第22話
翌日、昼休みの食堂で昼食を取りながら、祐毅はある人物を探していた。手と口を動かしながら、目だけはじっと食堂の入り口を注視する。
祐毅が食事を初めて5分ほど経った頃。4名の白衣の集団が食堂に入ってきた。祐毅の視線は、その先頭を歩く男に注がれる。
清潔感のあるロマンスグレーの短髪に、深い目尻の皴。周りを取り巻く若手の医者達に柔和な笑顔を振りまく細身の男は、精神神経科部長の仁田倫士。彼は崇志の古くからの友人で、幼少期をほぼ院内で過ごした祐毅もよく知る人物である。
一行は同じテーブルに着き、共に食事をし始めた。その間も終始笑顔で会話を交わす仁田。もう食器に食べ物が無くなってしまった祐毅は、スマートフォンを見ながら、彼等の食事が終わるのをじっと待った。
15分かけてゆっくりと食事を終えた一行は、来た時同様、揃って食堂を出ていく。祐毅もその後を追って、食堂を出る。
「あ!仁田先生、お疲れ様です」
自然な素振りで一行の前に出る祐毅。周りの医者達が驚く中、仁田は、おぉ、と会話よりも一回り大きい声で嬉しそうに笑う。
「祐毅君!久しぶりだね」
仁田はすぐに医者達に、先に行っていなさいと声を掛け、祐毅の隣をゆっくりと歩き出す。
「頑張っていると聞いているよ。無理はしていないかい?体調は大丈夫かな?」
「いえいえ、僕なんてまだまだですよ。体調は問題ありませんよ。薬も飲んでいますから」
トントンと胸に手を当て、健康をアピールする祐毅に、微笑みかける仁田。祐毅はその顔に、どこか懐かしさを感じた。
祐毅は背を曲げ、仁田の顔を見上げながら、声のボリュームを少し下げる。
「この後、少しお時間をいただけませんか?先生にご相談したいことがありまして」
眉を寄せ、じっと仁田を見つめて反応を待つ。だが、待つ間もなく仁田は、もちろん、と首を縦に振った。
「うちのカウンセリングルームで話そうか。行こう」
視線を遥か前方に向け、少しだけ歩速を上げて歩く仁田。祐毅は、真横をキープしながら、閑話を始める。
「若い先生方とあんなに親しく会話されて、仁田先生は慕われていますね」
祐毅の言葉が嬉しかったのか、仁田は照れ笑いを浮かべる。しかし、それを否定するように首を横に振った。
「彼等がどう思っているかはわからないけどね。昼食は、よく共にさせてもらっているよ」
奢ることが多いがね、と笑いを交えて話す仁田。微笑みながら話を聞く祐毅に、少し緊張感を持たせた顔で話を続けた。
「うちの科に限った話ではないが、知らず知らずのうちに自らを追い込んでしまう医者も少なくない。今日のように言葉を交わして、話しやすい関係を構築したり、悩みや辛い気持ちを抱えていないか気を配ったりしているよ」
それも上司の大事な仕事だからねと話す頃には、再び柔和な笑みを浮かべていた。理想の上司ですねと、祐毅も似たような笑みを返す。真面目と洒落を混同させていると、あっという間に目的の場所に到着した。
「さぁ、入って」
仁田がスライドドアを引き、入室を促す。失礼しますと、祐毅は先に部屋へと入る。
大きな窓から日差しが差し込む、壁も床も真っ白な一室。テーブルを挟んで向かい合うように置かれた手前側の椅子に座ると、仁田が向かい側へと静かに腰かける。
「で、どんな相談かな?私でよければ力になるよ」
手を組み、僅かに体勢を前のめりにさせた仁田が、笑顔できっかけを作る。
「僕が以前ご紹介させていただいた患者さんの経過を伺いたくて」
祐毅は、自殺志願者全員を悪戯に回収しているわけではない。彼の説得を聞き、治療を望む者がいれば、仁田へと紹介していた。もちろん、その裏で行っている回収作業の事は伏せて。
「あぁ、最初に連れてきてくれた患者さんは、もう通院を終えて復職されてたよ。他の患者さんも、通院間隔を伸ばしたり、薬の量を減らしたり、少しずつだが改善に向かっていると聞いている」
