第27話
祐毅は何事も無かったかのように立ち上がると、またパソコンを操作し始めた。
「最後にもう一つ。理事長の秘書である珠川夏梅さんにも、話を伺っています」
フォルダに格納され、唯一公開されていないファイルが、ついに開かれる。マウスでクリックされたのは、音声ファイル。
「夏梅さん。理事長と体の関係は、今でも続いてるんですか?」
くぐもってはいるが、動画の中で背を向けていた男と同じ声質、祐毅の声である。
「えぇ。最低でも月に1回はね。ふふっ、どうしたの?突然」
気怠げな、鼻にかかった声。この声の主が、理事長秘書の珠川夏梅である。
「いや、今でも続いてるなんて、長いなと思いまして。いつからでしたっけ?」
「私がホステスの時からずっとだから、もう22・3年前からかしら」
「そっか。銀座ディオサで働いている時に、秘書にならないかって誘われたんでしたよね?」
「そ。ホステスって、いつまで続けられるかわからない職業でしょ?秘書の方が安定した収入を得られると思って、付いてきちゃった」
不鮮明な音声に皆が耳を欹て、場内は静まり返る。時折カサカサと、布が擦れているような音が小さく聞こえるも、誰もが二人の会話に集中していた。再生を止めようとする崇志と、その動きを止めようとする仁田を除いて。
「そんなに関係が続いてるなら、理事長は夏梅さんのことが好きなんじゃないですか?」
「ふふっ、それは絶対ないわね。いつも自分が満足したら、それで終わるのよ?私はいいように使われてるだけ。私が低容量ピルを飲んでるからって、全然避妊してくれないのよ。酷いと思わない?」
ここで一瞬不自然に音が途切れ、再び彼女の言葉が続く。しかしその声は今までとは違い、少し低く落ち着いていた。
「きっと、理事長は病気なのね。女を抱かなきゃストレス発散できないとか、誰かを従えてないと気が済まないとか、その手の病気ってあるの?」
音声はここで終了した。恐らく祐毅の回答が続いたであろうが、その部分はカットされている。
この音声は、祐毅がボイスレコーダーで隠し録りし、編集したもの。仁田を味方につけた後、祐毅は珠川に連絡を取り、話を聞き出していた。先程の音の途切れは編集点で、祐毅のシナリオに不必要な会話は、全て削り取られている。
「今お聞きいただいた通り、理事長は秘書と20年以上に渡って肉体関係にあります。20数年前は、理事長の奥様がまだご存命の時ですので、不倫関係であったとも言えます」
理事長の奥様、つまり祐毅の母親だが、彼はあえて他人行儀に話す。少し前まで静まり返っていた現場は、祐毅の言葉で再び騒めきを取り戻した。
「理事長は月に二度、ホステスと秘書と避妊もせずに性交を行っていました。男として実に無責任で、医者として有るまじき行為です。ですが、他にも何かおかしいと思いませんか?この行動はホステスとは10年前、秘書とは20年以上も前から続いています」
「祐毅……貴様、いい加減にしろよ」
仁田だけでは抑えきれず、別な理事と二人係で抑え込まれている崇志が暴れ出す。だが、祐毅はそんなことお構いなしに提言する。
「理事長は病気ではないでしょうか?」
「私が病気?何をふざけたことを」
祐毅の提言を軽く嘲笑う崇志。祐毅は崇志の方に顔を向け、少し首を傾げてにっこりと笑う。
「そうですよね?仁田部長?」
祐毅の視線は、崇志の背後にいる仁田に向けられていた。目が合った瞬間、仁田は息を呑むが、祐毅の目を見てしっかりと頷いて見せた。
「理事長は……廻神はもう何年も前から病気です」
背後から聞こえた言葉に崇志は振り返る。既に仁田は腕を解き、理事達に顔を向けていた。
「おい……仁田、止めろ」
「私の診断では、彼は性依存症です」
不自然に静まり返る大会議室。皆が仁田の言葉を噛み締め、同情の眼差しを崇志に向ける。
「違う……私は病気ではない」
言葉で否定している崇志だが、顔は青ざめていた。
