第5話
車椅子で病室を連れ出されたあの日以降、祐毅に少しずつ変化が現れる。体調の良い日は病室を空けることが多くなったのだ。プレイルームで子供達と玩具で遊んだり、温かい日は外で散歩をしたり、読書すらも病室以外の場所でするようになった。
だが、変わったのは行動だけではない。体を動かすことで、自然と目の前に意識が集中し、悪い想像が脳内を駆け巡る時間が減った。また、家族以外の人間と一緒に過ごすことで、社交性も身についてきた。結果、不安感は徐々に薄れ、仏頂面が張り付いていた顔が笑顔へと塗り替わる。
毎日病室を訪れていた明禎は、最初こそ突然病室から消えた祐毅が心配でならなかったが、今では宝探しをするように、孫を探して回るのが楽しみになっていた。今日はどこで誰と遊んでいるのだろうと、想像に胸を弾ませながら孫を探す。
孫と話す時間が減ったことで、少し寂しさは感じる。だが、祐毅を見つけた時、彼が笑っていると、それだけで嬉しさが込み上げた。祐毅に笑顔でいてほしい、それが明禎の願いだったからだ。
「紬祈、ありがとうな」
プレイルームで遊ぶ祐毅を、部屋の入口から明禎が、さらにその後ろから紬祈がこっそりと見守る。紬祈は斜め上を一瞥し、微笑みを浮かべながら視線を前方に戻した。
「あんな深刻そうな顔で、祐毅が冷たすぎて祖父ちゃん悲しい、なんて言われたら、何もしないわけにはいかないよね」
「変なところだけ抜粋するな。病室から連れ出したい、友達を作ってあげられないかっていうのが、話の筋じゃったろう」
そうだったねと、紬祈は笑って受け流す。
「最近は儂を見つけると、笑顔で寄って来てくれるんじゃ。劇的な変化に、祖父ちゃん感動」
鼻をすすり、涙を拭くような素振りをするが、紬祈はあえて視界に入れなかった。
「このまま、元気で、笑顔でいてほしいね」
「そうじゃな」
温かく見守る二人に祐毅が気づくのは、しばらく経ってからのことだった。
初めてできた友達。その中には、紬祈が気にかけている子もいた。いつも本棚の傍に座って本を読んでいるその子を見つけると、決まって紬祈は隣にそっと座る。その光景を何度も見ている祐毅は、気になって二人に歩み寄った。
「姉ちゃん、また邪魔してるの?」
医学を勉強するために本を読む祐毅からすれば、読書の邪魔になっているのではないかと思ったのだろう。だが、同時に顔を上げた二人は、ニコニコとしたお揃いの笑顔を並べていた。体をピッタリと寄せ、二人の脚の間に本を置いて一緒に読んでいる。その光景は、まるで姉妹のようだった。
「邪魔してない、一緒に本読んでるの。雅綺ちゃん、可愛いからさ」
ねー、と隣に呼びかけながら、ギューッと抱き締める。わーい、と少女は嬉しそうに抱き締め返した。彼女は雅綺という、祐毅の1歳下の子だ。ぱっちりとした大きな目が特徴的な、おとなしい性格の子である。
「ごめんね。いつも姉ちゃんが邪魔して」
「ううん、楽しいよ。ユッキーも一緒に読もうよ」
呼ばれた名前に脳内が疑問符で埋め尽くされていると、雅綺に手を掴まれ隣へと誘導される。彼女を中心にして腰を下ろすと、本は彼女の脚の上へと移動した。
「ユッキーだなんて、いつの間にそんなに仲良くなったの?ずるい」
眉間に皴を寄せて首を傾げる祐毅をよそに、私もと強請る紬祈へ、雅綺はすぐに名を授ける。
「紬祈ちゃんは、ツッキーね」
彼女なりに規則性のある名付け方づけ方らしく、紬祈はすぐに名づけ返した。
「雅綺ちゃんは、今日からマッキーね」
「外国の人みたい」
キャッキャッと笑う二人。一人置いてけぼりの祐毅は、無関係を装うように手近にある本を拾い、ペラペラとページをめくり始めた。
「よし、今日から私達は三兄弟ね」
「は?」
姉の突拍子もない一言に、弟は手を止め、矢の如きツッコミを入れる。
「わーい。お姉ちゃんとお兄ちゃんができたー」
屈託のない笑顔を見せる雅綺に対し、祐毅は眉間の皴を増やすばかり。その顔を、二つ隣の紬祈に向けると、いいじゃんと宥められた。
「雅綺ちゃん一人っ子だから、寂しくない様に一緒にいるときだけでも、ね?」
顔の前で合掌しながら目を力いっぱい閉じて頭を下げる姉。その隣では嬉しい以外の感情は混ざっていない笑顔を浮かべる突然できた妹。二人を対比したところで、どちらもこの設定を止める気など微塵もないことを察してしまうと、諦めざるを得なかった。
返事の代わりにため息をし、祐毅は本に視線を戻す。紬祈は祐毅が折れたことをすぐに理解すると、雅綺と同じ顔をした。
「今日からツッキー、ユッキー、マッキーの三兄弟だよ。アメリカ人で、大きい家に住んでて、犬も飼ってる。犬の名前はえーっと……ラッキーね」
紬祈はその辺に転がっていた犬のぬいぐるみを手に取り、雅綺の目の前に座らせる。同じ縛りで名付けられたキャラメルのような毛色のトイプードルは、振動に反応してその場で足を動かす。
「ラッキー、可愛い!私、犬欲しかったの!」
雅綺はぬいぐるみを拾い上げ、ギューッと大事そうに抱き締めた。
二人のやり取りを横目に見ながら、口をへの字に曲げて首を左右に振る祐毅。ままごとはごめんだと言わんばかりに、雅綺とは反対側に体半分ずらした。
「ユッキー、犬嫌い?」
顔と本の間に割って入ってきた犬のぬいぐるみに驚いて頭を引くと、更に広がった空間に雅綺が顔を差し込む。困ったような顔をして見つめられる祐毅は、しばらく口籠って、ようやく脳から回答を捻り出す。
「……大人しい犬なら好き」
本物の犬ではないなどと咎めようものなら、泣かれてしまい、紬祈から大目玉を食らう。そして何より、澄んだ水面のような瞳に見つめられては、相手をせずにはいられなかった。
「ラッキーは噛んだりしないから大丈夫!いい子だもんね」
ぬいぐるみの頭をわしゃわしゃと撫でて、自信満々に笑みを浮かべる雅綺。確かに噛まない。だが、音に反応してワンと鳴き、振動を感知して足を動かすそれが、大人しいには該当しないと祐毅は感じた。
祐毅は、そうだね、と雅綺に同意する。病室という小さな世界から飛び出した彼は、数か月で心配りができるほどに成長していた。
この日を境に、三人は仲良くなり、時間を共にすることが増えていった。