第29話
僕は、先天的な心臓疾患を持って産まれた。いずれ移植手術をしなければ長くは生きられないと言われ、産まれてからずっと、祖父が理事長兼院長を務める神明大学病院の病室で暮らしている。
僕の世界はとても狭い。場所はこの病室の中だけで、出会う人々は祖父、母、姉と先生や看護師さんの数名だけ。地球の大きさと比べたら、とても小さな世界の中で僕の一生は終わる。つまらない一日が始まった、眠ったまま目覚めなければいいのに、と暗い考えしかせずに一日を終わらせていた。
そんな日常を、姉がぶち壊す。無理やり車椅子に乗せられ、僕の世界は強引に広げられた。病室の外はとても広く、たくさんの人が頑張って生きているのだと知ったのだ。6歳にして初めて友達ができ、同時にたくさんできすぎて名前を憶えるのに時間がかかった。
だが、友達ができるということは、喜びの始まりと共に悲しみの始まりでもあった。一緒に遊び、笑い合い、病気であることも忘れて元気に遊ぶ。生きていると思える瞬間。しかし、笑顔だった友達が、突然顔を見せなくなり、後に親から天国へ旅立ったと聞かされる。子供でも分かる悲しい現実は、僕が行きつく先でもあった。どれだけ元気に過ごし、手術のために体力をつけても、突然具合が悪くなったり、僕に合う心臓が見つからなければ死んでしまう。まるで、踏み外したら地獄に落ちる平均台の上を歩かされている感覚。根暗な性格には、希望よりも絶望の方がねっとりとくっついて離れなかった。
さらに絶望したのは、世の中で起こる命の奪い合い。自殺、事件、侵攻や戦争で毎日のように命が失われていく現実。大げさかもしれないが、心臓を待つ僕にとっては、平均台の幅が一つの命につき1cmか1mmか、狭まっていくように感じた。だから思った、失われる前に僕に寄越せと。僕だけではなく、移植を待ちながら、日々必死に生きている人達に、捨てる臓器をまわせと。
8歳になった僕は、晄の死を心のどこかで引きずりながらも、自分の体調と友達の健康状態を確認するように、できるだけ毎日プレイルームに通った。この日、友達とカードゲームで遊んでいた僕は、人数の多い方が楽しいと、見舞いに来ていた祖父も混ぜ、部屋の奥にあるテーブルで騒いでいた。
「お義父さん!こんなところで何をやっているんですか。もうすぐ理事会の時間ですよ」
祖父を呼ぶ、早口で太い大きな声。声だけでは誰かわからなかった。顔を上げ、プレイルームの入り口を見ると、切れ長の目をした長身の男性がこちらを見ている。
「父さん……」
久しぶりに見た父の顔。前回見たのは、先生が持ってきた本に載っていた顔写真。数年でそこまで人の顔は変わらない。病室に見舞いに来ない父の顔を、久々に見た瞬間だった。
「なにぃ!もうそんな時間か。祐毅、すまん。また明日遊ぼうな」
父、腕時計、僕の順番で忙しなく顔を動かす祖父。最後は笑顔で僕の頭をポンポン撫でると、早足で入り口に向かった。だが、視界に祖父は入っていない。僕は、こちらを向いているのに目が合わない父だけを見ていた。祖父が部屋を出るより先に、壁の向こうに消えた姿に、思わず立ち上がる。
「待って、父さん!」
忙しいのはわかってる。見舞いに来られないくらい、たくさん手術をして、多くの命を救っていると。だが、話したいことがたくさんあった。友達がたくさんできて、皆と毎日楽しく遊んでいると。時々外にも出ているし、体力をつけるためにキャッチボールをしていると。元気に成長しているということを伝えたかった。
プレイルームを出ると、もう二人は廊下のかなり先を歩いていた。大人は歩幅も大きいから歩くのが速い。祖父の数歩先を歩く父の背を僕は無心で追いかけた。走ってはいけないという注意を無視して廊下をダッシュ。追いつけないだろうが、こちらに気づいてくれることを願った。
少しだけ距離が縮まると、二人の会話がかすかに聞こえてくる。
「崇志。忙しいのはわかるが、少しは祐毅の見舞いに行ったらどうだ?」
きっと喜ぶぞと、祖父は優しい声で父に提案した。すると、父は足をピタリと止め、振り返って祖父を睨みつける。
「私は忙しいんです。見舞いに行く時間があるなら、1件でも多く手術をします。お義父さんこそ、あんなとこで油を売ってないで、もっと理事長としての責務を果たしてください!」
父の言うことは正しい。いくら仕事のできる祖父でも、さすがに悪いことをしていると思ったのだろう。ぶつぶつと口を動かしながらそっぽを向いた。
立ち止まっていた二人に、あと少しで追いつきそうなところまで近づいた時だった。父は僕に気づいたようで、やっと目が合った。そう思った瞬間、父は汚いものでも見るような顔をする。
「あんな欠陥品、私の息子ではない」
「えっ…」
父はそう吐き捨てて行ってしまった。その言葉は祖父には聞こえていなかったようで、遅れを取らないように早歩きで後ろをついていく。その背中を、ただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。
僕はいつの間にか自分の病室にいた。どう戻ってきたは覚えていない。ただ、ずっと頭の中では、父の言葉が繰り返されていた。
欠陥品、と言っていた。欠陥とは僕の心臓の事。心臓の悪い僕は、息子として認めない。さらには人とも思えないということか?僕が望んで病気になったわけじゃないのに。なのにどうして、あんな怖い顔をするんだろう?
見舞いに来ないのも、父の中では息子ではないから会いに来ない。病室が個室なのも、僕が恥ずかしいから隠しているんだ。この病室の中で、父に見えない場所で、静かに死ねと、そう言われれているのだと思った。
「僕は生きてちゃいけないの?」
そう口にした瞬間、左胸を何かが刺したように痛み、視界が徐々にぼやける。
とにかく苦しかった。心臓も、心も。このまま死んだ方が楽なのかもしれない。それが僕のためでもあり、父のためでもある。皆には少し悲しい思いをさせるかもしれないが、きっとすぐに乗り越えてくれるだろう。
僕は意識を失い、病室の床に倒れていたところを、看護師に発見された。




