第15話
取引を交わして2カ月。その間、崇志が銀座ディオサに来店したのは4回。崇志は月に2度のペースで店を訪れ、その度にサキとアフターに行っていた。祐毅とレイラが尾行出来たのは2回で、行く先は決まって同じホテル。
当然、会話を盗聴するために祐毅達もホテルに入る。盗聴に集中したい祐毅だが、初めてレイラとホテルに入った時を思い出し、頭を抱えていた。毎度あのような奇行をされては堪らない。簡易的かつ効果的な策を探した祐毅は、百円均一で手に入る物でできる対策を見つける。
2度目のホテル、それを片手にレイラに脅しをかけると、彼女はジト目を祐毅に向けながら布団に潜っていった。おかげでホテル内での会話を終始盗聴することができた祐毅。そして、また新たな悩みを抱える。
3度目のアフターで、その悩みを解消する策はすぐに講じられた。
「今日も結束バンド、持ってきてるの?」
「もちろんです。僕の邪魔をしたら後ろ手に親指を縛りますので、そのつもりで」
祐毅の手には半透明色の結束バンド。レイラはそれを睨みつけながら、頬を膨らませる。
「ほんと、私って信用ないのね」
「数回会った程度で信用するほど、お人好しではありません。まぁ、この結束バンドは使わずに終わりそうですけどね。今日で尾行は最後にするので」
「え?待って、どういうこと?」
突然の話に、驚きと動揺を露わにするレイラ。片耳で盗聴音声を聞きながらソファーで寛ぐ祐毅に詰め寄ると、彼はわざわざ立ち上がって説明を始める。
「前回の盗聴、二人はほとんど言葉を交わしていません。何かの授受をしていると思われる会話はあったものの、それが何かは明確に言葉にしていない。つまり、事前に示し合わせているんです。一定の金額か、希望された物をね。加えて、盗聴はノイズが入って聴こえにくい時がある。音質の確認は必要ですが、今回からボイスレコーダーをあの人の鞄に仕込みました。音に反応して自動で録音を開始する仕様なので、ホテル以外での会話も録音できる。弱みを握るチャンスが増えるんです。オマケにあなたを監視する必要も無くなる。もっと早く準備すべきでした」
二人の必要最小限の会話から、祐毅なりの推論を立てた末に講じた次の一手。崇志を邪魔と思う彼の本気が垣間見える行動に、従うしかないレイラなのだが、すぐには頷かなかった。
「じゃあ、私は用済みってこと?ホテル以外にも、今後どこかに行く可能性だってあるじゃない。その時、私がいた方が怪しまれないでしょう?」
「用済みではありません。あなたにはあなたの仕事がある。二人が何を授受しているのかは、あの二人しか知りません。当事者の証言は確実に必要です。それに、店でしか見せないあの人の顔もあるでしょう。声や言葉だけでは把握できないあの人の本性を、あなたに見極めてもらいたい」
祐毅はしっかりとレイラを見据え、彼女の肩に両手を置く。
「僕にはできない、レイラさんにしかできない仕事です。簡単な仕事ではありませんが、あなたを信じて任せます」
“信じる“その言葉はレイラが彼の口から聞きたいと望んでいた言葉の一つ。祐毅から隠すように俯いた顔は、乙女のような笑顔をしていた。胸の前で拳を握り、しかしそれが見えないように空いている手で包み隠す。
間を取って顔を上げたレイラは、一転して挑発的な目で祐毅を睨む。
「私は信用ないんじゃなかったかしら?」
そう簡単に信用しない、それは寸刻前の祐毅が話していた言葉。彼女もまた、そう簡単に言葉を信じる人ではなかった。
「取引に関係する内容については、概ね信用します。あの店が絡むことは、あなたは頼るしかない。それに、あなたが手にするのは大金だ。対価を与え続けている間は、僕を裏切ることはないでしょう。加えて、自分を利用しろと自ら提案するほど、自分に自信があるんでしょう?あなたの才能を僕に見せてほしい」
挑発には挑発を。傲慢な発言だが、取引上の立場は祐毅が優位。ムッとするレイラも、己の立場は理解していた。
