第24話
数日後の夜。祐毅は、あるビルのエレベーターホールに立っていた。イヤホンから聴こえる声を頼りに、目の前に到着したエレベーターに飛び乗ると、すぐさま閉ボタンを押す。
「お客さまー、本日は貸し切りとなっております」
「はいはい。で、あの人は上に向かったんだよね?たぶん屋上だから、ノンストップで頼むよ」
「かしこまりー」
端的に会話が終わると、階数ボタンのRが突然点灯し、振動少なくエレベーターは上昇を始めた。
籠の半分がガラス張りのエレベーター。都会の瞬きを見下ろす祐毅の顔は、憂いを帯びていた。
「お前の方が先に着く」
事務的な連絡か、無音のイヤホンから祐毅の感情を察したか、颯毅が声を掛ける。短い言葉だが、祐毅の憂いを吹き飛ばすには効果覿面。ガラスに反射する彼の顔は、いつもと変わらない微笑みをしていた。
程なく、エレベーターは到着を告げ、扉を開く。エレベーターホールに出ると、正面にはガラスの自動ドア。祐毅は自動ドアへと直進し、彼に合わせてガラスは両側へと開いた。
生温い風が頬を撫で、新月の空が視界に束の間の暗澹を与える。天は祐毅の黒装束のように深黒で不気味だが、地に目線をやると、そこには点々と暖色が灯っていた。祐毅は灯る明かりを頼りに、全体を見渡しながら屋上の下見を始める。
床はウッドデッキが敷かれ、ところどころに設置された木製のベンチ。手入れの行き届いた花や草木が生い茂り、ベンチの周りや遊歩道に彩りを添えていた。
ここは屋上庭園らしい。日中に来れば、温もりを感じる木の質感と色彩豊かな植物達がオフィスで働く社員の癒しとなるだろう。だが夜中ともなれば、フットライトが足元を温かく照らすも、蔓延るように周りを囲む草木が怪しく見え、カサカサと風で揺れる音が恐怖心を煽る。
広い屋上は、祐毅の腰の高さほどの手摺で三方を囲まれていた。周囲を見下ろすように建てられたビルから下を覗くと、建造物や道路が無数多色に煌めいていた。午後10時過ぎの静穏な屋上とは違い、喧騒が伝わってきそうなほど、眼下は眩しい。
「おい、そろそろ来るぞ」
突然耳に入ってきた声に、己が何をしにここに来たのか思い出す。自動ドアまで静かに近づき、近くの茂みと同化するように息を殺して立ち留まる。
この屋上で初めて他者を認識したのは聴覚。コツ、コツ、とゆっくり大きくなっていく音の後に、ウィーンと静かに開く自動ドア。再びコツ、コツ、と落ち着いた足取りで入ってきたのは、一人の女性だった。
すらりと伸びた身長、黒夜に溶け込むセミロングの髪。オフホワイトの長袖ブラウスとは対照的に、膝が見えるほどの黒いミニスカートからは、長脚が顕になっていた。
そろそろと歩く彼女の表情は、横髪に隠れて見えなかった。だが、俯いた様子とだらりと垂れ下がった腕から、笑顔でないことは確実に言える。
祐毅は音を立てないよう、のっそりと一定の距離を保って女性を追う。一方的に始まった追いかけっこは、彼女が手摺の前で立ち止まったことで即時終了した。
女性は手摺に両手を置くと、上体を前のめりにする。その光景に、祐毅の脚は無意識に動く。だが、大きなストライドで1・2歩進むと、彼は意識的にその脚をピタリと止めた。
彼女は一度地上を見ると、小さく2歩後退った。震える両手を胸の前でギュッと握りしめ、その両手にくっつきそうなほど顔を下に向ける。
近づいたらからこそ見て取れる、彼女の心情。自殺を考えるほどの絶望、飛び降りようと屋上を目指した決意。だが、下を覗き込んだことで湧き上がった、死を拒む本能と死への恐怖。本能に意志が勝てなかったという、己の不甲斐なさ。祐毅は険しい表情で彼女を見つめる。
だが、距離が近すぎた。まだ数メートルは離れているとは言え、大きく脚を開いた状態の大男は暗所でも存在感がある。かつ、大股で歩いたことで足音も聞こえていたようで、女性はゆっくりと顔を祐毅がいる方に向ける。
「あっ」
「キャッ!」
目が合ってしまった。
「ど、どちら様ですか……」
彼女は、驚きと恐怖で後退り。最初は動けなかった祐毅も、彼女が動いたことで硬直が解ける。開いた脚を並列させ、背筋をシャキッと伸ばす。
「こんばんは、おねーさん。怪しい者…に見えるかもしれませんが、僕は医者です。神明大学病院で総合診療医をしている、廻神祐毅と言います」
「医者?廻神……祐毅さん……」
首を傾げながら、もう一歩だけ下がる彼女。怯えるのも無理はない。誰もいないと思っていた屋上で、突然黒尽くめの大男を発見したら、誰だってビビる。
「僕の方が先に屋上にいたんですよ。素晴らしい屋上庭園ですね。明るい時に来たかった。あ、必要なら名刺をお渡ししますよ」
ジャケットの内側に手を突っ込み、内ポケットをゴソゴソと探る。だが小さな声で、いえ結構です、と断られた。
「あなたは……一体ここで何を……」
もうほとんどの社員は帰宅したであろう時間に屋上にいるなど、怪し過ぎる。端から見ればどちらも怪しいのだが、質問を受けたのは本来このビルにいるはずのない医者の方。祐毅はこの質問を待っていたかのように、笑顔でこう答えた。
「僕はあなたを救いに来ました。ここから飛び降りるのは、止めにしませんか?」
彼女は大きく肩を震わせ、なんでと呟く。フットライトで薄っすら照らされた顔には、涙の跡が光っていた。彼女の表情を真っ直ぐな瞳で見つめると、祐毅はポケットからスマートフォンを取り出し、操作し始める。
「数日前からあなたの裏アカウントのSNSを拝見していました。あなたは、上司のセクハラをなんとかしたいと呟いている。ですが、寄せられるコメントは真逆で、不倫女、阿婆擦れ、女の武器を使って取り入っているなど、あなたを悪く言う言葉が多い」
淡々と読み上げる祐毅を、涙を浮かべた目で睨みつける女性。違う、違う、と呟きながら、首を小刻みに横に振った。
「職場でも似たようなことを言われ、居づらくなってしまったのでしょう?周りから見るあなたと、ご自身が語るあなた、どちらが本当なのでしょうね?」
「違います!」
彼女の否定が、屋上に響き渡る。それを聞くのは祐毅のみ。
「違う、と言いますと?」
何を言いたいのか全く分からないというように、惚けた声で問いかける。彼女は涙を零しながらも、強い目で訴えた。
「誘ったことも、同意したことも一度だってありません!いつも一方的で……嫌だと、止めてとお願いしても、無理やりされて……力では勝てなくて……周りの人にそれとなく相談したら、勝手に尾鰭がついて噂話が広まって……相談したのが間違いでした」
嗚咽を漏らしながら、胸に溜まった苦しみを吐露する。頬を伝う雫は、床板に当たってポタポタと何度も音を立てた。
「配置転換の希望も、退職願も、内部通報も、逃げるためにできることは全部やったのに、全てあの人に無かったことにされて……一生可愛がってやるって……もう、逃げるにはこれしかないんです」
彼女は顔を祐毅から背ける。顔を向けた側には手摺。死ぬ以外の道はないのだと、最後は視線で語る。祐毅が静かに見つめる中、彼女はゆっくりと手摺に向かって歩を進めた。




