第16話
崇志の最後の尾行を終えてから数日後。
「総合診療科、廻神先生。1階、総合受付までお越しください」
正午を迎えた院内に響く放送。午前の診療を終えた祐毅は、足早に指定場所へ向かっていた。呼び出された心当たりを探しながら、貴重な昼休みを少しでも長く確保したいと、走りと判断されないギリギリのスピードで脚を動かす。
総合受付が見える位置まで来ると、呼び出した張本人をすぐに発見し、無自覚に小走りで近づいた。
「どうされたんですか?どこか怪我でもされましたか?」
祐毅の声に反応して振り向いた人物は、長い金髪を靡かせながら笑顔を向ける。
「祐毅君。忙しいのにごめんね」
彼を呼び出したのはレイラ。二人が明るい時間に会うのは初めてである。なぜか互いの容姿をまじまじと眺める時間が設けられた。祐毅はスリーピーススーツのジャケットを白衣に置き換えた服装。レイラはノースリーブのブラウスにミニスカート、そしてヒールの高いパンプス。
「白衣って素敵ね。お医者さんって感じ」
「医者です、紛れもなく。あなたこそ、どこかの失敗しない女医かと思いましたよ」
「ちょっと何を言ってるのかわからないけど、こういう格好をする知り合いがいるの?」
首を傾げるレイラを見て、雑談をしている場合ではないと我に返る祐毅。総合受付を横目で見ると、こちらに目線が集中していた。
「場所を変えましょうか」
脳内のフロアガイドで休憩スペースを探し、その方向にレイラを誘導する。彼女が受付担当に礼を告げると、祐毅も軽く会釈をし、早足にその場を去った。
「で、なぜ病院に?体調不良なら午後の診察に並んでもらえれば診ますが?」
自動販売機と椅子がいくつか並んでいる休憩スペース。午前中に受診を終えたであろう患者が座って飲食をする中、祐毅は壁際に陣取ると話を急ぐ。
「体調は悪くないわよ。祐毅君、お昼食べた?」
「いえ、まだですが」
体調不良でもないのにレイラが病院に来た理由。それは、彼女が手に持つ紙袋に入っていた。
「良かった。これね、お弁当作ってきたの。祐毅君に食べてもらいたくて」
「え?」
レイラが紙袋に手を入れると、中から長方形に膨らんだアッシュ色の巾着袋が姿を見せた。
「色々調べて作ったんだけど、食べられない物とか苦手な物があったら教えて?」
巾着袋を紙袋の中に戻すと、ずいっと祐毅の目の前に紙袋を突き出す。だが、向こう側から手が伸びてくることはなく、その手は代わりに頭を掻き始める。
「どうして僕に弁当を?というか、病院まで来られると困るんですが……」
レイラの行動理由が読めず、浮かない顔をする祐毅。表向きは客とホステスという立場であるため、外で接することは控えたいと考えていたが、レイラはそうではないらしい。
「支えるって言ったでしょ?前アフターに行った時、疲れて寝てたから、少しでも栄養つけてもらおうと思って。お口に合うといいんだけど」
支える、確かにそう言っていた。この言葉の認識は、双方違っていたのだと、顔を見つめ合わせた時に気づく。
「支えるって、そういう意味だったんですか?」
「そうよ?長い付き合いになるんだし、健康管理とか、サポート出来ることは何でもするから言ってね」
祐毅は困った顔を、レイラは溌剌とした顔を突き合わせる。表情から互いの感情を悟ると、祐毅はさらに眉間の皺を深め、レイラは目を見開く。
「あら?ダメだった?もしかして、彼女にバレたら不味いとか?」
「いや、恋人はいませんが……すみません、極力病院には来ないでいただけますか?取引のことがバレると不味いですし、何より僕がホステスと知り合いというイメージを持たれるのがちょっと……」
祐毅の感情を感知することはできたが、その理由までは察知できなかったレイラ。外れた予想を訂正する小声が、より不味さを演出する。
「もう。そんな事気にしてたら、いつまでたっても計画なんて達成できないわよ?それに……」
「あれー?レイラちゃんじゃない?」
突然、第三者の大きな声がレイラの名を呼ぶ。二人が目線をそちらに向けると、離れたところにいる白衣の男二人がこちらを見ていた。そのうち、眼鏡をかけたぽっちゃり体系の男は、レイラの顔を見るなり、やっぱり、と明るい声を上げ、こちらに近寄ってきた。
「ほら。早く受け取らないと、あなただってバレるわよ?」
レイラは、祐毅の盾になるように立ち位置を変えると、紙袋を彼の胸に押し付ける。近寄ってくる男をレイラ越しに見て距離を測ると、渋い顔をして紙袋の底に手を添えた。
「洗わなくていいからね。また明日同じ時間に来るから、ここで待ってて。じゃあね!」
「え?ちょっと!また明日って……」
祐毅の戸惑いに聞く耳を持たず、レイラは白衣の男のもとへ向かっていった。その背を見ながら立ち尽くす祐毅だが、彼女が立ち止まるとハッと我に返り、手近な壁から顔半分だけ覗かせる。
「病院で会うのは初めてだね。どうしたの?どっか悪いところでもあった?」
「武蔵センセ、こんにちは!ううん、全然問題ないって。それより、次はいつお店に来てくださるの?」
親しげに会話する二人。もう一人の白衣の男が武蔵の後ろに合流すると、三人でぞろぞろと病院を出て行った。
壁に隠れる必要が無くなった祐毅。だが、そのまま医局へ戻って休憩、とはいかなかった。
紙袋を持ち上げ、どんよりとした目つきで見つめる。一体どうしたらいいのかと、目で独り言を言いながら、暫しその場に立ち尽くす。