「20年以上前のことです。廻神が検査してほしいと、私を訪ねてきました。クラブ通いが止められず、職場や家庭でのストレスを性行為でしか発散できないと。問診とチェックリストによる検査をしたところ、依存症の可能性が高いと結果が出ました。動画、そして音声の内容から、症状は悪化していると推測されます。このことから、性依存症との診断を下さざるを得ません」
「ふざけた事を言うな!仁田、お前まで私を…」
「医者として患者を指導する立場でありながら、自らの病気を治療するどころか向き合いもしない。皆さんはこの人に理事長を続けさせて良いと、本当に思っているんですか!?」
崇志の怒りの矛先が一瞬仁田に向く。だが、祐毅が声を張り、理事達に問いかけると、崇志はすぐに振り向いた。こめかみに青筋を立て、食いしばった歯を薄く開いた唇から覗かせる。
「こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
祐毅の襟を強く握り、鋭い目つきで睨みつける。そんな崇志を見て、怯えるわけがない祐毅は、鼻で笑った。
「今のあなたに何ができるんです?僕が皆さんに見せたものは、全て事実ですよね?買春、部下の脅迫、薬品の不正入手、不倫。あ、避妊しなかったのは、医者としても男としても卑劣だと思いますよ」
煽る様な言動に誘われて、崇志は拳を振り上げる。
「殴りたいならどうぞ」
祐毅が纏う空気が、一瞬にして凍る。彼の目つきも口調も、氷のように冷めていた。その目に睨まれた崇志は氷像のように固まる。
「僕が憎いなら気が済むまで殴ればいい。いっそ殴り殺して揉み消しますか?これだけの目撃者の口を塞げるならやってみて下さい」
挑戦的な口調は変わらない。冷たい目を見開いて、やれるものならやってみろと見下す。
祐毅の目に怯むような男に、殺す勇気などあるはずがなかった。振り上げた拳はだらりと垂れ下がり、それでも多少プライドが残っていたのか、襟は掴んだままだった。
祐毅は崇志の手首を握る。顔色は変えず、だが感情は全て握力として変換する。苦悶の表情を浮かべ、崇志は握力を失っていった。
「いい加減、認めたらいかがですか?長年私欲を満たして来たことを反省し、自ら辞職するべきだと思いますよ?」
「辞職だと!誰がそんなこと…」
この期に及んでまだ食らいつく崇志。祐毅もさすがに苛立ち始める。握っていた崇志の手首を離すと、代わりに二の腕を掴んで自らに引き寄せた。
「理事長として相応しくないと、この場にいる全員に否定されることに、プライドの高いあなたが耐えられますか?僕が警察に行けば、あなたも小夜ママも逮捕される。内々に収めようと慈悲をかけていることに、まだ気づきませんか?潔く罪を認め、辞職することが、あなたのためということです」
囁く祐毅が横目で崇志を見ると、彼も横目で祐毅を見ていた。そのまま暫く睨み合い、先に目を逸らしたのは崇志。
悔しさを顔に滲ませ、舌打ちをする。項垂れる横顔を汗が、一筋、また一筋と流れる光景を、いつまでも眺めていられるほど、祐毅の我慢に余裕はなかった。
崇志の二の腕を掴む手に力を籠めると、苦痛に顔を歪めた彼に言い放つ。
「まだ醜態を曝すのか?私欲を満たすことしか脳にないお前は、理事長の器じゃないんだよ」
「っ!貴様!親に向かって…」
「こんな恥知らずな親、いらねぇよ」
何かが胸に刺さったように、息が止まる崇志。反論もここで止まる。
祐毅は崇志から手を放す。まるでゴミでも捨てるかのように、名残惜しさなど微塵もなく、パッと手を開いて体の横に腕を戻す。呆然と立ち尽くす崇志は、未練でもあるように先程まで痛みを感じていた腕を見つめた。しかしその痛みを与えていた相手は、もう崇志に目も呉れることなく、理事達に向き直る。
「それでは、理事長の解任について決議を行います」
「待て、祐毅。何が望みだ?」
今度は崇志が祐毅の腕を掴む。縋るように両手で握り、話を聞けと腕を揺する。だが、祐毅は何事も起きていないかのように、無反応だった。
「欲しいものなら何でも……」
「理事長の解任に賛成の方は、挙手をお願いします」
祐毅は自由にできる片腕を高らかに上げる。仁田は俯き加減で手を上げ、武蔵は周りを見回しながら、少しずつ手を上に伸ばしていった。
