第20話
沼辺と会ってから一週間後の夜。祐毅は、ある診療科の医局を訪れていた。普段は訪れることのない医局は、夜勤の医者しかいないためか、ところどころ薄暗くて静か。
祐毅は、出入り口から明かりが落ちる場所を見つめ、天井からぶら下がった科名を確認する。目当ての科を見つけると、ゆっくりと歩を進めながら、机に設置されているネームプレートを一つ一つ注視し、ある人物を探す。
いた、と心で思っても焦らずに静かに近づき、真横まで来てようやく音を発する。
「卯野木先生、ですよね?お疲れ様です」
突然話しかけられた男は、肩の震えと同時に祐毅に顔を向ける。大きな真ん丸い目と視線が合った祐毅は、表情のテンプレートである微笑みを見せる。
「初めまして。総合診療科の廻神です」
「え、廻神……あぁ、理事長の……どうも」
忽然と現れた男の正体がわかったことに安心したのか、卯野木は会釈をして椅子を祐毅に向けて回転させる。真ん丸だった目も、彼の本来の目なのだろう、一重の釣り目に変わっていた。
「お忙しいところすみませんが、お話がありまして。少々お時間いただけないでしょうか?」
自身の後方にある出入り口を親指で指し、首を少しだけ傾ける。祐毅の丁寧な言葉遣いに、疑念を抱かなかったのだろう。スッと立ち上がって椅子を机に仕舞った卯野木は、先に出入り口に向かった祐毅の背を追った。
医局を出て、近くの休憩スペースに入ると、祐毅は卯野木に椅子を勧める。素直に卯野木が座ると、祐毅は彼の隣に腰を下ろす。それも、出入り口側の椅子に。
「で、なんすか?話って」
今まで関わりのなかった祐毅に声を掛けられ、思い当たる節がないのだろう。卯野木は首を傾げる。祐毅は、では早速と、手に持っていたクリアファイルから書類を取り出す。
「先生がご担当された患者さんのことで聞きたいのですが」
卯野木に内容が見えないように書類を手に持つと、それを見ながら話を続けた。
「佐藤春子さんって、覚えてますか?」
その名を聞いた瞬間、一瞬卯野木がフリーズしたように祐毅には見えた。しかし、卯野木は数秒と経たずに回答する。
「いやー、覚えてないっすね」
あははと茶色い短髪を掻きながら、すみませんと平謝り。惚けることは想定内である祐毅は、彼に調子を合わせた。
「そうですよね。だいぶ昔の患者さんですもんね」
同じくあははと笑いながら、卯野木の顔色を伺う。あまり記憶力は良くないんで、などと相変わらずヘラヘラと笑っていた。そんな彼を見ながら、祐毅は手元の書類をペラペラとめくる。
「じゃあ、鈴木夏子さんはご存じですよね?」
卯野木の笑いがピタリと止まる。二人の間に一瞬流れる静寂。質問した側は、ただただ答えを待った。
「あー、担当患者にいたかなぁ。ちゃんとは思い出せないっすね」
先程と同じように笑って答える。だが、引き攣った頬、ひくひくと震える唇。表情筋の動きを、祐毅は見逃さなかった。
「来週あたり来院されるんじゃないですか?毎月同じタイミングで受診されますよね?深夜に」
じりじりと言葉で追い詰める祐毅。彼が何かに気づいていると察したであろう卯野木は、ここから少し態度を変える。
「どうでしょうね。てか、なんでうちの患者さんのこと、そんなに気にされるんですか?質問されても守秘義務があるので、何も答えられませんよ?」
もっともな質問であり、正論。これは、これ以上付け入るなという、彼なりの牽制なのだろう。しかし、祐毅にはそんなことなどお構いなし。
「心配なんですよ。毎月来院されて、あの薬を処方されてるなんて。卯野木先生はきちんとご指導されてますか?指導したうえで毎月来院されているとなると、患者のパートナーの方にも指導するか、場合によっては警察に……」
「あんたに関係ないでしょ!」
声を荒げ、祐毅の話を遮る卯野木。額には汗が滲み、手は僅かに震えていた。彼は祐毅を睨みつけると、急に立ち上がる。
「もういいでしょ。勝手にうちの患者のこと、調べないでください。失礼します」
休憩スペースから去ろうとする卯野木。だが祐毅は、目の前を通り過ぎようとする彼の手首をグッと握る。振り解こうと卯野木は手を激しく振るが、祐毅の力の方が強く、手首はびくともしなかった。
「先生がきちんとご指導されても毎月来院されるのなら、DVの可能性も考えられる。我々は患者に寄り添い、患者を守る義務があります。これが事実なら、ですが」
ただぼうっと前方に目線を向け、落ち着いた声で話す。最後の言葉だけ強調して話すと、静かに立ち上がった。
「守るべき患者は、存在しませんもんね。先程仰られていた守秘義務は、実在しない患者との間にも発生するんですか?」
卯野木を見下ろす鋭い眼光、大きな口が不気味に笑う。その顔に、卯野木は小さく後ずさる。
「あんた……なんでそれを……」
「興信所を使って調べました。二人共、架空の患者ですよね?日本で多い苗字と季節の組み合わせなんて、ずいぶんと安直な。いや、ありふれていそうだから、逆にいいのか」
