第41話
祖父が亡くなってすぐ、あの人は病院の理事長兼院長になった。離婚に素直に応じなかったのは、これが狙いだったんだと察した。欲しかったのはただの権力ではなく、絶対的な権力。誰も逆らえない、誰にも見下されることのない地位。なぜそんなものに固執するのかはわからないが、その執着の駒として、僕はいつか利用されるのだろう。
言いつけ通り、進学校に転入した僕は、勉強尽くしの毎日を送りながらも、時間を作って母の見舞いに行った。母に会いに行くな、と明確に言われたわけではないから、言いつけを破ったことにはならない。そう思って堂々と見舞いに行った。
母は昏睡状態で、端から見ればただ眠っているだけに見える。だが、手を握っても反応は無いし、目を覚ますこともない。昏睡状態から目覚めることは非常に稀で、担当医は常に覚悟はしておいてと、厳しい表情で話していた。だが、目覚めた事例もあると、励ましてもくれた。なので、病室を訪れた時は手を握って話しかけたり、家政婦さんと一緒に手足を動かしてあげたり、出来る限り看病をした。10年も僕を看病してくれた、母への親孝行。唯一の家族と過ごせる、大切な時間。勉強がどれだけ大変でも、母の病室にいる時間は幸せで、母のために何かをできるのが、たまらなく嬉しかった。
「母さんのところに行く暇があったら勉強しなさい。誰よりも優秀な成績を取らないと、いい高校にも行けないし、医者になれないぞ」
一度も病室で会ったことはないのに、あの人に見舞いに行っていることがバレた。そりゃそうだ、病院はあの人のテリトリー。誰かが話したのかもしれないし、どこかで見られたのかもしれない。
僕の成績は、学年では中間辺り。前の中学よりレベルの高い今の中学で、成績上位に食い込むには勉強が足りないのは事実。だが、大事な家族が病気で、いつまで一緒にいられるかわからない状態なのに、会いに行かない方がおかしいと思う。それに、誰よりも優秀じゃないと医者になれないわけじゃない。学校にいる全員が医者を目指しているわけじゃないし、医者を目指せる高校も大学もたくさんあるだろうから。僕にだってそれくらいわかる。
「勉強はもっと頑張ります。だから、母さんの看病はさせて下さい。いつ別れが来るかわからないので、少しでも母との時間を…」
話している途中で、あの人は突然椅子から立ち上がり、僕の前髪を鷲掴みにした。
「うっ!」
「お前は!親の言うことが聞けないのか!」
前髪を後ろに引っ張られ、顔を無理やり上げられる。僕を見下ろすその目は、怒りに満ちていた。
「4年で随分我が儘に育てられたものだな。いいか。次、見舞いに行ったら、学校との往復は車で送迎させるからな。お前は勉強だけやっていればいいんだ」
そういうと、床に投げつけるように前髪を離した。大人の力に勝てず、僕は床に倒れ込む。
自分の親に会いに行くことが、それほどいけないことなのか?家族の命より勉強を優先しろと?仮にも血の繋がった親の言うこととは、とても思えない。
黙って項垂れていると、あの人は僕の前にしゃがみ、ぐしゃぐしゃになった前髪を撫でてきた。
「私は、お前のためを思って言ってるんだ。3年生になる前から受験に備えないと、いい学校に入れない。医者になりたいと言っていただろう?優秀な医者になって欲しいから、頑張って勉強しなさいと言っているんだ。それに、母さんだってきっと、お前が優秀な医者になることを望んでいると思うぞ?」
違う、全部お前のためだろう。母の名を利用しやがって。飴と鞭を使い分けて、飼い馴らそうとしてもそうはいかない。お前の本性は、姉と祖父が命を懸けて教えてくれた。
「もう家族は、私達だけなんだ。私は親として、お前を立派に育てなければならない。わかってくれるな?」
都合よく使われる”家族”や”親”と言う言葉。思ってもいないことをベラベラと、優しい声で唱えて説き伏せる。情のない人間が情に訴えかけようとしても、言葉の重みが感じられなかった。
「わかってくれるよな?」
僕の返事を催促する、低い声。この言葉には圧力を感じた。こいつが持つ正解を吐き出さないと、何をされるかわからない。
「…わかりました」
「お前はやはり、賢い子だな」
