第43話
理事長になって数日経ったある日。
「今、時間はありますか?挨拶回りに行きましょう」
理事長室からひょっこり顔を出した祐毅は、秘書の様子を見て声を掛けた。わかりましたと小さく返事をする彼女は、ノートパソコンを閉じると、立ち上がって秘書室から廊下に続く扉を開く。
祐毅を先頭に、秘書が斜め一歩後ろをついて歩く。祐毅は理事長になったばかりで、秘書もこの病院で勤務するのは初めてなので、時間を見つけてはこうして二人で病院関係者に挨拶回りを行っていた。
祐毅がスッと曲がって入っていった場所は、ナースステーション。中央にあるテーブルでタブレットを見ながら話をしていたり、パソコンを操作していたり、看護師達は真剣に仕事をこなしていた。
「皆さん、お疲れ様です」
爽やかな笑顔で看護師達に声掛けすると、皆が一斉に祐毅に顔を向け、”廻神先生”と色めき立つ。だが、それが間違いであると気付いた者から順番に、落ち着いた声で”理事長、お疲れ様です”とお辞儀付きで返してきた。
「医者であることに変わりはないので、今まで通りの呼び方でも問題ありませんよ」
問題ないと手を横に振り、微笑みで怒っていないことを表す。場の雰囲気を少し和ませると、祐毅は体を横にずらし、後ろにいる秘書を手で指した。
「こちら、秘書の真島さんです。医療業界で働くのは初めてで、わからないことも多いと思うので、何かあれば助けてあげてください」
「真島と申します。至らぬ点もあるかと思いますが、どうぞ宜しくお願い致します」
祐毅は会釈で、真島は最敬礼で挨拶をする。口々に宜しくお願いしますと聞こえ、それが静まると、祐毅は理事長らしい話し始めた。
「皆さん、何か困っていることや、気になっていることはないですか?」
小脇に抱えた手帳を開いて、ペンを握る。だが、看護師達はポカンと口を空けたり、首を傾げたりして止まっていた。その様子を見て祐毅は、微笑みながら補足を加える。
「働きづらいと感じていることがあれば、出来る限り改善していきたいんです。医療従事者は責任も大きくストレスもたまる大変な仕事なので、皆さんには出来るだけ働きやすい環境を提供したい。不足している設備や物品、制度や仕組み、人間関係など、どんな些細なことでもいいので教えていただきたい。もちろん、全て解決できるとは限りませんが、力は尽くします」
理事長は従業員を守らねばならない。昔、明禎が話していたことを、祐毅はずっと憶えていた。理事長としての役目を果たすため、自分に何ができるか。挨拶回りと称した従業員との会話で、それを見つけようと藻掻いている最中なのだ。
「あの……」
祐毅の熱意が通じたのか、一人の看護師が遠慮がちに口を開く。それが呼び水となり、誰も彼もが話を始め、あっという間に井戸端会議になった。会話の9割を占める雑談は話半分に聞きながら、問題や不満を耳で拾う。即時対処可能なものはアドバイスをし、時間や費用がかかるものは対策を提案しながらメモしていく。手帳の上では、緊急度や重要度に応じて、アクションアイテムをトリアージしていた。祐毅の後ろでは、真島も熱心にメモを取る。
こうして、皆から不平不満を聞き尽くすと、感謝を伝えながら手帳を捲る。中央のテーブルに近づくと、手帳をテーブルに置いて、背を屈める。
「この他にも皆さんに教えていただきたいことがあるのですが」
声をひそめる祐毅。理事長の話を聞き流すまいと、数名の看護師がテーブルを囲む。答える準備が出来ているか確認するように、看護師達にキリリとした目を向ける。
「最近流行のスイーツ、人気のパティスリーやホテルのスイーツブッフェなど、皆さんのおすすめを教えてもらえませんか?」
「え??」
看護師達から飛び出る、疑問のアンサンブル。真剣な顔をした理事長から、仕事とは関係ない質問。身構えていた看護師達は戸惑いを隠せない。
「さっちゃn……んーっと、甘い物が大好きな友人にプレゼントを贈りたくて。僕はそういうのに疎いので、教えていただきたいなと」