食べ物を粗末にするのは良くない。だが、彼の体質上、口にする物には注意を払わなければならない。しかし、宣言通り明日来たら、感想を求められるやも。礼儀作法、健康管理、人生経験などなど。弁当一つ食すかどうかの判断に、あらゆる要素を篩にかけること30秒。祐毅は、直ぐ側の空いている椅子に腰を下ろすと、紙袋から巾着袋を取り出す。膝の上に乗せて袋の口を広げると、ゴムバンドを外して蓋を開けた。
弁当箱は2段に分かれており、1段目におかず類、2段目にご飯。箸を手に持つと、まずは卵焼きに手を伸ばした。二切れの内、一切れを半分に切り、中を確認する。そのまま口に運ぶのかと思いきや、元の場所に戻し、次は煮物に箸を伸ばす。煮物は、具を一つ持ち上げると、弁当箱を少しだけ傾けた。煮物が入っているおかずカップをじっと見つめ、暫くすると箸で持ち上げていた煮物を戻す。こうして、弁当を隈なく検品すると、ふうっと短く息を吐き、両手を合わせた。
「いただきます」
改めて、最初に箸を伸ばしたのは、ほうれん草の胡麻和え。一口分掴み取り、少々躊躇いを見せながらも口に運ぶ。
「うん……まぁ」
口からは間の抜けた言葉が出たが、弁当箱が空になるまで、彼の箸が止まることはなかった。
翌日、レイラは宣言通りに休憩スペースで待っていた。彼女を見つけると、祐毅は流れるように休憩スペースに入っていく。
「ご馳走様でした。美味しかったです。でも、今日で終わりにしてください」
自分の言いたいことを矢継ぎ早に伝え、持っている紙袋をレイラに押し付ける。
「どうして?あ、昨日言い忘れちゃったんだけど、電子レンジで温めてから食べてね。その方が美味しいと思うの」
祐毅の話を易々と受け入れる女ではない。彼女も自分の言いたいことを言い、持っている紙袋を祐毅に押し付ける。押し付けられている紙袋は受け取らずに。
「昨日も言いましたが、取引の内容が知られては不味いんです。それに、ホステスと知り合いと思われるのも良くない。実際、昨日の午後から火消しに苦労してるんです。ホステスの彼女がいるだなんだと、あらぬ噂を立てる奴がいて……理事長に連れていかれたクラブの女の子が、忘れ物を届けてくれただけだと言い張っていますが……」
焦燥を顔に出し、頭を抱える祐毅。火消しに乗じ、理事長がクラブに行っているとの情報を広めるあたりはしたたかだが、全方位に気を遣えるほど完全な人間ではない。
「じゃあ、私がしてることって迷惑?」
先程よりも低いレイラの声に、祐毅は手を頭から離す。ゆっくりと視線を向けたその先には、鋭い眼光。咄嗟に彼女の感情を察すると、焦りながらも適切にフォローを入れる。
「弁当は美味しかったです。久々に誰かの手料理を食べて、心が穏やかになりました。ただ、サポートの仕方が適さなかっただけで、他の手段があると思うんです。弁当を作る以外のサポートの仕方が」
自身のイメージダウンにならず、かつサポートしたいという彼女の意志を尊重した発言。だが、明確な手段までは思いつかず、解決の糸口にはたどり着かない、ただの意見になってしまった。当然、レイラの顔色は良くならない。
「わかった。もういい」
急に祐毅が手に持つ紙袋を引っ手繰ったかと思うと、自分が持っていた紙袋を彼の胸に押し付けるレイラ。勢いに気圧され、紙袋の底に両手を添えると、彼女はさっさと立ち去ってしまった。
怒らせたままだと不味い。そう判断した祐毅は後を追おうと振り返る。だが、彼は脚を前に踏み出せなかった。
「あら?レイラちゃん?久しぶりー。病院で会うなんて初めてだね」
昨日とはまた別な医者が、レイラを見つけて駆け寄ってきていたからだ。昨日同様、反射的に壁に身を隠す祐毅は、こっそりと様子を伺う。
数秒前に祐毅が見た表情はさっぱりと消え、レイラは笑顔だった。陽気に男と話しながら、自動ドアから差し込む光の中へと消えていく。
レイラの笑顔に安堵と不安を混じらせながら、祐毅は近くの椅子に腰かけた。紙袋を膝の上に乗せると、ワックスで光るオフホワイトの床に視線を落とす。
サポートは不要、そう明言しなかっただけでも気を遣った方だ。取引内容が周りにバレると不味いのだから、ホステスと客という関係から逸脱するような行動は避けるべきだろう。そのくらい、彼女だってわかるはずだ。なのになぜ、不服そうな顔をした?
もう一つ、彼女と知り合いの病院関係者が多くないか?最低でも二人は店に通っているということになる。理事長の息のかかった店だから、金づるに使われている人が多いのだろうか。
などと思考を巡らせるが、その場で答えは見つからない。昼休みのうちにやりたいことが食事以外にもある祐毅は、紙袋からネイビーの巾着袋を取り出した。膝の上で広げ、弁当箱を開く。昨日とは異なるラインアップを見つめ、今日は数品だけ検品をすると、口に入れ始めた。
「ちゃんと謝って、話をしないとな」
だが、翌日、翌々日と、同時刻に休憩スペースで待っていてもレイラは来なかった。5分、10分と、正面玄関の人の往来を見続けても、金髪の女性は通らない。それも当然。彼女は、また来るとは言っていない。それどころか、もういい、と弁当と共に怒りを押し付けてきたのだから、来るはずなど無かった。誰でもわかる結果にたどり着いた祐毅は、紙袋を見つめる。
「どうするよ、これ……」




