第30話
僕の願いは届かなかった。目を開くと、見慣れた天井が最初に見えた。ピッピッやシューシューなど、規則正しい音が何種類も耳に入ってくる。口と鼻が何かに包まれていて、呼吸をしろと空気が送り込まれていた。体は重く、指を動かすことすらしんどい。刺すような痛みを感じた場所は、その周りを取り囲むように何かが貼られている感触がした。
この姿もきっと、父にとっては恥なのだろう。僕は死ぬチャンスを逃してしまった。先生達と機械の力を借りて、生かされている。現状を喜ぶべきか悲しむべきか、先生達に感謝すべきか怒るべきか、とても悩む。いずれにせよ、そんな体力が僕には無くて、ただぼうっと天井を見ていた。
そのうち、様子を見に来た看護師が起きていることに気づいて、すぐに先生を呼んだ。先生の話では、僕の心臓は一度止まったらしい。看護師の発見とその後の処置が早かったため、一命を取り留めたが、3日間意識が戻らなかったそうだ。
先生はよく頑張ったと褒めてくれたが、僕は何もしていない。頑張ったのは先生達だ。きっと、理事長の孫だから死なせるわけにはいかないというプレッシャーがあるのだろう。
僕はストレスに弱い体質なのかもしれない。晄が死んだ時は体調を崩し、父に息子でないと言われて心臓が止まった。本当に弱くてダメな人間、そりゃ父が存在を否定したくなるのも当然か。
そこで気づいた、僕は謝るべきなのだと。病気で産まれてきて、生きていてごめんなさいと。病気になることを選んだわけではないが、生き続けて周りに迷惑をかけるくらいなら、死くらいは自分で選んでもいいのかもしれない。体が動かせるようになったら、窓から飛び降りるか、力いっぱい左胸を何度も叩こう。
先生は、僕の意識がしっかりしていることを確認すると、祖父を呼んだ。病室の中にいても聞こえるくらい、大きく速い足音を響かせ、だが病室の扉は静かに開ける。仰向けの僕が目を向けると、息も髪も乱した祖父と目が合った。
「祐毅……大丈夫か?」
傍で立ったまま僕の顔を見つめる祖父に、瞬きで返事をする。すると、突然祖父は視界から消えた。
「良かった……本当に良かった……」
震える小声と共に、手にじんわりと温かさを感じた。そこから少しの間、祖父は視界に現れなかった。ズッ、ズッと鼻をすする音だけが時々聞こえ、消えた位置に留まっていることだけはわかる。その音が落ち着くと、次はカタカタという音が聞こえ、ようやく祖父の姿が現れた。先程より低い位置にある顔に目をやると、祖父は真っ赤な目をしていた。
「頑張ったなぁ、本当に。皆、心配しとったぞ。もう少し体調が回復したら、皆に会えるからな」
潤んだ瞳で笑い、僕の頭を撫でる祖父。いつもは嬉しいはずのこの行動が、とても申し訳なく感じた。
死んでいたら心配することもなかったのに、僕が生き返ったせいだ。
「祖父ちゃん…ごめんね…」
「ん?」
まだ息が苦しくてうまく声を出せない。それに、マスクに包まれているから聞こえにくいのだろう。祖父はマスクに触れそうな距離まで耳を近づける。
死ぬまでの間に、皆に謝らないと。まずは一番迷惑をかけている祖父に。忙しいのに毎日様子を見に来てくれた。もう父に怒られない様に、理事長という仕事を頑張って欲しい。
「病気で産まれて…生きてて…ごめん」
ちゃんと聴こえただろうか?今のところ耳しか見えない。と思ったら耳すらも視界から消える。移動した方に顔を向けると、祖父はベッドの端に顔を埋めていた。
どうしたのだろう?具合でも悪いのだろうか?なぜか小刻みに体が震えている。
「ごめんね…祖父ちゃん」
とりあえず謝った。すると、ようやく祖父から言葉が返ってくる。
「お前は悪くない……誰も悪くないんだ…謝るな…」
震える声はところどころ音程が上がり、祖父の手に力が入る。痛い、と言いたかったけれど、今は声を掛けてはいけない気がした。
暫くすると、祖父はひょっこりと顔を上げた。目はまだ赤いが、普段と変わらない、明るい祖父に戻っていた。
「とにかく、よく頑張った。祖父ちゃんは祐毅が無事で嬉しいんだから、もう謝るな。わかったか?」
どうして謝っちゃダメなの?そう聞きたい。でも、わかったかという言葉が、この話は終わりと言っているように聞こえて、それ以上は突っ込めなかった。ゆっくり瞬きをして返事をすると、祖父はニカッと笑った。
「祖父ちゃんがあと50、いや60歳若かったら、祐毅に心臓をあげるんじゃがなー」
顎を撫でながら、うーんと悩む祖父。さすがにこれはふざけていると思った僕は、自然と鼻で笑う。
「祖父ちゃん…死んじゃうじゃん……それに…」
「祐毅」
ぜいぜいと、荒い呼吸が混ざる僕の話を、祖父は優しい声で止めた。
「儂の心臓でお前が助かるなら、喜んで差し出すさ。家族とは、愛とはそういうものじゃよ」
愛はまだ難しいか、とゲラゲラと笑う。笑うから冗談だと思った。すると、祖父は急に声を低くし、真剣な目つきをする。
「いいか、祐毅」
つい先程までの陽気な祖父とは違うということがわかった僕は、目を閉じて開いて、聴いていることをアピールした。
祖父は僕の掌を広げ、指でなぞり始める。
「祐毅の祐という漢字は、神の助けや助けるという意味がある。毅は、ちと難しい漢字じゃが、意志が強くしっかりしているという意味がある。神様が病気から救ってくれますように、そして、強い信念を持って人を救う大人に育ちますようにという願いを込めた。儂が祐毅と名付けたんじゃ」
掌に記された僕の名前。その由来も、祖父が名付けたということも初めて聴いた。病気で産まれた僕のことを、凄く考えてつけてくれた名前だと感じると同時に、父が名付けていないことに少し寂しさを感じた。
「生きたいと強く願えば、きっと神様が助けてくれる。だから希望を捨てず、祖父ちゃんと一緒に病気と闘おうな」
医者は神様とか奇跡とか、そういうものは信じないと思っていた。僕は信じてない。だって、8年病院で生活してても幽霊を見たことがないし。
片方は手を握り、片方は頭を撫でる。いつもと変わらない、裏表のない祖父の言葉だが、僕はどうしても信じきれなかった。




