第44話
数日後。仕事を定時で切り上げた祐毅と真島は、銀座にいた。互いに紙袋を持ち、人にぶつからないように注意を払いながら、前後に並んで歩く。先導する祐毅は後ろを気にしながら、目的地がわからない真島は群衆から飛び抜けた祐毅の後頭部を見ながら、一つのビルに入っていった。エレベーターに乗り、目的階に到着すると、真島は壁のある部分で目が止まる。
「クラブ…ですか…」
普段の彼女からは聞く機会の少ない低い声に、祐毅は振り返る。眉間に皴を寄せ、目を細める真島。加えて重い雰囲気を醸し出す彼女に、祐毅はいつもの微笑みを向ける。
「今は営業時間外なのでオーナーしかいません。オーナーとは旧知の間柄で、今日は場所を貸してもらいました。僕が紹介したいのは、店ではなく人です。さすがに、女性にこういう店を紹介するほど無神経ではないので、あまり警戒しないでください」
祐毅の説明に、渋々納得の返事をするが、彼女の表情はあまり和らがなかった。致し方なしと諦めた祐毅は、正面に向き直って扉を開く。
「いらっしゃい。颯毅君もついさっき来たから、もう案内したわよ」
まるで来るタイミングがわかっていたかのように、ドアの前にはレイラが立っていた。ベージュの生地に桜や秋桜の花びらが舞うようにあしらわれた着物を纏い、ニッコリと笑っている。
「こんばんは、レイラさん。今日はお店を貸していただいて、ありがとうございます」
似た笑みを返す祐毅の後ろで、真島は煌びやかな内装に見惚れていた。上へ下へと目線を動かし、感嘆の声を上げる彼女を、祐毅越しに目撃したレイラは、一瞬目を丸くする。
「あら。紹介したい人ってそちらの方?」
目で訴えかけると、祐毅は振り返ることなく首を縦に振る。
「あまりさっちゃんを待たせると文句を言われるので、紹介は後で」
その言葉にレイラは頷くと、奥の部屋よ、と言いながら身を翻して歩き始めた。祐毅は後方に一瞥をくれると、レイラの後に続き、真島も付き従うように二歩程後ろを歩く。
「理事長もこういうお店に来られるのですね」
「月に一度だけ。この店の開店に携わったので、様子を見に来ているんです。それに、こういう社交場は情報の宝庫なので」
それと、と音量を落としながら、体を半回転させて後ろ向きに歩く。
「僕が話したパーソナルトレーナーは彼女です。と言っても、ホステスと親交があることを隠すためについた嘘なんですけどね。本人は知らないので、内緒にしてください」
「あなたの”月に一度”の間隔って、普通の人とは違う気がするのだけれど?」
「え!?あぁ、ははは…どうにも忙しくて……今日から30日以内に来られるように善処します…」
表情筋を緩めるレイラ、慌てて体を正面に戻しながら眉を八の字に曲げる祐毅、口を固く結ぶ真島。三者三様の表情をしながら、店の奥にあるVIPルームへと入る。
「おー。やっと来たか…って、誰?」
コの字型に並んだソファーの角に体を沈め、スマートフォンを横向きにして操作していた颯毅が、驚いて上体を起こす。ポカンと口を開けて見つめる先の人物は、小さくお辞儀をした。
全員がそれぞれの間に一定の間隔を取って座ると、祐毅がMCを始める。
「僭越ながら、僕から皆さんの紹介をさせてもらいますね。まず、こちらは僕の秘書の真島さんです」
「初めまして、真島と申します。宜しくお願い致します」
ドアの近くに座る真島は、立ち上がってジャケットのポケットから名刺入れを取り出す。二枚取り出し、テーブル越しに颯毅に向けて差し出すと、いい、と掌を向けられた。それに対してレイラは、もぅ、と頬を膨らますと、すぐに表情を切り替えて立ち上がる。二人の間にいる祐毅の近くまで来ると、帯から名刺入れを取り出した。
「この店でオーナーママをやってます、レイラです。宜しくお願いします」
頂戴しますと、祐毅の真上で行われる名刺交換。左は真面目な顔、右はにこやかな顔、そしてそれを見上げる男は、微笑ましい顔をしていた。
「僕の正面にいる、紫色の髪をしてるのが、友人の鼓颯毅。通称さっちゃんです」
「お前しか呼んでねぇだろ」
舌打ちをしながら祐毅を睨みつけ、感じた視線の方に目を向ける。真島と目が合うと、彼女の一礼を見届けることなく視線をスマートフォンに向けた。
「すみません。ちょっと人間嫌いなだけなので、許してあげてください」