祐毅は安堵の表情を浮かべる。仁田に深々と頭を下げ、ありがとうございますと礼を告げた。
「先生にお願いして良かったです。やはり専門医でないと頼りになりませんね。僕は説得するだけ精一杯でした」
「いやいや、祐毅君が説得してくれたから、患者さんは最悪の事態を免れ、我々の治療を受けてくれているんだ。君は医者として、とても頑張っていると思うよ」
僕なんて、と卑下する祐毅に、自信を持ちなさい、と称揚する仁田。微笑ましい空気が二人の間に流れる。その空気に乗せ、祐毅は真に聞きたかった話を切り出す。
「もう一つ伺いたいのですが、理事長は何かの病に侵されてはいませんか?」
仁田の笑顔が静止したかと思えば、急に眉間に皴が寄る。首を傾げ、戸惑いながら口を開いた。
「あいつがか?いや、健康診断は特に問題なかったと聞いているが……」
惚けている様子はなく、思い当たる節が無さそうにテーブルに視線を落とす。だが、次の祐毅の話で、仁田の表情は大きく変わる。
「身体的な病ではなく、直近の話でもありません。そうですね……10年以上、いや、もっと前からかもしれません」
テーブルを見つめる目は徐々に大きく見開き、ハッと小さく息を吸い込んで呼吸が止まる。その様子を祐毅はじっと見ていた。
「何か知ってるんですね?話していただけませんか?」
顔を上げた仁田は、穏やかな目をした祐毅と目が合うと、いや、と左右に首を振る。
「私から話せることは、何もない……」
何も、と消え入る声で呟く仁田。また視線を落とし、今度はテーブルではなく、強く組んだ己の手を凝視する。
その光景に、小さくため息をつく祐毅。椅子の背もたれに体重を預けると、一段声のトーンを下げて話を続ける。
「理事長は、買春しています。しかも、病院の緊急避妊薬を不正に入手・使用して」
仁田は口をギュッと結び、苦悶の表情を浮かべる。爪が食い込むほどの力で手を握りしめて震わせる様子は、怒りの様相にも見えた。
「薬の不正入手は10年ほど前からです。もっと昔に、仁田先生は何かを相談を受けていたんじゃありませんか?」
急に体勢を前のめりにすると、俯く仁田を覗き込むように首を曲げる祐毅。仁田が彼を見ることはなく、その瞳は絶えず左右を行き来していた。そんな仁田を見て祐毅は、大きく息を吸い込んだ。
「友人であるあなたが、彼の身勝手な行動を見逃すんですか?」
「私はっ!」
反論しようと顔を上げた仁田だが、紡ぐ言葉に迷いが生じたのか、口を噤む。
「病名の察しはついています。僕はこれ以上、あの人の横暴を見過ごせません。誰かが止めないと、不幸な人間がどんどん増えてしまう。僕達家族のように……」
情熱と哀愁が籠った祐毅の言葉。その言葉の意味を瞬時に理解した仁田は、はっと息を呑む。視線を落とす仁田と、彼を見つめる祐毅。双方口を閉ざし、重い空気が流れる中、すぅっと一呼吸する音が突然耳に入ってくる。
「20年以上前だ。検査してほしいと訪ねてきて……だが、廻神は結果を受け入れなかった。自分が病気なはずがない、治療など必要ないと言い張ってね。何度か説得は試みたんだ。しかし、私の話など聞こうともせず、問題ないの一点張りで……」
仁田は頭を抱え、整った髪をぐしゃっと握りしめる。
「私が!私が諦めずに説得していれば……あいつはこんなことをしなかったかもしれない……」
拳をドンっとテーブルに叩きつけ、歯を食いしばる仁田は、激しく後悔していた。崇志が病気とわかっていたのに治療に導けなかった、医者としての未練。罪を犯す前に止められなかった、友としての無念。どれだけ悔いても、もう手遅れであるとわかっていながら。
祐毅は、そっと仁田の拳に手を被せる。
