第39話
「最後に挨拶していきたい」
そろそろ出発するぞと言う祖父にお願いをして、再び仏壇の前に座った。習ったばかりの作法で線香をあげ、姉の写真を手に取る。
生きていた時の辛さや苦しさを全く感じない笑顔。この笑顔を見ると、たくさんの思い出がよみがえる。でも、その時は楽しかったはずなのに、今は思い出すと辛い気持ちになる。もう一緒に笑うことができない、もっと一緒にいたかったと、胸が苦しくなった。
写真を抱き締める。僕の言葉が届くように、左胸に強く押し当てた。
「大好きだよ、姉さん」
あなたが僕を大事に想ってくれたように、僕もあなたを大事に想っていた。ぶっきらぼうな態度ばかりの僕だったけど、あなたが生きていた時に、少しでもこの想いが伝わっていたことを願います。
左胸から離すと、もう一度姉の笑顔を見つめる。
この笑顔は、あの人に奪われた。あいつが姉を、死に追いやった。でも、僕が健康だったら、姉が苦しむことはなかったかもしれない。
姉は復讐を望まないだろう、無関係な人生を歩めと書いたのだから。でも、やりたいことに熱中しろとも書いてあった。だから、僕は自分のやりたいことをやる。それが、命を繋がれた僕の役目だと思うから。
「僕も医者になりたいんだ。それなら、約束を破ったことにはならないだろ?この体は、姉さんの心臓で動いているんだから、半分は姉さんのものだ」
姉が書いた約束とは、医者になるという事。僕達がなりたい職業は同じだから、僕が医者になって、姉の分もたくさんの人を救えばいい。
写真を置いてあった位置に戻すと、僕は笑顔を向けて立ち上がる。
「また来るよ。行ってきます」
その後、家を出発した僕は、祖父が運転する車の中で、姉が死んだ日の話を聴いた。
「学会の最中、秘書伝いに聴いたんじゃ。紬祈が意識不明の重体じゃと、仁田が連絡をくれてな。儂に何度も連絡をくれていたが、マナーモードで気づかんかった。飛行機の時間を早めようとしたんじゃがチケットが取れず、病院に着いたのは夜でな。もうその時には手術が始まっていて、終わるのを待つしかなかった。仁田も専門外じゃから、詳しい状況は共有されず、全てあいつの独断で手術をしたらしい」
祖父は深くため息をついた。元気のない声で淡々と話し、時折鼻をすする。だが、涙は流さなかった。運転しているから、きっと我慢しているのだろう。
「後で現場を確認したら、自殺の可能性も0ではなかった。休憩スペースの窓から身を乗り出すには、椅子に立たないといけないからな。じゃが、頭の下には鞄があったらしく、咄嗟に頭を守った様に見えたそうじゃ。だからあいつは勝手に脳死判定を行い、手術を強行した。警察にも臓器移植ネットワークにも連絡せずにな。儂が問い詰めた時、あのカードを見せてきて、移植は紬祈の意思だと、自分の行動を正当化した」
姉が事故で脳死になったのなら、姉の意思に沿って親族への優先提供が行われ、心臓は僕に移植される。だが、僕に提供するために自殺したのなら、僕に心臓が移植されることは、本来ありえない。
「起きてしまったことは、もうどうすることもできん。儂らは、紬祈の死の真相を隠し、祐毅の病気が治ったことを喜ぶしかない。母さんにも言ってはダメだぞ。二人だけの秘密じゃ」
言えるわけがない。姉が死んだという事実を知った時、とても悲しんだはずだ。真相を知れば、きっと悲しみが増すだけでなく、苦しみや憎しみで心がいっぱいになってしまう。母を守るためには、僕達の心に仕舞っておくしかない。
「わかった」
あの家から、姉の日記は全て持ってきた。この日記は誰にも見つからない様に隠さないと。
「紬祈は、祐毅を愛してたんじゃな」
「え?」
先程より少し元気を取り戻した声と突然の話に、思わず祖父の横顔を見つめる。
「絶望の中で、お前を助ける策を必死に考えた。悲しい事じゃが、儂がその場にいたら移植はさせなかったかもしれん。自殺の可能性があるのなら、親族に臓器を提供するべきではないからの。それに、手紙が1週間以上経ってから届いたのは、祐毅の検査が無事に終わるのを待ったからじゃろう。移植手術を受けた者にとって、1週間後にある最初の検査は、大きな山。検査をパスして祐毅の体調が安定するのを待ったんじゃないかの?もし検査結果に問題があれば、儂もお前に手紙を見せなかったかもしれん。それに、手紙ではなく、部屋に日記を見に行くようにしたのも、退院できるぐらい体調が回復するのを待ったんじゃと思うぞ。全ての行動に意味がある。紬祈は、祐毅の健康を祈りながら段取りをしたんじゃないか?」
