第31話
目覚めてから数日経ち、機械が全て外されてからも、僕はずっとベッドから起き上がらなかった。
諦めるなと言ってくれた祖父の言葉。それよりも父の言葉と表情が頭に残っていて、何もする気になれない。まるで、友達ができる前の僕に戻ったみたいだ。
祖父の次は母が見舞いに来た。着替えと僕の好物を持ってきて、たくさん話しかけてくれた。だが、僕は頷くか首を横に振るかしかしなかった。会話をする元気が無く、気遣ってくれる母にもどこか疑いを持ってしまったからだ。母も父のように思っているのだろうか?僕がいなければ、大変な思いをしなかったんじゃないか?そんなことを考え、けれども直接聞くことは出来ず、一人でぐるぐると悩む。
そんな僕を見て、今は話をしたくないとわかったのだろう。また来るねと言い残し、病室を去っていった。父とは真逆の、寂しそうな顔をして。
そんなある日、姉が見舞いに来た。久しぶりに会った姉は相変わらず元気そうに、ただいまと言って入ってきた。いつもなら僕はここでツッコミを入れるが、そんな元気はない。黙って天井を眺めていると、姉は真横に来て、ベッドの上に何かを置いた。また宿題をここで始めるようだ。普段なら紙を捲る音がして、一緒に勉強するよと声を掛けられる。だが、この日は違った。
突然顔に手が伸びてくる。驚いて目を閉じると、おでこがじんわりと温かくなった。
「熱は、無いね」
目を開けると、天井しか視界には映っていない。代わりに今度は、手首に熱を感じる。
「脈は…たぶん正常」
首に力を入れて顔を上げると、熱を感じた部分には何もついていなかった。が、近くで姉が自分の手首を指で押さえている。
「私と同じくらいかな?正常正常」
測り終えて満足したのか、よしっと言って椅子に座ると、教科書やらノートやらをベッドの端で広げ始めた。
「ほら、一緒に勉強するよ」
普段と変わらない掛け声。しかし、その前の行動が謎過ぎて首から力が抜けた。ポスッと音を立てて枕に沈む頭で、ぼうっと考える。
元気がない時は今までだってあった。だが、こんな医者の真似事、今までしたことがない。急にどうして?
返事をしない僕を不思議に思ったのか、姉は椅子から立ち上がって顔を覗いてきた。
「どうしたの?具合悪い?」
祖父のように頭を優しく撫でてくる。こちらをじっと見つめるその顔は、眉の間に八の字を作っていた。僕はその顔を見ていることができず、ううんと返して、姉に背を向けるように体を横向きを変える。
あんな顔をされるのが悲しかった。あんな行動をされたのが恥ずかしかった。何より、あんな顔をさせてしまった自分が情けなかった。強くて、元気で、いつも笑顔の姉に、あんな顔を。
「そうだ!ジュース飲んだら元気になるよ!」
良い事を思いついたと急に明るい声をあげ、傍を離れる姉。
「姉ちゃん…ごめんね…」
「んー?」
冷蔵庫はベッドから数歩しか離れていないのに、背を向けているせいか言葉は届いていないらしい。パタンと音がしてから、話を続けた。
「弱っちくて…ごめん」
足音が止まった。真後ろにいるのか、少し離れて止まっているのかはわからない。
「弱くないよ。祐毅、頑張ってるじゃん」
今回はちゃんと聴こえていたようだ。返ってきた声は、少し距離があるように感じる。
頑張ったと言ったって、今回はたまたま運が良かっただけ。僕がいくら頑張ったって、その気持ちだけで病気は良くならない。それに、心臓が悪いのだ。こいつの調子や機嫌が悪かったら、僕はもう終わり。強いストレスをもう一度感じたら、次はもう無いかもしれない。それほど、心臓の悪い僕は弱いのだ。
僕はダンゴムシのように丸くなり、弱い自分を隠すように、布団を被った。
「こんな弟でごめん。恥ずかしいよね」
こんな弱い弟がいるなんて、学校で恥ずかしい思いをしているのではないだろうか。いや、弟がいるなんて、誰にも話してないかもしれない。だったらいっそ、本当にいなくなった方が…
バシッ!