答えに満足したのか、肩をポンと叩くと去って行った。
今は怒りを抑えるしかない。従順なフリで安心させ、いつか飼い犬に手を嚙まれたと絶望させる、その日まで。
僕とあの人を家族たらしめるもの。それは、血と金。
血縁関係という生物学的な血の繋がり。”血”とは言うものの、全身の血を同じ血液型の別人の血に変えたって、切れる関係ではない。あの人の遺伝子を半分持ってしまっているから、どうしたってあの人に似た部分は出てくる。親子の縁が切れるのか調べたら、"基本的には切れません"と一番初めにデカデカと検索結果が出てきてガッカリした。法的に切るのが難しいくらい、血の繋がりとは厄介なもの。
その点、金はまだいい。大人になって給料をもらうようになれば、返すことができる。僕の生活を支えてくれる家政婦の給料、学費、毎月テーブルに無造作に置かれている小遣い10万円。総額いくらになるかはわからないが、全部返して縁を切れるなら、体の限界まで働こうと思った。
僕とあの人を繋ぐものは、たったそれだけ。家族らしい会話はほぼない。朝早く夜遅いあの人と家で会うことは少なく、会っても会話はほぼない。唯一話すのは成績の話。テストの結果、学期末の成績、これらは時期を把握されていて、毎回結果の提出が求められる。そして、あの人の理想に届かない結果だと、怒られる。 “馬鹿“や“能無し“と罵られ、テストや成績表で叩かれ、投げつけられる。痛いけど、傷ができないから、誰にも気付かれない。反論したところで仕打ちが倍になるだけだと、我慢に我慢を重ねた。
そのストレスもあってか、母の見舞いは止めなかった。見つからないように病室まで行くにはどうすればいいか、策を練った。見舞いの間隔を空けて会う頻度を減らし、柾さんに頼み込んで病院の裏手から出入りする。帽子とマスクで顔を隠し、会った人には口止めをした。
こうして実行された1回目の見舞い。数日経ってもお咎めはなかった。この成功で味を占めた僕は、危険人物と思われない程度に周囲を気にしながら、見舞いの回数を重ねた。
中学2年の3学期には塾に通わせられ、帰宅が遅くなる日が増えた。3年生になると頻度を増やされ、母の見舞いに行く頻度が必然的に減る。時間を作りたくても、勉強に忙殺される日々。姉もこんな思いをしていたのかと、考えることが増えたある日だった。
夜遅く帰宅すると、玄関には大きな革靴と艶やかなハイヒール。またか、と思うと同時に、指で鼻の下を押さえる。
「くっさ…」
鼻を突く香水の残り香。あの人の秘書、珠川夏梅が家に来た時は、いつもこの匂いが漂っている。
あの人が理事長になって数日後、秘書だと紹介してきた時は、職業・キャバ嬢の間違いでは?と衝撃を受けた。派手な化粧、胸元の開いたブラウス、タイトなミニスカート。甘ったるい匂いを発し、猫なで声で挨拶をしながら、品定めするような目つきで僕を見る。初見で”苦手”という印象が付いた。
秘書だから、仕事の関係で家に来ることは理解できる。だが、こうして家に上がり、家のどこにいて何をしているのかわからない状況が気持ち悪かった。秘書の仕事内容はわからないが、家政婦も雇っているのだから、秘書が家の中でする仕事など、想像がつかない。
入浴を済ませ、2階の自室に行こうとすると、何やら音が聞こえた。耳を澄ますと、1階の暗い廊下のどこかから聞こえてくる気がする。気になって、足音を立てない様に奥へ進むと、一番奥の部屋から薄っすら光が漏れていることに気づいた。僅かにドアが開いている部屋は、あの人の寝室。近づくにつれて、音源は二種類の声だと気付いた。と同時に、ドアの前に辿り着く。そして、隙間から見えた光景に、僕は慌てて手で口を押さえた。
二人はベッドの上で、裸で重なっていた。何をしているかは、経験のない僕でもわかる。声が出ない様に押さえた手をそのままに、静かにその場を立ち去る。その間も、秘書の甘い声はよく響き、聞きたくもないのに耳に入ってきた。
自室に入ると、音のない空間に安堵する。先程までの驚きが落ち着くと、僕の感情は怒りに変わった。
