第34話
約束を交わした翌日から、以前のように体調の良い日は病室の外で過ごすようにした。これは体力をつけるため。今回はそれだけではなく、勉強にも力を入れた。姉が医者になるより先に、僕に合う心臓が見つかるかもしれないし、新しい治療法が発見されるかもしれない。そうなれば、姉と一緒に学校に行ける未来が現実になる。そう考え、母に頼んで勉強道具を揃えてもらい、自主学習をスタートした。だが、最初から全ての内容を理解できるわけもなく、わからないところは姉が見舞いに来た時に聴きまくった。自分の勉強時間が削られて嫌だという顔をされたが、約束を守っているんだぞとアピールするようにしつこく聴いた。すると、日を重ねるごとに姉の表情は変化していき、真剣な顔をして丁寧に教えてくれるようになった。
僕が勉強にも力を入れ始めて半年ほど経った頃。毎日のように見舞いに来ていた姉だが、3日に1回、5日に1回、週に1回と、来る回数が徐々に減っていった。勉強を聴きたい僕からすると、質問が溜って困るので、つい理由を聞いてしまった。
「姉ちゃん、最近来る回数減ったね」
「私も早くお医者さんになれるように、たくさん勉強してるの。お父さんが、医者になりたいなら、まず学年で一番になれって。そしたら、お医者さんになる勉強、教えてくれるって」
この話を聴いて、僕は気持ちが一瞬モヤっとした。約束を守ろうと頑張ってくれていることは嬉しい。だが、僕を息子ではないと言ったあの人が、姉には家族として接している。あの人にとって、健康か病気かが家族の基準の一つなのだ。
いや、あの人のことはもういい。くよくよしても、心臓に悪いだけ。3人の家族のために、僕は頑張って生きるんだ。そう自分に言い聞かせ、頑張ってねと一言伝えてこの話は終わらせた。
この日から、わからないところは出来るだけ自力で調べたり、祖父や母が来た時に聴いたりした。医者になろうと頑張っている姉の邪魔をしたくないからだ。どうしてもわからなかったところだけは、見舞いに来てくれた時に聴く。姉も、わからないところはあるかと心配してくれるので、遠慮していると思われない様に2・3問だけにした。
姉が中学生になると、見舞いの回数がまた減る。月に2回来るか来ないかという頻度で訪れ、居座る時間も短くなった。そして、更に気になるのが、訪れた時の表情。
「姉ちゃん、大丈夫?僕、ソファーで勉強するから、ベッドで少し寝ていいよ?」
「ううん、大丈夫。もう少ししたら帰らなきゃだから」
「……あんまり、無理しないでね」
笑って隠しているつもりだろうが、バレバレな疲れ顔。重そうなまぶたに、目の下には薄いクマ。もともと太ってはいないが、頬もスカートから伸びる脚も、昔より痩せ細ったように見える。
寝る間も惜しんで勉強しているのだろうか?病院にいる僕よりも病人に見えるその様子。あまりに心配で、祖父や母にも聴いてみた。当然二人も気づいていたが、声を掛けても大丈夫の一点張りだと言う。あの人が塾に通わせ始めたそうで、帰宅しても食事と風呂を済ませるとずっと部屋にこもりっきりらしい。
僕は自分を責めた。早く医者になれなんて約束をさせたから、姉は必死に勉強をしている。友達と遊びたいだろうし、もっとやりたいことがあるだろうに、全ての時間を勉強に費やしているのだろう。疲れた顔を隠し、僕や祖父達に心配をかけまいと、無理に笑顔を作っている。僕が姉を追い込んだ。自分だけ約束させられるのも、なんて軽々しい考えで提示した約束が、姉から笑顔を奪っていく。二人が笑顔でいるために結んだはずの約束なのに。
僕は本当に心が弱い。自分を責めたら体調が悪化して、また機械達の世話になった。絶対安静と言われ、ベッドから起き上がることができず、一日のほとんどを眠って過ごす。目を開けて、閉じて、眠る。また開いた時に誰かがいれば、短い言葉とアイコンタクトで話をした。
ある日、目を開けると姉が隣にいた。目を瞑り、両手で僕の手を握って、額に当てている。まるで何かを祈っているように見えた。
まだ僕が起きていることに気づいていないらしい。目を閉じたままの姉を少しの間だけ観察する。目の下には相変わらずクマがあり、前より濃くなっている気がする。唇が少し荒れているのは、ストレスか寝不足のせいか?
