第4話
ある日、紬祈は車椅子を持って病室を訪れた。姉が何を考えているのか理解できずにおどおどする祐毅に、乗って、と一言。躊躇したが、目で急かされて、すぐに降伏した。
祐毅を乗せた車椅子は、個室を出ると長い廊下を真っ直ぐ突き進む。目的地もわからず、周りにも知らない人ばかり。挨拶をしてくる人もいたが誰かわからず、おっかなびっくりしていると、挨拶をしなさいと後ろから頭を小突かれた。外の世界は怖いと悪印象を持ちそうになった頃、ある部屋に押し通される。
そこは祐毅の個室よりも広く、玩具や絵本がたくさん置いてあるプレイルームだった。床には市松模様に並んだ薄い黄色と淡い黄緑のタイルカーペット。大きな窓からは太陽の温かい光がたっぷりと入り込み、部屋全体を明るく照らしている。
だが、祐毅が眩しいくらいに明るいと感じたのは、その空間にいる子供達だった。頭に包帯を巻いている子、片方の腕が無い子、点滴をしている子。どの子も怪我や病気を患っているはずなのに、暗い顔をしている子は一人もいなかった。
ボールで遊ぶ子供が一人、祐毅達に気づくと、姉の名前を呼んで近づいてくる。
「この子が前に言っていた弟?」
「そうだよ。ほら、挨拶して」
自分の知らないところでどんなやり取りが繰り広げられ、どうしてここへ連れて来られたのか、未だ分からずに挙動不審でいると、また後頭部を突かれた。
「廻神…祐毅、です」
挨拶、という役目は終えた。はずだったが、三人も集まっていると、他の子達も寄って来る。自分の名前を何度も繰り返す時間が数分続いた。
こちらが挨拶をすれば、挨拶が返って来るのが道理。皆が自分のタイミングで自己紹介をするものだから、祐毅は目が回りそうだった。
「皆も祐毅みたいに、病気で入院してるんだよ」
後ろから聞こえた柔らかな声に振り返ると、穏やかな目の紬祈と視線が合う。
「皆、色々な病気と闘っている。辛い治療をしてる子だっているの。でも皆、元気で明るいよね」
祐毅は再び前方に顔を向ける。近くで話を続ける子もいるが、遊びに戻った子もいる。楽しい、嬉しい、そういう感情が彼等の顔から溢れていた。
どうしてかわかる?そう投げかけられたが、彼には正解がわからない。
「皆、いつか治るって信じてるんだよ。苦しい時もあるけど、好きなことをして遊んで、友達と一緒にいられることが楽しいし、それが生きる希望に繋がってる」
彼等は祐毅に無いものを持っていた。それは“希望”。
祐毅は、将来医者になりたいと夢を持ち、子供向けの医学書を読むようになった。だが、知識をつければつけるほど、いかに自分の病が重いものかを知る。そして、いつしか生きる事への執着=希望を失くしてしまっていた。
「私はね、祐毅にも皆みたいに笑ってほしいの」
紬祈は、まるで笑顔のお手本を見せるように、真っ白い歯を見せ、三日月のような目をした。
「ずっとしかめっ面だと、ここに皴ができちゃうし、周りに皆いなくなって病気だけが友達になっちゃうよ?笑顔の方が楽しいし、病気もどっかに飛んでいっちゃうって」
すでに皴が寄っていた眉間を指でぐりぐりと突いたり、頬を摘まんで上に引っ張ったりと、弟の顔で遊ぶ姉。その光景を見て、周りの子供達は笑う。最初は嫌そうに抵抗する祐毅だったが、次第に可笑しくなってきた。
「止めてよ。わかったって!あははっ!痛い痛い!」
「そうそう!ちゃんと笑えるじゃん」
祐毅が笑うと、紬祈は満足したようにピタリと手を止めた。対して痛くもないはずの頬を、祐毅は撫でて解す。それを見ながら、紬祈はポンポンと彼の頭を撫でる。
「それにさ、遊んで体力つけないと、いざとなった時に手術できないからね」
それは姉の言う通りだが、まだ納得のいかない弟は首を傾げながら頷く。
「ね?本を読むのも大事だけど、調子が良い時は、ここで皆と遊んだり、外に散歩に出たりして、病気に勝てるように頑張ろう?」
ここでようやく、姉は自分を心配してここへ連れてきたのだと悟った。どうせ長く生きられないと捻くれていた自分を、姉は見放さずに将来を信じて道を示してくれている。
この励ましが、僅かだが祐毅の心に希望の火を灯す。祖父や父のような、素晴らしい医者になりたいと願った夢が、いつの日か叶えられるかもしれないと。
「僕、頑張ってみる」
真っ直ぐな眼差しを紬祈に返すと、一緒に頑張ろう!と元気よく返事が来た。そして、紬祈は気を良くしたのか、突然部屋中に轟く大きな声を出す。
「皆!私が医者になって皆の病気を治すから、それまで笑って待っててね!」
部屋にいる子供達全員が、一斉に紬祈に視線を向ける。祐毅は、見られているのは自分ではないと分かっているのに、なぜか赤面して俯く。
「誰ですか!院内では静かにしてください!」
プレイルームのドアは開きっぱなしだったため、大音声を聞きつけた看護師がすぐに駆け付ける。
すみません、と頭を掻きながら振り向く紬祈を見て、部屋全体が笑いに包まれる。大声を成すその声に看護師は何度も静かにと呼びかけるが、子供の嬉々とした笑いはなかなか収まらなかった。
大勢に笑われてはいるが、祐毅にとってはとても誇らしかった。彼だけは笑わず、期待を込めた眼差しで姉を見つめる。