僕は最初、無事に退院できなきゃ部屋にすらいけないじゃないかと思っていた。姉の考えは、まさにその逆。退院出来たら見せてあげる、元気になるまで待ってるよと、僕の無事を祈っていた。心の弱い僕でも元気な体になれば、現実を受け止められると考えたのかもしれない。
ここで僕は、考えを改めた。姉が僕に読ませたかったのは、7冊目だけでなく、全ての日記なのだと。愛していたということを知って欲しかったのだ。愛しているから、どんなに自分が苦しくても僕を救った。その命を大事にしてほしいと、あの人の危険さを知らせてくれた。全てまとめて、僕への手紙なのだ。
「祐毅。その命、大事にするんじゃぞ。儂も、お前達二人の命を大事に守るからな」
「うん」
僕は、左胸に手を当てた。トクン、トクンと振動を感じる。姉の愛で、僕は助かり、守られた。その事実を噛み締め、忘れない様に生きていこう。
たくさんビルが建ち並ぶ街を離れ、長い距離を走った車は、ある街に入っていく。間隔を開けて建てられた家々。そのうちの1軒に車は入っていく。
「着いたぞ」
初めて乗る車に若干気分が悪くなり、背中を丸めながら車を降りると、家から老人が二人出てきた。
「お、やっと来たか。って、ヤクザか、お前は」
「お義兄さん、ご無沙汰してます」
出てきたのは、おじいさんとおばあさん。おじいさんの方は、顔がどことなく祖父に似ている気がするが、僅かに釣り目で少し怖い。おばあさんの方は眼鏡の奥の目尻は下がっていて、優しそうな印象。
「おー、久し振りじゃのう!」
祖父は二人に手を振ると、僕の背にそっと手を当て、行こう、と声を掛けた。一緒に歩き出し、二人の前で止まると、祖父が紹介をしてくれた。
「こっちの怖そうなジジイは儂の弟じゃ。隣は奥さん。二人共、孫の祐毅じゃ。儂に似てイケメンじゃろ~」
「誰が怖そうなジジイだ」
祖父の弟だという人は、祖父をギンッと睨みつけた。その顔に一瞬ビビった僕に、話しかけてきたのは、おばあさん。
「祐毅君、こんにちは」
「あっ。はじめまして、祐毅です。今日からお世話になります」
背筋を伸ばし、二人の間くらいの位置に向かって頭を下げた。そう、僕は今日から、祖父の弟の家で暮らすことになる。ここは祖父の実家で、母は場所を知っているが、あの人は知らないらしい。
これが祖父の考えた、あの人から守る策。最初の計画では、祖父があの人と話をして、一緒に暮らしても大丈夫と判断するまでの間だけ、ここに住まわせてもらう予定だった。だが、あの日記を読んだ以上、あの人と一緒に住むことはないだろう。どのくらいの期間になるかはわからないが、今日からここが僕の家だ。
「産まれたばっかの時に見て以来だが、どっかの誰かに似ずに、いい男に育ったな」
僕の記憶には無いが、どうやら初対面ではないらしい。ニカッと笑ったおじいさんの顔は、祖父の笑った顔にそっくりだった。
「そうじゃろ?儂に似てイケメンなんじゃ。隔世遺伝じゃのう」
「兄貴に似たら、こんな礼儀正しく育たねぇよ」
口調は気になるが、二人の仲は悪くない。仲が悪かったら、僕を預けないと思う。たぶん……
「今日から祐毅を、よろしく頼む!」
僕の隣で祖父は、深々と頭を下げた。その姿を見て、僕もすぐに同じ姿勢を取った。
「よろしくお願いします!」
「二人共、頭なんて下げなくてもいいですよ。困った時は助け合うものですから」
優しい声で語り掛け、僕の肩にポンと手を置く。顔を上げると、おばあさんは柔らかい笑顔をしていた。
「そうだぞ、家族だからな。ということで、祐毅。今日から俺を祖父ちゃんと呼べ」
「いや、祖父ちゃんは儂じゃから。お前は大叔父じゃろうが」
「呼びづらいだろ、大叔父なんて。俺と一緒に暮らすんだから、今日から俺が祖父ちゃんだ」
呼び方で小さな争いが始まった。正直、ほぼ初対面で軽々しく祖父ちゃんと呼んでいいのか悩む。そう呼べと言ってくれるのはありがたいが、今みたいに二人揃った時は区別しないと困るだろう。
「じゃあ、じっちゃんって呼んでいいですか?」
じいちゃんとじっちゃん。一応発音でも区別はつく。僕の提案に、二人のケンカはピタリと止まった。じっちゃんは僕の方に顔を向けて、にっこりと笑う。
