第3話
祐毅は、先天的な疾患を持って産まれた。いずれ手術をしなければ長くは生きられないと言われ、産まれてからずっと、祖父の明禎が理事長兼院長を務める神明大学病院の病室で暮らしている。
他の診療科より多少は賑やかなはずの小児科だが、分厚い扉のせいで室外の音はぼんやりとしか聴こえてこない。重厚感ある黒で統一された五人用の応接セット、40インチのテレビや冷蔵庫、トイレと浴室まで完備されている特別個室。この病室では、ごく一部の人間と限られた時間しか接触する機会が得られず、祐毅の世界が広がることはなかった。
さらに、病故に過度な運動も禁止され、毎日することといえば、読書かテレビを観ることばかり。読む本は絵本などではなく、子供向けに書かれた医学書。テレビも児童向け番組ではなく、ニュースや情報番組ばかり。そんな状況もあり、6歳になる頃には内向的かつ冷淡な性格のお老成さんに育った。
祐毅の父、崇志もこの病院で医者として働いている。医者の家系に生まれ、診察に訪れる医者や看護師がまるで伝説のように二人の話をする。その内容は多少誇張されていたかもしれないが、幼い祐毅にその真偽は関係ない。人の命を救うという偉業に憧れを抱いていた。だが、本で知識を得るにつれて、いかに自分の病が重いものかを理解する。冷やかになるのも無理はなく、日に日に本を読むペースも落ちていった。
「祖父ちゃん、暇なの?」
入院着の紐を結び直しながら、聴診器を耳から外す明禎に問いかける。
「暇じゃありませーん。れっきとした診察ですー。仕事ですー」
口を尖らせ、いい加減な返事をする明禎に、祐毅はため息をつく。
「診察は午前中に終わったよ。安定してるって」
午後の診察と、明禎が言い終える前に、二回もいらないよと、先を封じる。明禎はがっくりと肩を落とし、孫が冷たい、と項垂れた。
「理事長って忙しいんじゃないの?祖父ちゃん、干されてる?」
「そんなわけあるかぁ。隙間時間を見つけて孫に会いに来る、仕事ができる理事長なんですー」
白衣の襟をピシッと伸ばし、胸を張る。偉ぶる祖父に冷たい視線を向け、はぁと小さく息を吐く。視線を布団の上で組んだ指に落とし、毎日来なくていいよ、と呟いた言葉には、呆れと不安が混在していた。
祐毅の感情を察してか、明禎は彼の手を拾うように、両手で下から掬い上げて握る。
「大事な孫に、毎日会いに来ないわけないだろう。祖父ちゃんに会うの、嫌か?」
祐毅がハッとして顔を上げると、明禎は眉を八の字にして悲しげな表情を浮かべていた。すぐに心無いことを言い過ぎたと理解した祐毅は、小さく首を横に振る。それを見て祖父がにっこり笑うと、祐毅もつられて強張っていた表情を崩す。
「でも程々にしないと、秘書さんに怒られるよ」
照れ隠しなのか、いい雰囲気をすかさず台無しにした。これには祖父も椅子からずり落ちる。すぐに姿勢を戻すと、祐毅の髪をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「わかっとるわい。もう少ししたら戻りますー」
止めて、と祖父に抵抗を見せる祐毅は、子供らしい顔で笑っていた。
どこか童心を持ち合わせた祖父と年齢の割に大人びた孫。60近くある歳の差を感じさせない二人の距離感は、親子のようにも見えた。
「ただいまー!」
突然勢いよくスライドドアが開き、二人は一斉にそちらに視線を向けた。入ってきたのは、淡い紫色のランドセルを背負った少女。
「ここ、家じゃないよ」
「おかえり、紬祈。学校楽しかったか?」
少女の名は紬祈、祐毅の三歳上の姉である。同時に声をかけられた紬祈は視線を交互に二人に向け、返事が決まると一方に視線を集中させた。その顔は先程までの祐毅と似て、冷ややかだった。
「お祖父ちゃん、またいる。暇なの?」
二人の孫に同じ言葉を浴びせられた祖父は、両手で顔を覆った。
「祖父ちゃん悲しい!どうして儂の孫はこんなに冷たいの!?」