沼辺のもとを訪れたあの日、祐毅は興信所に人探しを依頼した。姿を見せない患者が、架空の患者であると明らかにするために。案の定、興信所からは見つからなかったと報告された。祐毅の手元にある書類は、その報告書とカルテである。
「架空の患者に処方箋を書いて、薬を理事長に渡してるんでしょう?」
怯えた目で祐毅を見上げる卯野木は、遂に観念したのか、肩を落とすとそのまま項垂れ、へなへなと近くの椅子に座り込んだ。萎れた花のような卯野木の手を放すことなく、祐毅は彼の隣に座り、話を続けた。
「正直に話してもらえれば、あなたのことは咎めません。僕が断罪したいのは、理事長だけです」
祐毅の言葉の意味が分からなかったのか、ぽかっと口を開いて卯野木は彼に顔を向ける。その様子を見て、逃走の意思はもうないと判断したのか、祐毅は手を離した。
「な、なんでだよ。理事長はあんたの親父だろ?」
卯野木が不思議がるのも無理はない。家族を罪に問いたい人間など、そうそういない。だが、祐毅からすれば平穏で良好な関係を築けている家族の方が珍しい。
祐毅は目を細め、卯野木から目を逸らす。綺麗に磨かれた床を見ながら、静かに口を開いた。
「あの人の行いは、人として、そして医者として、到底見過ごせるものではありません。恐らく、病院関係者は誰も理事長に楯突く事なんてできない。僕がやるしかないんです」
とうとうと語る祐毅の表情は、どこか無機質だった。そんな彼を見ていた卯野木は、どすっと背もたれに体を預け、天を見上げる。
「俺には、そんな覚悟無かった……俺、実家が開業医でさ。いずれお前に継がせるから良い病院で経験積んで来いって家を出されたんだ。けど、俺あんまり頭良くなくて、三流の大学しか入れなかった。就職も大学病院なんて無理で。でも、叔父さんが理事長に口聞いてくれて、ここに入れたんだよ。そしたら、親にバラされたくなかったら偽の処方箋書けって言われて……」
「武蔵先生は叔父だったんですか」
話の途中で、祐毅の口から言葉が漏れる。ずっと気になっていた、卯野木と武蔵の繋がりがわかったからだ。彼も少なからず血縁という呪縛に振り回されていた。
祐毅の呟きに驚いた顔をした卯野木だが、なぜか豪快に笑い始める。
「なんだよ、そこまでバレてんの?そう、あの人は俺の母親の弟。あんま知られたくなかったんだけどなー、女好きでいい噂ねぇじゃん?」
「毎週クラブに通ってますもんね、あのセクハラじじい……」
「そんなことまで知ってんの?怖っ。でも、ほんと困ったじじいなんだよ」
その後は暫く、卯野木の苦労話が続く。武蔵に銀座ディオサに連れて行かれた話、店に通っていないのかと問い詰められる話など、祐毅とは違う意味で血縁に困らされていた。
一通り愚痴り終えて心が落ち着いたのか、卯野木は深く一息吐くと話を戻す。
「俺は4年前から、偽の処方箋を書いて叔父さんに渡してた。俺がやってるのはそれだけだ。叔父さんがどう理事長に渡して、どう使われてるのかは聞いてない。いや、聞かなくても大体想像はつくか」
卯野木は両脚をくっつけて祐毅に体を向けると、膝の上で拳を握り、頭を下げた。
「すまなかった。脅されてたにしても、もう止めたい、こんなこと止めようって声を上げるべきだった。不正に加担した罰は俺も受けるよ」
素直に反省の色を示す卯野木。憐れみの目で見下ろす祐毅は、彼の肩にポンと手を置く。
「皆が、あなたのように素直に反省してくれればいいんですけどね」
卯野木はゆっくりと頭を上げる。赦しを求めるその顔を見て、祐毅は言葉を続ける。
「では罰として、僕に協力してください」
「へ?」
祐毅の言葉は想定外だったのか、卯野木は間の抜けた声を発する。頭の上にクエスチョンマークが浮いている卯野木に、祐毅は協力内容を明示した。
「偽の処方箋を書いてください。今回は僕がそれを武蔵先生のところに持っていって、彼を問い詰めます」
神妙な面持ちで祐毅の話を聞く卯野木。
「そんな簡単に、白状するか?あの人、理事長の腰巾着だろ?」
「白状させるんですよ。武蔵先生はネタの宝庫です。僕が探した人物は、架空の患者だけではありませんから」
皆まで言わずとも、祐毅がどう武蔵に白状させるのか理解した卯野木は、怖っと呟く。あぁそれと、と祐毅は満面の笑みで話を続ける。
「僕のことを”理事長の息子”と、二度と言わないでください。僕にも名前はありますので」
卯野木は、「理事長の」までしか言っていない。だが、言葉が続いていたら絶対「息子」と言っていただろうと、祐毅から圧力が放たれた。
「はい……すみませんでした」
この祐毅が一番怖かったらしい。卯野木は肩をすくめ、目線を大きく下げて謝罪を口にした。そんな卯野木に、処方箋ができたら連絡を、と言い残し、祐毅は休憩スペースを出る。腹の真ん中を摩りながら、点々と暗闇が落ちる廊下を歩いて帰った。