「よし!あとは、敬語禁止な」
祖父も僕に顔を向けて、うんうんと頷いている。どうやら双方納得してくれたようだ。
じっちゃん、ばっちゃんで呼び名が決まると、家に上がり、リビングで話をすることになった。
「祐毅はまだ手術を終えて1か月ほどじゃから、食事には気をつけんといかん。ダメなものは、これに書いとる。あと感染症にも気をつけんと…」
「兄貴、俺等も素人じゃないから、任せろ」
じっちゃんは元医者、ばっちゃんは元看護師なんだそうだ。祖父の病院に勤めていたが、この街で医者をしていた父親が高齢を理由に引退するということで医院を継いだ。この家は医院と住宅がくっついている。患者が少なくなって、数年前に病院を閉めたが、それでも時々、怪我や体調不良の人がじっちゃんを頼って家に来るそうだ。お金は取らずに診てあげていて、後日お金以外の形で皆お礼を持ってくるらしい。
病院から渡された、退院後の生活に関する書類をばっちゃんが手に取る。
「食べ物もそうだけど、生活に必要なものは、明日買いに行きましょうね」
「あぁ。明日の朝、小陽が来るから、一緒に買い物に行ってくれ」
小陽、僕の母は明日休みを取った。指示通りに休んだ、と思っているのはあの人だけ。僕達の計画では、早朝に向こうの家を出発して、この家に来る。祖父はこの後戻って、明日の朝あの人と話をするそうだ。あちらが話し合いに応じてくれればいいが、カッとなって暴力、そういう展開にならないことを祈るしかない。
姉の死を母には、あの人の行き過ぎた教育で精神的・肉体的に疲れ、注意力や集中力が下がったことにより、誤って窓から転落したと話した。僕が同じ目に合わない様に、あの人から離れた場所で生活させようと説得し、母の叔父にあたるじっちゃんに預けるということで、納得してくれた。
正直、退院したら家族と過ごせると思っていたので、寂しい。でも、寂しい気持ちは祖父も母も同じ。いずれ一緒に暮らせるように何とかすると言ってくれた、祖父を信じて待つ。
窓からオレンジ色の光が差し込む時間になると、祖父が立ち上がった。
「さて、儂はそろそろ帰らんと」
僕も慌てて立ち上がった。もう今までのように、毎日会うことは出来ない。次はいつ会えるのかわからないため、最後まで見送ろうと一緒に外へ出る。
「そうじゃ、忘れるところじゃった」
僕に背を向けて車に歩いて行った祖父は、すぐに目の前まで戻ってきた。鞄の中に手を入れ、何かを探し始める。
「これは儂からの退院祝いじゃ」
取り出したのは、一つの箱。表面にはスマートフォンの写真が印刷されている。
「スマホ?」
「そうじゃ。儂と母さんの連絡先が登録されておる。毎日連絡取ろうな。離れていても、ずっと繋がっておるぞ」
早速箱を開けてみた。落とさない様に気を付けながら手に取ると、頭の方から紐が出ているタイプのスマートフォンだった。
「それは防犯ブザーじゃ。引っ張ると大きな音が鳴って、居場所が儂らに知らされる。あの二人の連絡先も、後で登録しておきなさい。二人の方が近くにいるから、すぐに助けてくれるじゃろう」
「そんなに治安悪くないぞ、この街」
後ろからじっちゃんが、少し怒ったような声でツッコミを入れる。祖父はその言葉に、フッと笑いながら首を振った。
「それだけじゃない。いいか、祐毅。もし、心臓が突然痛くなったり、苦しくなったりした時も、これを引っ張りなさい。気を失う前にブザーを鳴らすことができれば、近くの人や二人が気づいてくれる。手遅れになってはいけないから、躊躇わずに鳴らすんじゃぞ?」
本来の使い方とは違うけれど、この防犯ブザーは僕にとっての命綱。倒れたとしても、助けが早ければ、それだけ生きる確率が上がるということだ。
「うん。わかった」
僕と家族を繋ぎ、僕の命も繋ぐスマホ。肌身離さず、お守りのように持ち歩こう。
「じゃあ、そろそろ行くとするか。祐毅、またすぐ会えるから、いい子にしてるんじゃぞ。二人共、祐毅を頼んだぞ」
「おう、任せとけ。俺の孫だからな」
「お義兄さん、気を付けて帰ってくださいね」
「祖父ちゃん、ありがとう。またね」
最後に祖父は、優しく抱き締めてくれた。離れ離れになってしまうけれど、声はいつでも聞けるし、またすぐに会える。寂しいという感情は、だいぶ薄くなった。
ゆっくりとしたスピードで去っていく祖父の車が見えなくなるまで、手を振り続けて見送った。