二人の関係は、単なる理事長と秘書ではない。いつから始まったのかはわからないが、不倫関係なんだ。母があんな状態なのに、金だけ払って家政婦に世話させて、自分は好き勝手している。あいつはどこまでクズなんだ?他に女がいるのなら、さっさと母と僕から離れてくれ。
怒りの矛先を塾の宿題に向け、先程の光景を忘れかけていた頃。
コンコン。
シャーペンの芯がノートの上を走る音だけが聞こえていた空間に、突然割って入ってきたノック音。家の中にはあの二人しかいない。二人の世界に浸っているのに、僕を訪ねてくるはずがない。恐る恐るドアに近づき、小さく、はい、と返事をする。
ドアを開けると、秘書が立っていた。いつもよりブラウスのボタンを外し、香水と何か他の匂いが鼻をかすめる。
「な、なんですか?こんな時間に…」
目のやり場に困った僕は、目を逸らしながら数歩下がる。匂いが届かないところで立ち止まると、なぜか秘書は部屋に入って来て、ドアを閉めた。人さし指で唇を触りながら、微笑みをこちらに向ける。
「祐毅君と仲良くなりたくて来たんです」
どういうことだ?僕と仲良くなる必要がどこにある?なぜですかと口にしない代わりに、首を傾げて顔を見つめた。
「さっき、見てましたよね?お父様と私がしてるの」
「!!」
どうしてバレた?足音は立ててなかったのに。二人だって、僕に気づいている素振りはなかった。
この驚きは顔に出ていたようで、秘書はクスクスと笑う。
「やっぱり見てたんですね?お父様とは仲良くさせていただいているので、祐毅君とも仲良くなりたくて」
あれを“仲良く“と言うのか。酷い例えだ。ここまで白状しているなら、素直に言えばいいのに。
「不倫ですよね?何をしようと二人の勝手ですけど、この家以外の場所でやってもらえませんか?それと、僕はあなたと仲良くするつもりはありません」
僕は背を向けた。これ以上、話すつもりはないから。
変な女だ。普通、不倫相手の息子に関係をバラすか?隠すのが普通だろ。
僕は突き離したつもりだった。だが、立ち去るかと思った秘書の足音は、なぜかだんだん近づいてくる。振り向こうとした瞬間、肩を掴まれ、背中に柔らかい何かが押し付けられた。
「仲良くしてくれないと、お父様に報告しちゃいますよ?」
耳に囁きかけるねっとりとした声に、背筋がゾワッとした。
「…何をですか?」
「お母様のお見舞いに行かれていることですよ」
「えっ!!」
驚いて振り向いた。なぜこの人は知っているのだと。だが、にっこりと微笑む秘書の顔と開けた衣服が視界に入り、思わず目を腕で隠す。
「あの…ちゃんと服を着て下さい…」
「照れてるんですか?フフッ、可愛い」
クスクスと、バカにするように笑う。態度は気に入らないが、今はそれよりも確認しなければいけないことがある。厳重、とは言えないが、注意を払って見舞いに訪れていたのに、なぜ知られた?
「どうして知ってるんですか?」
「院内でたまたまお見掛けして、後を付けたらお母様の病室に入っていかれたので、お父様にお知らせしたんです。怒ってらっしゃいましたよ?また見かけたら報告してくれと頼まれたので、時々見張ってたんです。帽子とマスクで顔を隠してらっしゃいましたね」
この人だったのか、あの人に喋ったのは。怒るあの人もあの人だが、喋るこの人もこの人だ。なぜわざわざ報告する必要がある?でも、一度怒られてからは、今日までお咎めはない。
「僕がまだ見舞いに行っていると知っていてなぜ、あの人に報告しないんですか?」
「祐毅君の気持ちを考えたら、少し可哀そうなことをしてしまったなと思って。でも、お父様は私の上司で、命令には逆らえません。いずれは報告しないと…」
伏し目がちに話す素振りは、僕への同情心が感じ取れる。だが、発言を遡ると、哀れみなんてこれっぽちもなかった。
「なので、私と仲良くしてくれたら、お父様には報告しないでおいてあげようかと」
これは取引、いや脅迫か。母に会えなくなるのは嫌だから、出来る限りの事はしたいが、仲良くとは何か?
「仲良くって、僕は何をしたらいいんですか?」
僕の問いかけに、秘書はなぜか唇を舐めた。
「私がお父様と仲良くしていたように、祐毅君とも同じことをしたいんです」
は?あれを僕としたい?どうして?あの人が好きだから、あの人としてるんじゃないのか?