「わかってるわよ。近いうち、私に土下座で感謝する日が来るから、練習して待ってなさい」
プイっと顔を背けると、肩に乗った手を振り払う。寝るわと告げ、足早にベッドへと去っていった。クスクス笑いながら、はい、と返事をする祐毅も、再びソファーに腰を下ろす。外れたイヤホンを再度耳に入れると、柔らかな背もたれに体を預けた。
何も見えない、真っ暗な視界。金策に走る祐毅は、日頃の疲労からか、いつの間にかうたた寝をしていた。徐々に体が取り戻していく五感。イヤホンから聞こえるのはノイズ音。ボイスレコーダーで録音していると安心してしまったことも、うたた寝の理由の一つ。その他に感じたのは触覚。首元から胸元にかけて、何かが動く感触と肌寒さを感じた祐毅は薄っすら目を開ける。
胸元に伸びる腕、艶やかなコーラルピンクの唇。その二つを視界に捉えた瞬間、祐毅は一気に目を開く。
「やめろっ!」
「キャッ!」
視界に捉えた腕を、力の限り握りしめる祐毅。突然腕を掴まれて悲鳴を上げたのは、レイラだった。痛みに顔を歪める彼女は、自らの腕を握る祐毅の腕を更に握る。
「痛い!ちょっ……離して……」
頼んでも、なかなか離れない腕。なぜ離さないのかとレイラが祐毅の顔を見ると、その表情に思わず息を呑んだ。
真っ青な顔色で苦悶の表情を浮かべる祐毅。呼吸を乱し、瞳は揺れ、手も震えていた。
彼が正気ではないと察したレイラは、握っていた彼の腕を擦る。
「祐毅君?大丈夫?落ち着いて」
痛みを我慢し、温めるように優しく腕を擦り続けると、ようやく祐毅の視線がレイラを捉えた。
「えっ……あ、すみません!大丈夫ですか?」
自分の行動に驚いたのか、慌ててレイラの腕を離す。そして、優しく腕を持ち直すと、医者らしく腕の状態を診察する。
レイラの腕には、赤く跡がついており、それを見て祐毅は顔を顰めた。
「痣にはならないと思いますが、念のため冷やしましょう」
イヤホンと受信機を近くのテーブルに置くと、立ち上がって浴室に向かった。その背中を見届けたレイラは、なぜか逆方向へ歩き出す。
祐毅が部屋に戻ってくると、レイラはソファーの傍に立って待っていた。
「ソファーに座ってください。腕を冷やしましょう」
「祐毅君、これ飲んで?」
祐毅は水で濡らしたハンカチを、レイラはペットボトルの水を、それぞれ手に持って向かい合う。祐毅は少し驚いた表情を見せたが、すぐにいつもの微笑みを取り戻す。
「ありがとうございます。さぁ、座ってください」
水を受け取ると、再びレイラにソファーに座るように促す。誘導に従ってレイラが腰かけると、祐毅はテーブルに水を置き、彼女の前に片膝をついた。そっと彼女の腕を取り上げると、濡らしたハンカチで赤い手形を覆う。
「すみませんでした、強く掴んでしまって。痛かったですよね」
ハンカチを見つめる祐毅の目は伏し目がち。その様子を見れば、反省していることは明らかだった。
「私の方こそ、ごめんなさい。眠っていたから、苦しくないかなと思って襟元を緩めていたの。驚くのも当然よね」
苦笑いするレイラ。祐毅は首を横に振り、あなたは悪くないと態度で返す。双方謝罪し、赦し合ったのだが、相変わらず祐毅は目を伏せたまま。そんな彼を案ずるように見つめるレイラは、突然前のめりになり、祐毅のある一点を凝視する。
「祐毅君。それ、どうしたの?」
顔を上げた祐毅は、レイラが何を言わんとしているのかわからず、首を傾ける。だが、レイラが自らの胸元に指を当てると、途端にワイシャツとネクタイを握って胸元を隠した。
「それって、傷跡?」
気になったことは聞きたい性分。祐毅の緩んだ襟元から見えた、胸の中央を通る白い線に、彼女の興味が向いた。
祐毅は小さくため息をつくと、片手でボタンを締めようと藻掻く。
「そうですよ。気持ち悪いでしょ?見ないでくだ……」
「そんなことない。気持ち悪くなんてないわ」
レイラは空いている手で、ボタンを締めようとする祐毅を止める。なぜ彼女がそんなことをするのか、理解できずに動きが止まる祐毅。彼の手をゆっくりと降ろすと、レイラは恐る恐る彼の胸元へと手を伸ばす。