指で頬を掻き、はにかみながら事情を話す。その様子を微笑ましい目で見つめる看護師達は、出来ればケーキが良いと言う祐毅の言葉を聞いた瞬間、一斉に喋りだす。地名と横文字が飛び交い、食べた感想を話しながら皆一様にうっとりとした表情をする。その情報をメモしながら、"一緒に食べに行きましょう”や”買ってきましょうか”という誘いをやんわり断り続けた。
「とても参考になりました。では、引き続き頑張ってください。お邪魔しました」
見開き1ページにびっしりと書かれた情報に満足しながら、爽やかな笑顔で労いと詫びを述べる。一礼して退散を始めた二人の後方からは、ひそひそと話す声が聞こえてきた。
「さっちゃん、って言ってたわよね?」
「廻神先生って彼女いたの?」
「秘書の人、ではないわよね?名前に“さ”は付かなかったはず…」
看護師達が首を傾げる様は見えないが、聞き耳で様子を察した祐毅は、口元にだけ笑みを浮かべた。
「あの」
遠ざかる群声とは別に、真後ろでハリのある声がした。歩き続ける祐毅は、振り向かない代わりにどうしましたと声を返す。
「看護師の方達と話す時だけスイーツの話をされていますよね?毎回”さっちゃん”と仰られては無かったことにされていますが、もしかして意図的にやられていますか?」
「あ、バレました?」
バレた、とは言うが悪びれる風もなく、陽気に笑いながら理由を話し始めた。
「理事長で独身。金に近づいてくる女性もいるので、牽制のための匂わせです。あと、あなたと僕が仕事上の関係だと理解してもらうためでもあります。医療とは関係のない業界から突然女性を連れてきて、秘書にした。どういう関係なんだと疑う人間もゼロではない。もっとも、あなたの仕事ぶりを見れば、それがただの妄想だと気付くでしょうけどね」
権力や金に引き寄せられる人間は少なからずいる。自身の計画の邪魔になりそうな人物を遠ざけるため、祐毅は日々策を弄していた。彼は気づいていないが、この行動には前理事長とその秘書のように見られたくないという潜在意識も働いている。また、真島とは親密な間柄ではないと間接的に示し、彼女を嫉妬の対象から外すためでもある。自身の環境と真島を守るために、わざと言い間違えをしていたのだ。
「時には嘘も必要、ということですか」
「いえ、嘘はついていません。甘い物が大好きなさっちゃんは実在しますよ。男ですけど」
えっ、と小さく真島は驚く。男をちゃん付で呼ぶのは珍しいからだろう。だが、彼女は案外、順応するのが早かった。
「では、私からもおすすめの店を1軒紹介させてください」
そう言うと、システム手帳から1枚紙をちぎり、祐毅に渡す。礼を言いながら紙を受け取り、文字を追いかける祐毅の目は、束の間斜め上に向けられた。そして、ニヤッと笑うと、企みを悟られないように表情を切り替えて後ろを向く。
「さっちゃんは僕の友人なんです。ぜひあなたに紹介したい。口調も態度も気に障るかもしれませんが、悪い奴なので嫌わないでもらえると助かります」
「え?あぁ、はい。承知しました」
その時にこの店のケーキを買ってきてください、と真島に頼み、二人は秘書室で解散した。
翌日の昼休み。時々食堂で昼食を共にする祐毅と真島。少しずつ祐毅と打ち解けてきた真島は、気になったことは確認したいタイプだった。
「いつも昼食の写真を撮影されていますが、SNSに投稿されているのですか?」
「いえ、これはパーソナルトレーナーに送ってて…」
これは昼食を撮影している理由を聞かれた際に返すテンプレート。IDを聞かれないようにSNSをやっていることを明言せず、写真をレイラに送っていることを誤魔化すために考えた、それらしい嘘である。
真島は納得したような表情をし、祐毅は何かを考えるように顎に手を当てた。
「しっかり体調管理なさっているのですね」
「あなたに隠す必要は無さそうですね」
質問をしたわけではないのに言葉が返ってきて、真島は慌てて聞き返す。だが祐毅は、いいえと微笑み、自分が口にした内容を伝えなかった。首を傾げる真島に、食べましょうと促しながら、スマートフォンを箸に持ち替え、小鉢から順番に食を進めた。




