうな仁田の両腕を、しっかりと握って支える祐毅。あなたは悪くないと何度も諭す彼の心には、小さなしこりが生まれる。一体何を意味するものなのか、考えることは後回しにし、ようやく足に力の入った仁田に向けて、今後の懸念を伝えた。
「マスコミが殺到するかもしれませんが、病院は一切関係ないと、毅然とした態度をとってください。あと、患者が一時的に減少するかもしれませんが、ほとぼりが冷めれば元に戻ると思うので、なんとか耐えてもらえれば」
「後のことは気にしなくていい。それより、まだ時間はあるんだろう?悔いの残らないように過ごしなさい」
目を赤らめながらも、微笑みを見せる仁田。祐毅の肩をポンポンと叩く仕草は、後は任せろと言っているように思えた。
「ありがとうございます。それでは、この病院をどうか、よろしくお願いします」
仁田の言動に安心した祐毅は、さっぱりとした笑顔を向けると、深々と一礼。顔を上げると凛とした表情を作り、カウンセリングルームを出て行った。