その反応を見て、ゲラゲラと笑いながら、紬祈はランドセルを一人掛けのソファーに放り、隣の三人掛けの大きなソファーにどさっと座った。
「だってお祖父ちゃん、毎日来てるじゃん。暇としか思えなーい」
「祖父ちゃん、優秀なの!忙しい合間を縫って孫に会いに来られるくらい、仕事ができる男なの!」
また襟を両手で引っ張り、どや顔を見せた。同じ態度を今しがた見たばかりの祐毅は、はぁと小さくため息をつくと、明禎に背を向けて横になった。紬祈も毎度のことだというように、首を左右に振りながら、ランドセルから教科書や問題集を出し始めた。そんな二人を交互に見ては、悔しそうな顔をする明禎。ついに我慢できなくなったのか、ふんっ、とわざわざ声に出して子供のように拗ねる。
「いいもーん。また明日来るもんね。祐毅、晩御飯しっかり食べて、早く寝るんじゃぞ!」
文句を言うような口調で心配を連ね、椅子から勢いよく立ち上がる。ドスドスとわざとらしく足音を立てて、ドアの前まで移動する。出ていこうとして取手を握るが、返事の無い寂しさから、振り返って祐毅の様子を窺った。
残念ながら、彼は背を向けて横たわったままだった。その光景に落胆し、明禎は諦めて病室を出ることにした。
スライドドアが静かに閉まる音が聴こえると、祐毅は体勢を仰向けに変える。
部屋が急に静かになった。室内にはもう一人いたはずなのだが、そちらの方向からは全く音がしなかった。
一日の大抵の時間は、このように静寂に包まれている。ひっそりとした一人の時間が戻ってきたのだと、祐毅は目を閉じた。
一人になると、悪い想像ばかりが脳内を駆け巡る。急に病状が悪化したら?このまま死んだら?自分が死んでも悲しむ人はいないのではないか?友達はいないし、先生達も患者が一人減って楽になる。祖父ちゃんも母さんも姉ちゃんも、家族が寂しむのは最初だけだろう。父さんなんてきっと……。
自分はどうして生まてきたのだろう。そんな疑問に行き着いた時、すーっとドアが動く音がして、足音も聴こえた。祐毅はなぜか寝たふりを決め込む。すると小さく聴こえていた足音が、次第に大きくなっていく。
「寝てるの?」
聞き馴染みのある高い声。誰が話しかけてきたのかは分かったが、祐毅は目を開こうとしなかった。
声の主は、広いベッドの端で問題集を広げ、鉛筆を持つ。
「宿題ならテーブルでやりなよ」
「あ、やっぱり起きてた」
寝ようとしていたわけではないが、傍で感じる振動に耐えかねた祐毅が声を発すると、クスクスと笑い声が返ってきた。起きているとばらしてしまったからには仕方がないと、祐毅は体を起こす。
ベッドの横に来たのは紬祈だった。彼女も毎日のように学校帰りに祐毅の元を訪れていた。
「姉ちゃんも毎日来てるじゃん。暇なの?」
「暇じゃないもーん。ほら、ちゃんと宿題やってる」
両手をパッと上げ、ベッドに広げた教科書と問題集を顎で指す。
家でやればいいじゃん、と言い終える前に、一人だからつまらないと遮られる。宿題は一人でするものではないのだろうかと、疑問を抱いて首を傾げる祐毅を、何よ、と紬祈は睨みつけた。
こういう場合、祐毅は諦める。言い争っても勝てないからだ。自分よりも3年長く生きていて、学校にも通っているので学がある。明るく、人見知りをしないため、社交的で友達が多い。友達が多いということは、情報通だし弁が立つ。そして何より"姉"だから。結局、この一点に尽きる。引きこもりのモヤシである祐毅は、姉の挙動を見守るしかないのだ。
「ほら、一緒に勉強するよ」
祐毅にも見えやすいように、紬祈は椅子と問題集の向きを変える。眉をしかめながらも、祐毅は問題集に視線を落とした。
6歳の祐毅に小学四年生の問題が全て理解できるわけではないが、紬祈は時々彼を勉強に巻き込み、成長を見守っている。
毎日病室を訪れて祐毅の様子を見ている祖父と姉は、次第に元気が無くなっていることを感じ取っていた。そんな状況を危惧した二人は、ある行動を起こす。