不愛想な颯毅をフォローする祐毅に、気にしていないというように頷く真島。口調も態度も気に障るかもと、前置きを入れておいたおかげか、そう不快な顔にはならなかった。
「で、なんで俺はこんなところに呼び出されたわけ?」
こんなところとは失礼だが、レイラは聞かぬフリをする。彼はそういう性格だし、いちいち突っ込んでいては話が進まないという、大人な対応だった。
「まぁまぁ。とりあえず、食べながら話そうか。約束したケーキ、買ってきたよ」
ケーキ、と言う言葉に耳を動かし、颯毅は背を伸ばして座り直す。祐毅は、真島にケーキを出すよう指示を出しながら、自分が持ってきた紙袋から飲み物や紙皿などを出し始めた。
「このケーキ、真島さんが買ってきてくれたんだよ。ちゃんとお礼言ってね」
「あざーっす!」
玩具を買ってもらった子供のように無邪気な笑顔で感謝を口にする颯毅。あまりの二重人格ぶりに、真島はぎこちない笑みを返す。
「私もこのケーキが好きで、久々に食べたいと思ったので、ちょうど良かったです」
箱からホールケーキが出てきた瞬間、颯毅は光の速さでフォークを突き立てる。すぐに一口含むと、目が蕩けるような笑みをする。
「そうかそうか。このケーキの美味さをわかる奴が、やっと現れたか。お前も食べろ」
テーブルに並んだ紙皿と果物ナイフを拾い、ケーキをカットすると、真島の前に差し出した。
買ってきた自分に所有権があったはずだが、何の断りもなく颯毅が手を付けた。そして、なぜか相手方から食べて良いと許可が下りる。この状況に頭を悩ませた真島は、祐毅に苦笑いを向けた。すぐに祐毅は微笑んで、どうぞと手で促す。
その光景を静かに見ていたレイラは、祐毅にスッと近づき、颯毅に見えないように口元を隠しながら話しかける。
「ねぇ?あのケーキって、有名パティスリーの看板商品よね?美味しさを知ってる人なんて、たくさんいると思うのだけれど」
「さっちゃんは友達がいないから、そもそも出会わないんです。僕は甘いの苦手ですし」
聞こえてきた小声に、祐毅も同じように小声で返す。手で口元を隠し、二人にしか聞こえないボリュームだったはずなのに、なぜか第三者が声を発した。
「お前は本当に甘いもん食べねぇよな。ケーキ屋でもスイカニでも、しょっぱいもんしか食わなくて引いたゎ」
「スイカニ?」
第四者も混ざり、もはやひそひそ話す意味はなくなった。祐毅は皆に聞こえる音量で疑問に答える。
「スイーツ・カーニバルってチェーン店、知りません?スイーツやフルーツなどが食べ放題のお店です。僕はさっちゃんが気に入ったケーキ全部かっさらってきたことに引いたよ…」
「安い割に美味いからな。どうせすぐ新しいやつ出てくるんだから、全部持っていってもいいだろ」
「そうかもしれないけど、他のお客さんが睨んでたの、気づかなかった?陰口叩かれて、いたたまれなかったよ…」
当時の状況を思い出したのか、祐毅はガクッと項垂れた。颯毅は知らね、と言いながらどんどんとケーキを食べ進める。あの一切れ以外は誰にも渡す気がないようで、スンとした顔でテンポよくフォークを口に運ぶ。
「まぁ、きっとこのケーキもその運命を辿ると思ったので、他にも買ってあります」
祐毅は先程とは別の紙袋から、箱を取り出した。その箱を、ケーキを食べていない人に向けて、蓋を開ける。
「あら、可愛い。プチタルトね」
箱の中には、チョコや抹茶、生クリームの上にフルーツが乗ったものなど、色とりどりで可憐な一口大のタルトが6個入っていた。
「このサイズなら口紅も落ちづらく、服も汚さずに食べられると思いまして。店の子達の分も買って来たので、後で渡してください」
紙袋をレイラの方に寄せると、どうぞと箱を差し出す。レイラが一つ取って紙皿に乗せると、今度は真島の方に箱を向けた。
「真島さんもどうぞ。さっちゃんがケーキを分けると思っていなかったので、二人分として買って来たんです」
タルトの押し売りに、控えめに感謝を伝えながら、真島は1つ紙皿に取る。残りは箱ごと、レイラの前に供え物のように静かに置かれた。
「ねぇ、祐毅君。真島さんとはどうやって知り合ったの?」
その小さな声に真島が反応することはなかった。再開されたひそひそ話に、祐毅はレイラに少し近づいて答える。