見ているのが心苦しかった。そして、また一瞬考えた。僕が早く死ねばいいのにと。僕がいなくなれば、姉が必死に勉強する理由はなくなる…
ダメだ、そんなこと考えるな。数日寝て回復してきた心臓に負荷を与えるな。諦めないって約束した。家族のために生きるって自分に誓った。姉が笑顔じゃないなら、僕が笑顔にしてあげればいい。
僕は指に力を込めた。すると姉は、驚いたように目を開けて、僕の顔を覗き込んできた。
「祐毅!大丈夫?」
心配、と顔に書いてある。僕が見たいのは、その顔じゃない。
「ごめん…寝てた」
何も見えなくなるくらい、目を細くして笑ってみせた。それでも少ししか表情は緩まない。そりゃ、こんな姿の奴が目の前にいたら、笑いたくても笑えないか。
「大丈夫だよ」
枕元を手で探り、リモコンを探し当てると、僕はベッドごと上半身を起こす。
「いいよ、寝てな。無理しないで」
「ははっ…大丈夫だって」
少し角度が上がったところでベッドを止められた。だが、曇った顔が見やすい位置にはなったので、大丈夫、と笑いかける。
「姉ちゃんの方が、無理してない?疲れた顔してる」
姉の顔に手を伸ばす。その手は、自分でも笑えるくらい震えていた。それもまた不安にさせたのだろう。姉は焦ったように僕の手を拾い、大事そうに自分の頰に引き寄せた。まるで僕の温かさを確かめ、体温を記憶するように頰に押し当てる。温かい手や頰と、それとは真逆の表情。目を閉じ、眉間に皺を寄せ、唇をキュッと結んでいる。
そう簡単に笑顔を見せてはくれない。閉じられた目の下を親指でなぞってみた。ゆっくりとまぶたが上がるのを確認してから、今度は微笑んで見せる。
「クマ、できてるよ。ちゃんと寝てる?」
ここにできていると教えるように、指を行ったり来たりさせる。
「寝てるよ。私は大丈夫だから、心配しないで」
相変わらず表情は曇ったまま。病人に心配されるのは嫌かもしれないが、心配せずにはいられない顔をしている姉を、黙って見てはいられない。と言っても、僕にできることは、きっとものすごく少ない。
「クマ、治さないと…学校でブサイクって、言われちゃうよ?」
とにかく笑わせようと言葉を選んだ。喋るのが苦しい、けど姉が帰ったら休めばいい。また数週間は会えないだろうから、多少無理してでも笑顔したい。何より僕が、姉の笑った顔を見たいから。
「誰もブサイクなんて言わないよ。祐毅くらいだから、そんなこと言うの」
少しだけクスッと笑ってくれた。人を笑顔にするって、中々難しい。今度は親指と人差し指の横で頬を摘まんでみた。
「姉ちゃんは、ブサイクじゃないよ…もっと笑って?笑った方が、可愛いから」
本当は口元を摘まんで引っ張って、無理やり笑わせたかった。だが、手は頬にくっつけられていて動かせない。唯一動かせる親指と人差し指の間を、もう一度挟み直す。
「ははっ。祐毅のくせに、生意気。ほんと、お老成さんだね」
目尻を下げ、口元を緩める。今度は僅かな時間だが、しっかりと笑ってくれた。それを見られただけで、心のモヤモヤが少し晴れた。
「勉強、無理しちゃダメだよ。時には、休憩も必要だって…祖父ちゃん言ってた」
これは祖父が見舞いに来た時に、僕に言った言葉。寝込みがちになっていた僕に、頑張る時もあれば休憩する時も必要だと、こうして寝ていることは悪いことでは無いと教えてくれた。
「うん、ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
スッと僕の手を頬から離す。そろそろ帰るのかもしれない。そう思い、僕は最後に言葉を伝えた。
「姉ちゃん。僕は死なないから…ちょっとくらい勉強、休んでも大丈夫だよ。だからまた、ここに休憩しにおいでよ」
医者になれるまでまだ何年もある。姉にとってその道のりは、高い山がいくつも立ちはだかる長い上り坂。山を登り切るためには、時々休んで体力を回復しないと、途中で倒れてしまう。だから常に全力で頑張るのではなく、たまにはここに来て勉強のことは忘れてほしい、そう思った。
姉は僕の手を両手でギュッと握る。
「ありがとう。また来るから、次はもっとたくさん話そうね」