この瞬間の崇志はというと、祐毅に見入っていた。なぜ自分を解任させようとしているのか理解できず、決議の結果を知るのが怖いから。既に視界の端では結果の一部を捉えているが、現実を受け入れたくない気持ちが、体の動きを抑制していた。
「ありがとうございます。手を降ろしていただいて結構です。では、満場一致で理事長の解任に賛成ということで」
結果は、己の意思とは関係なく突然知らされる。目の前で、己が息子の口から、解任という言葉を聞くとは、露にも思わなかっただろう男は、ゆっくりと力を失っていった。手はだらりと垂れ下がり、膝はカクンと床に落ちる。
「では続けて、空いた理事長席についてもこの場で決めさせてください。理事長解任はここだけの話として留め、表向きには世代交代と称して、僕が理事長を引き継ぐというのはどうでしょうか?」
いくら無気力の崇志でも、今の発言の真意はわかる。祐毅は、理事長の座を狙っていた。それに気づくと、憎しみによって湧き上がった僅かな力で、祐毅の白衣の裾をグシャリと握る。
「貴様……これが狙いだったのか」
「部外者は黙っていてください」
視線も向けずに祐毅は、崇志の恨みを一蹴する。解任が決議された崇志は、もう理事会のメンバーではないということを、辛辣な言葉で理解させた。
「僕はこの中で一番の若輩者です。ですが、僕のような世代が上に立つことで、自分も頑張れば人の上に立てると若手医師は向上心を持ち、医学生達も年齢の近い理事長に親近感を持って、この病院へとやって来るでしょう。祖父の時代から病院を利用する人達も孫が継いだとなれば、そう不信感は抱きません。経営の事はこれから学ばねばなりませんが、経験豊富な皆さんが周りにいて下されば安心です。僕はお飾りの理事長でいい。お飾りにすらならないと判断したら、今日のように皆さんで解任決議を執り行えばいいんです。僕をこの病院の広告塔として、理事長に立ててはいただけませんか?」
少々誇大広告な気もする演説だが、理事達にとって悪い話ではなかった。自分を操り人形にして裏で糸を操作し、不要になればその糸をプツンと切ればいい。崇志とは真逆で、自分が皆に支配されてやると強調することで、祐毅は理事達の賛成を得ようとしていた。
理事達の顔色は様々。眉間に皴を寄せる者もいれば、真剣な顔でうんうんと頷く者もいる。祐毅は全ての理事の表情を確認し、スッと息を吸った。
「飾りの理事長だと?ふざけているのは…」
「では、賛成していただける方は、挙手をお願いします」
足元から発せられた音などまるで聞こえないかのように、決議を取り始める。手を上げている人数を指差しで数え、それが終わると反対勢に挙手を促す。
「皆さん、ありがとうございました。賛成多数ということで、私、廻神祐毅が、次期理事長を務めさせていただきます」
深々と祐毅が頭を下げると、パチパチと疎らな拍手が起こる。
「お時間を取らせて申し訳ありませんでした。では、理事会はこれで終了と致します」
「私は…認めんぞ」
祐毅が終了を告げると、ぞろぞろと席を立つ理事達。その足音にかき消されそうな恨み言は、今度は相手の耳に届いたらしい。
祐毅と仁田が二人の中間に視線を落とす。祐毅は、自分を睨み上げるそれから脚を引き抜くと、目の前にしゃがみ込んだ。微笑みを浮かべ、彼の前に指を三本立てる。
「今日から3日で理事長室を空けて下さい。では」
それだけ伝え、祐毅は立ち上がる。その場を去ろうとする祐毅に、崇志は最後の抵抗を見せた。
「貴様なんぞに理事長が務まるか!」
膝立ちになり、祐毅の白衣にひっついて行く手を阻む。立ち止まった祐毅は、無理に動こうとせず、じーっと崇志を見下ろす。
「廻神!もう止めろ!」
仁田がしゃがみ込み、崇志を引き剥がす。それでもへばりつくような視線を祐毅に向け、敵意を露わにする。
「秘書にも机を片付けておくように、伝えてくださいね」
お前などもう敵ではない、そう言いたげに微笑みを向け、祐毅はその場を立ち去った。怒鳴る崇志と、彼を抑え込む仁田を、大会議室に残して。