「回収対象として見つけて、秘書にスカウトしたんです。理事長になったら必要になりますし、彼女は前の職場で秘書をされていたので」
「あら、そうなの?じゃあ、ご苦労されたのね」
「えぇ。彼女を救えてよかった。勉強熱心ですし、とても優秀で、毎日助けられてます」
「そう。真面目な人なのね。でも、もったいないわ。綺麗な人だから、うちで働いたら絶対稼げるのに」
「彼女は絶対ホステスなんてしませんよ。昔の僕と同じように、ホステスに悪いイメージを持っていますし、そこに寄って来るような男も好きじゃないので」
穏やかな顔で真島を語る祐毅。レイラは、その顔を覗き込むように首を傾げる。
「ねぇ。彼女をスカウトしたのは、秘書が欲しかったからってだけ?」
心を見透かそうとするような瞳。それを向けられた祐毅はじっと見つめ返し、薄っすら笑う。
「理由の9割はそれです。残りの1割は、知人に似ていたから、ですかね」
二人は暫し、見つめ合う。互いの目を通して腹の探り合いをしているような、先に目を逸らした方が負ける勝負をしているような、そんな空気を漂わせる。だが、先にレイラが、ふーんと含み笑いをして、目線を外した。
「あっ、そうだ。祐毅君」
急に何かを思い出したレイラは、自分の後ろから小さな紙袋を取り出すと、紙コップに3人分の飲み物を注ぎ始めた祐毅に差し出す。
「理事長就任、おめでとう。これ、ささやかだけどお祝いよ」
「ありがとうございます。これも、レイラさんとさっちゃんのおかげです」
手を止めて紙袋を受け取ると、開けても良いかと確認する。許可をもらうと、紙袋の中に手を突っ込み、何かを掴んで引き上げる。彼が手にしているのは、黒い長方形の箱。静かに蓋を開けると、中身が銀色に輝いた。
「ネクタイピン、ですか」
半分は無地、もう半分はタータンチェック柄が斜めに彫刻された、シンプルかつカジュアルさも兼ね備えたデザイン。天井から降り注ぐライトに照らされ、メタリックな光沢を放っている。
「若くして理事長になったから、今までよりももっと仕事ができる雰囲気を出せたらいいかと思って」
「ありがとうございます。早速つけてみてもいいですか?」
もちろん、と軽快な返事を聞くと、箱からネクタイピンを取り出す。裏返してクリップを押し開くと、なぜか一瞬祐毅の動きが止まった。しかし、何事もなくネクタイを挟むと、どうですかと、レイラに確認を求める。
「素敵よ。よく似合っているわ」
「ありがとうございます。大事にします」
ネクタイピンにそっと手を当て、ふんわりと笑う。いつもは贈る側の祐毅は、贈られる喜びを知った。
「理事長は忙しい?またクマができているわよ?」
左の頬に触れる、レイラの右手。優しく目の下を撫でる親指、浮かぬ表情。順番に目線を移す祐毅は、微笑みを崩さない。
「そうですね。やらなければならないことも、勉強しなければならないこともたくさんあります。患者だけでなく、従業員にも心を尽くさなければいけない。時々、食事を摂るのを忘れるほどです。そんな余裕のない自分が情けない。理事長だった祖父は、忙しい合間を縫って毎日僕の見舞いに来てくれたというのに。本当にハイスペック祖父ちゃんだったんだと、同じ立場になってよくわかりました」
「まだ理事長になったばかりじゃない。そんなに気負わなくてもいいと思うわよ?」
和やかに微笑み合う二人。その様子を何の気なしに見ていた真島は、答えてくれるかもわからないケーキに夢中な男にこっそりと質問する。
「お二人は、お付き合いされているのですか?」
ケーキしか見ていなかった颯毅は、目線をちらりと二人に向ける。フンッと鼻を鳴らし、もう四分の一まで減ったケーキをまた口に運ぶ。
「ないない。祐毅はそんな気ねぇから」
二人が醸し出す雰囲気は、ホステスと客の関係を越えているように思える。だが、祐毅の友人はそれを完全否定。再び二人に視線を戻す真島は、疑心暗鬼に陥りながらも、苺の乗ったプチタルトを口に含む。
「あぁ、そうだ」
祐毅は、頬に添えられたレイラの手をそっと彼女の膝元に戻す。くるりと身を翻すと、表情そのままに真島を見つめた。
「真島さん。今日あなたにこの二人を紹介したのは、僕の計画を手伝ってもらうためです」
首を傾げる真島と、鋭い視線を祐毅に送る二人。ささやかな顔合わせの場は、一気にシンと静まり返った。