「仁田先生は、何も悪くありません。あなたは医者として、友人として、務めを果たそうとした。悪いのは、現実を受け入れなかった理事長です。自分は病気なのだと真摯に受け止め、治療を受けていたら、こんなことにはならなかった」
撫でるような優しい声で宥める祐毅。その声に誘われて顔を上げた仁田は、赦しを乞うような目を祐毅に向ける。
「あの人はただただ私欲を満たすために生きてきました。地位や名誉、金に女を手に入れるためなら、家族も他人もどうなろうと構わない。その思想は異常で、まるで肉を貪る獣です」
祐毅は力強い目を仁田に向ける。その瞳が何を言わんとしているのか、読み取れない仁田は次の言葉をただ待つしかなかった。
「更なる被害者を出さないためにも、僕が父の横暴を止めます。理事長という立場を使って周りを従え、身を案じてくれた友の言葉ですら無碍にする。もう、あの人に抗言できるのは、息子である僕しかいないんです。ただ、僕一人だけが声を上げても、周囲の人間は権力に逆らえず、有耶無耶にされてしまう。そこで、仁田先生のお力を貸してほしいんです。友人として、一緒に父を止めてください」
祐毅は、仁田の情に訴えかけた。専門が精神科であり、進言を断られても友人として付き合い続けている彼なら、困っている友人の息子、そして、病に侵されている友人を放っておかないだろうと読んだ。
「僕なら、歯向かって、どんな仕打ちを受けても構いません。失うものなど何もありませんから。もし僕に味方して、先生の立場が危うくなったら、すぐに立場を翻してください」
協力を求め、しかし身を案じて逃げ道も提示する。祐毅の演説は、最後に微笑みを添えて終了した。仁田の拳に添えた手を回収し、テーブルの上で指を組むと、仁田の回答を待つ。
「私は、何をしたらいい?」
回答は案外すぐに返って来る。仁田の目には、まだ迷いが浮かんでいたが、低音の効いた声からは、友を止めようとする覚悟が伺えた。
「次の理事会で、僕が問題提起します。病気ではないかと投げかけるので、そこで病名を仰っていただければ。後は状況を見て、僕を援護するか、理事長側に回るか、判断は任せます」
「祐毅君がそこまで覚悟を決めているんだ。私も君と共に廻神を止めるよ」
息子のような歳の祐毅が、自身の立場を捨ててでも理事長であり実父である崇志を止めようとしている。その状況で、部下のメンタルケアまで行うほど仕事熱心で情に厚い仁田が、友人とその息子を差し置いて自己保身を選択するわけがなかった。
「ありがとうございます。仁田先生が味方になってくれるなら、僕も心強いです」
にっこりと笑みを浮かべ、テーブルに額がつくほど頭を下げる祐毅。一緒に頑張ろうと、仁田が優しく肩を叩く。
では次の理事会で、と二人は頷き合い、祐毅はカウンセリングルームを後にした。
大股で数歩歩くと、最寄りのトイレへと飛び込む。勢いそのままに個室へ入ると、便座の蓋を開けて倒れ込むように跪いた。
「うぉえ……はぁ……うっ、うぇっ……」
便座に顔を突っ込み、嘔吐する祐毅。暫く経って吐き気が落ち着くと、トイレットペーパーで口を拭う。そして、彼はなぜか不敵に笑った。
「まるで、僕の全てがあいつを拒絶しているみたいだ」
6年前、レイラに言い放った「あの人が嫌い」という言葉。長きにわたって祐毅は、崇志を嫌悪の対象として見てきた。この影響は心だけでなく、体にまで及んでいたらしい。崇志に似ていると言われ、父親だろうと言われ、挙句説得のためとはいえ自ら父と口にした。数日のうちに伸し掛かった精神的負荷が、遂に溢れ出た瞬間だった。
洗面台で口を濯ぎ、顔を洗い、水が滴る顔を鏡で見つめる。
「まだだ。あいつの悪事を全て晒さないと」
ハンカチで顔を拭き、フッと短く息を吐くと、鏡に向かって笑顔を作る。スマートフォンで短いメッセージを誰かに送信すると、祐毅は午後の診療へと急いだ。