「どの辺まであるの?」
「え?あぁ、この辺りまで」
「ずいぶん大きいのね。手術したの?」
「はい……子供の頃に」
余りにレイラの行動が不可解で思考が止まってしまった祐毅は、自分でも気づかぬうちに、従順に回答していた。まだ呆然とする祐毅の傷跡にそっと手を置き、レイラは柔らかく微笑む。
「頑張って生きてきたのね」
レイラのその一言で、祐毅は記憶の中を彷徨い始めた。この2か月の間に交わしたレイラとの会話、そのどれよりも優しい言葉。そして、過去を振り返っても、この傷跡にかけられた言葉にこれほど温かいものは見つけられない。どうして彼女から、こんな言葉が出てくるのだろうと。
「傷跡、見慣れているんですか?」
「いえ、初めて見るわ。子供の頃のものでも、跡は残ってしまうのね」
「赤く跡が残る場合もあるので、これはまだマシな方です」
レイラが傷跡を指でなぞる。その仕草に、もう祐毅は嫌悪や怖れを抱かなかった。それ以上に不思議な感情が芽生え、自分でも無意識に口を開く。
「僕は……」
彼が語りだしたのは昔話。まるで誰かの伝記を音読するように、抑揚のない声で自らの過去を語る。手術をした背景、実父を嫌う理由、そして彼の計画。表情もなく、視線もただ目の前に向けるだけで、何を見ているわけでもない。その状態は話が終わると同時に解除された。
顔を上げ、レイラの顔を見ると、穏やかに笑う。
「どうして泣いてるんですか?」
目線を斜め下、祐毅に向けながら、ポロポロと涙を零すレイラ。悲しみに浸る瞳だが、口元は悔しそうに歯を食いしばっていた。
「私……何にも知らなくて……たくさん失礼なことを言ったわ」
祐毅はクスクスと笑いながら、立ち上がってその場を離れる。すぐに戻ってくると、レイラの膝の上にティッシュ箱を乗せた。
「僕が何も話さなかっただけです。レイラさんは何も悪くない」
「でも……ううん、無神経だったわ。本当にごめんなさい」
ティッシュで溢れる雫を拭くが、片手では間に合わず、どんどん頬を伝う。祐毅は、空いた手にティッシュを持つと、トントンと優しい手つきで涙の跡をなぞる。レイラはそんな彼を潤んだ瞳で見つめた。
「どうして祐毅君は泣かないの?思い出すのも辛いんじゃないの?」
その問いに悩みはしたものの、祐毅はサッパリとした笑顔で返す。
「過去を思い出してこの胸に抱く感情は、あの頃を越えるものではありません。哀傷、憎悪、恥辱。子供には耐え難いほどの、様々な負の感情を味わいました。ですが、今はその感情が僕の原動力です。夢と呼ぶには私怨で穢れすぎ、野望と言うにはあまりに無謀な計画ですが、僕がやるべきことなのだと、過去が教えてくれます」
晴れやかな顔に、熱の籠もった瞳。自ら無謀と語ってはいたが、絶望を乗り越えて大人となった彼は、使命感に満ち溢れていた。
祐毅の計画とその背景をようやく知ったレイラ。いくら辛いと想像しても、どれ程の辛さだったかは、実際に経験した彼でなければわからない。しかしその経験者は、今目の前で他人事のように平然と話し、さらには笑みまで浮かべている。
レイラは深呼吸をすると、一気に涙を拭き取った。自分がいつまでも泣いていてはいけないと、赤い目以外は祐毅と同じ顔をする。
「私、絶対あなたの役に立つから。計画が達成できるように、ちゃんと支えるから」
濡れたティッシュを持つ祐毅の手を取り、真っ直ぐとした眼差しで彼を見つめる。
ずっと彼女に対して不思議な感情を抱いていた祐毅だが、彼女の瞳を見て、その感情の名を閃いた。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
祐毅は自らの感情に従い、感謝の言葉を告げた。レイラはその言葉を噛みしめるように、深く頷く。
晴朗な笑顔が向かい合う。双方が取引初日から抱いていた印象や感情は、この日を境に少しずつ変わり始める。