「し、したいなら、あの人としたらいいじゃないですか。あの人の事が好きなんでしょ?」
「お父様はお疲れのようで、もうお休みになられました。私達、お互いが好きだからしてるんじゃないですよ?気持ちいいからしてるだけです」
何を言っているんだ、この人は。好きでもない男に抱かれて、嫌じゃないのか?僕にはこの考えは理解できないし、僕はしたくない。何か代案を考えないと。
「あ!お、お金じゃダメですか!」
そもそも中学生に毎月10万円も必要ない。高校を卒業したら一人暮らしをしようと考えていたので、小遣いにはあまり手を付けていなかった。だから、それなりに貯金はある。
「あぁ、お金はいらないんです。お父様から十分なお給料をもらっていますので」
手を振り、いらないという素振りをすると、一歩ずつ近寄って来る。その歩幅に合わせて、僕も一歩ずつ後退する。
「なんで……何か他のもので…」
「私が欲しいのは、刺激です。お父様ばかりとするのも飽きてしまって。時々、私と遊んでくだされば、お母様に会いに行っていることは黙っておきますから」
「でも…やだ…僕、したくない」
「もしかして、初めてですか?フフッ。心配しないで?私に全部任せてください」
一定だった互いの距離は、僕が勉強机に止められたことで縮まっていく。秘書の方が僕より身長が少し大きくて、微笑みながら見下ろす目が怖かった。
「誰か助け…」
そこで気づいてしまった。僕がいくら叫んだって、この家に助けてくれてる人はいない。僕を守ってくれる人なんて、もうどこにもいないんだと。
「大丈夫、気持ちいいだけですから」
パジャマのボタンに伸びてくる色白の手、光沢のある桜色の唇。
姉の気持ちが、少しだけ分かった気がする。相手に体の自由を奪われる、恐怖。自分の意思ではコントロールできない、体の反応。加えて、自分は男なのに女に好き勝手された、屈辱。例え自分に味方がいたとして、味方だからこそどう思われるかが怖くて、相談などとてもできない。
また遊びましょ、そう微笑んで秘書は帰っていった。
床に寝転がり、膝を抱え込む。静かに目を瞑った。
僕の何がダメなの?病気の家族に会いに行ったから?親の言いつけを守らないから?あの人の理想に届かないから?親に言われたことだけに従うのが、普通の生活なの?そんな生活、いらない。この先ずっと続くくらいなら、もう終わらせたい。そうだ、その方が楽になれる。
トクン。
静かな部屋に、心臓の鼓動が響いた気がした。左胸に手を当てると、力強い鼓動を感じる。生きろ、そう言われていると思った。
姉が繋ぎ、祖父が大事にしろと言ったこの命。あいつらのせいで終わらせてはいけないんだ。僕にはまだ、やらなければいけないことがある。自分で役目を決めたじゃないか。
「ははっ…僕はまだまだ弱いなぁ」
類は友を呼ぶ。あいつがクズだから、同じクズを連れてきた。自分の欲望のために他人を利用する、汚い人間。だったら僕も、利用すればいい。あいつの一番近くにいるあの女に、望むものを与えて飼い馴らす。そうすれば、きっと便利な駒になる。あいつも、僕が逆らわずにいれば、従順だと勘違いして力を与えてくれるかもしれない。力とは、知識・知恵・筋力・権力・人脈など、無数にある。利用できるものは何でも利用して、あらゆる力を手に入れるんだ。自分の理想を本気で叶えたいなら、僕もクズに成り下がるしかない。
体を起こし、両手で顔を覆う。
クズになるのに、感情は邪魔だ。悲しい、悔しい、恥ずかしい。感情に囚われていては、相手に足を掬われる。感情は全部飲み込んで、開放すべきタイミングまで、笑顔で蓋をしておこう。大丈夫、笑顔を隠すのはこれが初めてじゃない。
両手を顔から離し、鞄から小さな鏡を取り出す。そこに映る微笑みは、ぎこちなさが残っていた。
それから数か月間、秘書が黙っていてくれたおかげで、見舞いを続けられた。だが、母は回復することなく、事故から1年足らずで息を引き取った。連絡を受け、病院に着いたのは亡くなった後。遺体と対面した時、不思議と涙は出なかった。
僕は15歳で、独りになった。




