第14話
数十分後。祐毅はソファーに座り、目を瞑っていた。
「あーあ。もう帰ってるじゃないですか」
全神経を集中させた耳がイヤホンから拾うのはノイズ音。それは、盗聴器が電波を受信できる範囲にいないことを指していた。ベッドでぐったりと横たわるレイラに嫌味たらしく、あーあと再度告げると、受信機を鞄の中へ片付ける。
「ちょ……ちょっと待ってよ……」
怠そうに顔を上げるレイラ。その表情は、疲れと恨めしさが混じっていた。
「酷いじゃない!思ってたのと全然違う!」
残る力を振り絞ってクレームを申し立てる。その訴えに、祐毅は振り返ってクスッと笑う。
「あんなに気持ちよさそうにしていたのに文句を言うなんて、あなたの方が酷いんじゃないですか?僕は抱くなんて一言も言ってないですよ」
嘲る祐毅を、グッと歯を食いしばって睨みつけるレイラ。体に布団を巻いて上半身を起こすと、クレームを続ける。
「あんな辱め、受けたことないわ!女のプライドを傷つけて!どこで覚えたのよ、あんなテクニック……」
怒りに任せて発言していたはずなのに、最後は負け惜しみのように語尾が消えていく。
「昔、色々実験したので。あなたみたいな痴女は他にもいるんです。彼女にはプライドなんてありませんでしたが」
「痴女って失礼ね!こっちには少しくらい純粋な気持ちが……」
余裕たっぷりに笑っていた祐毅から突然表情が無くなる。その冷やかな目つきに、レイラはビクッと体を震わせた。
「今日会ったばかりの男に抱けと強要する女が純粋?笑わせるな。女が良いなら男が誰でも抱くと思ってる、そんなくだらない考えを押し付けるな」
軽蔑の目でレイラを睨むと、彼女に背を向けてワイシャツの袖を降ろし始めた。帰り支度をし始めたと察したレイラは、怖気づきながらも強張った笑みでそれを隠す。
「ふふ……会った時とは随分態度が違うのね」
「人間には本音と建前があるでしょう。あなたには無さそうですが」
レイラの言う通り、最初は物腰柔らかだった祐毅は、今では当たりが強くなった。棘が生えたような言葉をもらったはずなのに、今度はレイラがくすりと笑う。
「じゃあ、私には本音を見せてくれたってこと?」
ワイシャツの袖を降ろし終えた祐毅の手が一瞬止まる。だが、すぐに動き始めた手でジャケットを拾いながら、言葉を返した。
「あのクソつまらない店で建前を使い過ぎたので、もう限界なんですよ。でも、もう二度とあの店には行かないので、こんな姿を見せるのは今日だけです」
長く息を吐き、肩から力を抜く。そして、息を大きく吸うとシャキッと背筋を伸ばした。そんな祐毅を見て、どこか寂し気な顔をするレイラは、再び質問を投げた。
「本音ついでに教えて。どうして盗聴なんてしたの?先生の弱みでも握りたかった?」
この質問にも祐毅は動きを止めた。この回答にはしばらく間ができ、それはまるで本音と建前のどちらで答えるかを悩んでいるようだった。
「あなたがその目的を知る意味はないでしょう」
これが祐毅の出した回答。まともに答える必要など無い。普通であれば盗聴する怪しい人間には関わりたくないと、目的など聞くはずがない。だが、そんな質問をしたレイラは、一風変わった考えの持ち主だった。
「ある!私なら協力してあげられるじゃない」
想定外の返しに、眉間に皴を寄せた状態でレイラの方に体を向ける祐毅。ここから、話の主導権は彼女が握っていく。
「ホテルは一人じゃ入れないでしょ?私ならいつでも付き添える。それに、理事長先生が店に来たら、あなたに連絡するわ。常にあの人の居場所を把握してるわけじゃないんでしょう?」
自分の有用性を提示していくレイラに、祐毅は頭を悩ませていく。
「あなたに何のメリットが?一緒にホテルに入っても、僕は絶対にあなたを抱きませんよ」
「それは今日痛いほどわかったわ。私だってあなたの手とばかり遊ぶのはごめんよ」
レイラを見つめ、その表情から感情が読み取れなかった祐毅は、首を傾げて理由を問う。
「また店に来て、私を指名してちょうだい」
レイラは微笑みを浮かべ、じっと祐毅を見つめる。その穏やかな眼差しには、挑発的な態度が見え隠れしていた。そう、彼女は取引を持ち掛けている。
「あははっ!いいですね、まさに営業だ。金が目的とは、とてもわかりやすい」
彼女の狙いを金だと読み取った祐毅は豪快に笑う。金が欲しいという、人としてごくありふれた彼女の欲望が、シンプルかつ滑稽に思えたからだ。