穏やかに話す姉だが、その表情からは感情が読み取れなかった。口元は三日月のようなカーブを描いているが、なぜか眉間には軽い皴ができている。どんな感情なのか考えていると、手がそっと布団の上に戻された。
「じゃあ、そろそろ帰るね。祐毅も無理せず、ゆっくりでいいから元気になるんだよ」
僕が慰めた時のように、何度も優しく頭を撫でてきた。うん、と頷くと、またねと言いながら立ち上がる。手を振り、扉まで歩いて、またこちらに振り返る。僕が布団の上で手を振ると、姉は静かに扉を閉めた。
そこから僕は、体調の波を何度も乗り越え、10歳になった。体力と学力をつけようと頑張りすぎると、心臓が悲鳴を上げる。体調が悪くならないギリギリのラインをここ数か月でようやく見極め、最近は機械達が病室に来ることはなくなった。だが、これとは別に体調に影響を与える悩み事がある。それは、月に1回顔を見られるかどうかという姉の心配だ。前に顔を見たのは2か月前か。全体的に痩せていて、目の下のクマは変わらないが、今までと大きく違うのは瞳。僕と合わせることを避けているような、悲しげな瞳からは光を感じなかった。何かあった?僕で良ければ話を聞くよと、問いかけてはみたものの、作り笑いで大丈夫と言って終わり。長居することなく帰ってしまった。学校か家で何かあったのだろうかと、祖父や母に聴いても、二人にも何も話してくれないらしい。
それからずっと、姉のことばかり考えていた。ちゃんとご飯は食べているのか、たまには勉強を休んでいるのか、そんな心配が尽きない。顔を見たい、会いたい、そう願っても僕からは行けないことに無力さを感じた。
心配と願いを頭の中で巡らせていたある日、面会時間終了間際に姉が病室を訪ねてきた。
「姉ちゃん…どうしたの?ずいぶん遅い時間に来たね」
来てくれたことは素直に嬉しかった。だが、いつもと全く違う時間に訪れたことに、違和感を覚える。
「塾が終わってから来たの。今日は泊っていこうと思って」
「え…うん、僕はいいけど…」
明日は土曜日で学校は休み。祖父は確か学会で明日までいないと言っていたが、母にはきちんと話をしたのだろうか?
「皆にはちゃんと話してるから大丈夫だよ」
僕が質問するよりも先に、その答えが告げられた。だったらいいか、そう思って違和感は消し去った。
その後は寝るまで、久し振りにたくさん話をした。中学校は楽しいか、友達はたくさんできたか、将来どんな医者になりたいか。話している間の姉は終始笑顔で、まるで勉強を頑張る前に戻ったようだった。
今回も二人でベッドに寝ることになった。前回から2年も経って、二人共成長しているのだから、狭いだろうと最初は拒否した。だが、風邪を引いてはいけないし、一緒に寝たいと言い張る姉。こんなにブラコンだったかと少々呆れたが、勉強で疲れている姉をソファーで寝かせるのも悪いと思い、渋々頷いた。
「じゃあ、おやすみ」
病室の電気を消し、姉に背を向けてベッドに横になる。たくさん話して疲れたのか、目を閉じると眠気が訪れるのは早かった。
「祐毅」
後ろから声が聞こえたと思ったら、カサカサと音がした。それは、姉が布団の中を移動する音。僕の背中に体がピッタリとくっつき、片方の手が僕の左胸にそっと当てられる。
「ね、姉ちゃんっ!どうしたの!?」
驚いて眠気が飛んだ。細いと思っていたけれど柔らかい体、僕よりも長く伸びる脚。姉の成長に気づいてしまった僕は、弟だけど一応男。さすがにドキドキして、止めてと言おうとした。けど、後頭部をコツンと何かが押さえ、全身の動きを封じられてしまった。
「絶対私が治すから、頑張って生きるんだよ」
落ち着いた声は、耳に近いところで聴こえた。首の後ろに風を感じたから、後頭部を押さえているものは、姉の頭だ。どうして今こんなことを言うのだろう?約束したのだから、姉が医者になるまで、頑張って生きるのは当然の事。
左胸に添えられた手に、僕は手を重ねた。温かい手をギュッと握り、返事をする。
「うん。絶対姉ちゃんが医者になるまで死なないから、安心して」
少し間が空いて、おやすみと聞こえると、姉は離れていった。
正直驚いたし、多少疑問が残る言動だった。だが、布団の暖かさで復活した眠気に、僕は勝てなかった。