「いてっ!」
突然背中に痛みを感じた。痛いところを撫でながら体を起こし、音がした方に体を向ける。最初に見えたのは、ベッドの上に転がっている、角が凹んだ紙パックのオレンジジュース。その下には、オレンジ色に濡れている姉の勉強セット。どうやら痛みの原因は、オレンジジュースのようだ。
「祐毅は悪くないじゃん!なんで謝るの?意味わかんない!」
大きな声が飛んでくる。震えるその声が聞こえた方に顔を上げると、僕を睨みつけていた。今にも零れそうなくらい、目に涙を溜めて。
「一緒に頑張るって約束したじゃん……嘘つき!祐毅なんて大嫌い!」
涙が頬に流れた瞬間、姉は走り出す。ソファーに置いたランドセルをバッと掴むと、勢いよく部屋を飛び出して行った。
「待って!姉ちゃん…」
僕の言葉の途中で扉は閉まってしまった。いや、開いていたとしても、僕の言葉は届いていなかっただろう。
涙を流す姉は初めて見た。僕が弱いから、泣かせてしまった。でも、父にあんなことを言われて、倒れて、それでも頑張るなんて嘘をつけるほど、僕は強くない。
どうするべきだったのか、正解がわからない。モヤモヤする心を無視しようと、零れたジュースを片付けている時だった。
コンコンと、扉をノックする音が部屋に響く。姉が戻ってきたのだろうか?はい、と返事をすると、静かに扉が開かれる。
「祐毅君、こんにちは。今、大丈夫かな?」
「仁田先生。こんにちは」
入ってきたのは、父の友達である仁田先生だった。仁田先生は、心のお医者さん。友達ができる前の根暗な時期、時々僕の話を聞きに来てくれた。祖父に頼まれて仕方なくだろうけど。
仁田先生はゆっくりベッドに近づいてくると、少し驚いた顔をした。
「おや?ジュースを零してしまったのかな?」
オレンジ色は姉の勉強セットだけでなく、真っ白な布団の色まで変えてしまっていた。仁田先生はすぐにゴミ箱を持ってきてくれて、一緒にティッシュで拭いてくれた。汚れた布団は交換してもらえるように話しておくと、言ってもらえたおかげで、少しだけホッとする。
片づけを終えると、仁田先生は自身が持ってきたビニール袋を広げて見せた。
「お見舞いにゼリーを買って来たんだ。売店の安いやつだけどね。今食べるかい?」
仁田先生は見舞いの度に何か買ってきてくれる。とてもありがたいことだが、今は食べる気が起きず、僕はお礼だけ言って首を横に振った。食べたくなったら食べてと、冷蔵庫にゼリーを入れると、仁田先生はベッドの傍のパイプ椅子に座る。
「顔色は良さそうだね。目覚めてから体調は大丈夫かな?あぁ、無理せず横になっていいからね」
仁田先生はそっと僕を寝かせると、顔を合わせやすいようにベッドを少しだけ起こす。その後は、一方的に語られる、僕が眠っている間の皆の様子を黙って聞くだけ。静かに返事だけしていると、仁田先生は表情も声の調子も変えずに、今一番聴かれたくない質問をしてきた。
「紬祈ちゃんと、何かあったのかな?廊下を走っていくところを見たんだけど」
ドキン、と心臓が鳴る。これはハイかイイエのどちらで返しても、質問が続く内容だ。素直に答えるべきか、そう悩んでいたことは顔に出ていたらしい。
「言いたくないなら、無理に言う必要はないよ。ただ、もし心に何か引っかかっているなら、いつでも力になるから、話してほしい。ずっと引っかかったままだと、祐毅君が苦しいだろう?」
言葉の後に続く、仁田先生の微笑み。その顔は、父にして欲しかった顔だ。元気か、大丈夫か、頑張ったな。どれも父から聞くことは無く、仁田先生から聞いた。立場は同じ医者、違いは実の父かその友達かという点。顔も発言も、普通は逆ではないだろうか?
確か仁田先生にも子供がいたはず。僕は父に何を言われたか隠しながら、子を持つ親の気持ちを聞くことにした。
「仁田先生、息子さんいたよね?」
「あぁ、いるよ。歳は紬祈ちゃんの一つ上かな」
流れに乗せて質問をしようと思った。けど、仁田先生の顔を見ていたら、少し聞きづらさを感じてしまい、顔を逸らした。
「もし息子さんが治らない病気になったら…こんな子いらないって思う?」
部屋がものすごく静かになった。僕一人しかいないみたいに。まずい、やっぱり聞くべきじゃなかった。
今のナシ、と言うより先に、布団の上に置いていた手を大きくて温かい手が包み込む。伸びている腕を辿ってその先を見ると、苦しそうな顔と目が合った。
「いらないなんて思わない。いらない子なんていないんだ。子供は皆、親に望まれて産まれてくる。自分の子供をいらないなんて思う親はいないよ」
自分の息子が病気になったことを想像したのだろうか?そんな親いないと呟きながら下を向き、僕の手を握る手に力を込める。まるで、悲しみの中でも見捨てないと、態度で示しているように思えた。
仁田先生の息子さんが少し羨ましい。先生は、息子さんをとても大事に思っている。それが全身から伝わってきた。
自分の子供が病気になったら、仁田先生はさっき話していたように思うのだろう。だが、その言葉を裏返して父に当てはめれば、僕を息子と思っていない父は、僕の親じゃないということなのだろうか?
「お父さんと、何かあったのかい?」
考え事をしていると、仁田先生に突っ込まれた。僕は親子の話として聞いたのに、父と名指ししてくるなんて。さすが、心のお医者さんだ。
「ううん、何も。変な事聞いてごめんなさい」
僕は微笑んだ。騙せるかはわからないが、父のことは話すべきではないと思った。仁田先生は父の友達。僕のせいで二人の仲が悪くなるようなことが、あってはいけない。
僕はやっぱり心が弱い。祖父、母、姉。家族4人の内3人は、僕を心配し、見捨てずに傍にいてくれた。それなのに、父のたった一言で落ち込み、皆に酷い態度を取ってしまった。きっと父がおかしいんだ。親は子供を心配するもの。母も仁田先生もそうなんだから、それが普通なんだ。捻くれるわけじゃないけど、息子と思われてないなら、僕も父と思わない。僕には、僕を大事に思ってくれる家族が3人もいるんだから。
ちゃんと姉に謝らないと。嘘ついてごめん、これから頑張るから一緒に闘ってと。
ところが、次の日も、その次の日も、姉が見舞いに来ることは無かった。