「金を集めて何がしたいんですか?ブランド物のバッグとか、欲しいものがあるならすぐにでも買いますが?」
取引における優位な立場と金銭的な余裕から、微笑みを浮かべる祐毅。そんな彼を同じような微笑みで迎え撃つレイラは、暫し間を開けてから自らの望みを伝える。
「店が欲しいわ。いつか独立したいの」
穏やかな声のトーン、揺らぎのない瞳、そして泰然とした態度。総合診療医として、心理学の知識を持つ祐毅の目には、これがレイラの一番の願いのように見えた。しかし、彼女は職業柄、本心を隠すことを容易くやってのけるかも知れない。そして、その可能性は彼の耳が感じ取っていた。
「いつかとは?何歳までにとか、何年後とか、明確な期限は決めていないんですか?」
「え?そうね……夢だと思ってたから、いつか叶えばとしか思っていなかったわ」
「ふぅん。まぁ、夢を持つことは大事ですね」
ふんわりとした回答を受け、祐毅はなぜかスマートフォンをポケットから取り出す。サクサクと何かを調べ、そして画面を見つめながらぶつぶつと呟く。画面とにらめっこをする祐毅の顔を、レイラが遠くから覗き込むこと2分。
「3年……3年以内に店を出しましょう。銀座に」
何をどう計算してその提案に至ったのかは、祐毅のみぞ知る。レイラは訳が分からず口をあんぐりと開けた。
「まっ……え?銀座に3年以内に店を出す?そんなの無理でしょ?」
「いえ、出させます。というか、出店よりも継続の方が問題でしょう。それに僕の計画をその分遅らせるんですから、銀座という一等地に迅速に出店してもらわないと割に合いません」
「なんか……私の要望ってあなたの計画を犠牲にするほどなの?」
徐々に顔色が悪くなるレイラに、祐毅はさらに重い言葉をかけていく。
「僕がしたいことにも金は要るんです。でも、この体で稼げる金には限界がある。僕の計画が達成されたらあなたは用無し、僕から金はもらえない。それでもいいんですか?」
取引を持ち掛けたのはレイラだったはずなのに、主導権は祐毅に奪い取られてしまった。顔に少し後悔を滲ませるも、レイラは目を瞑って深く頷く。
「わかったわ。3年以内に銀座に店を出す。私が得る対価はそれね。それで、私はスパイをやればいいの?」
「わかっていただけて良かったです。もう少し細かく決めましょうか」
そこから祐毅は、取引内容を丁寧に話し始めた。
まずはレイラにしてほしいことが提示される。崇志が来店した際の連絡やホテルへの付き添いの他に、来店頻度や同席した人物と会話の把握など、まさにスパイさながらの行動を求められる。その中でも一番難易度の高いものに、レイラは顔を曇らせた。
「ホテル内での会話を証言してもらうって、なかなか難しそうね。盗聴じゃ不足なの?」
「脅しには使えますが、物的証拠としては不十分かと。ホテルへ行った経緯、ホテル内での会話を当事者から聞きたい。出来れば録画させていただきたいですね」
目線を上に向け、しばらく黙るレイラは、何かを閃いたような顔をするとニヤニヤしながら祐毅を見る。
「なに?先生の癖とか知りたいの?」
レイラはあくまで冗談として話した。だが、冗談の内容が悪かった。祐毅は蔑むような目で睨み、大きな舌打ちをする。
「大事なのは行為中ではなく、その前後の会話です。売春や強要など、犯罪行為がないか知りたいんです」
祐毅がだいぶご立腹であると理解したレイラはすぐに謝った。もう触れてはいけない話題とわかってはいたが、彼女の性分ゆえ、ご立腹の根本を聞かずにはいらなかった。
「ねぇ。どうして先生のことをそんなに調べたいの?」
蔑みは通り越して呆れ顔を見せる祐毅。だが、何かを考え始め、落ち着いた顔をしてソファーに座った。
「邪魔、なんですよね、僕の計画の。それに、僕はあの人が嫌いなんです。いい父親なんかじゃない。あの人に似ていると言われるのが、一番腹が立つ」
腹が立つ。そう言う割に、語り口は単調で、声に覇気がない。遠い目をするその瞳からも、感情は感じられなかった。
祐毅の計画も、崇志を調べる理由も、明確にはなっていないが、これ以上踏み込める雰囲気ではないと、レイラは本能的に察する。
その後、祐毅がレイラをどう支援するかが話されたが、彼女は静かに頷くだけだった。
「では、これからは協力者ということで。すみませんが、お名前を教えていただけますか?」
「え?もう忘れたの?お店で自己紹介したじゃない」
あははと苦笑いを浮かべる祐毅。レイラが怒るのも無理はないと、軽く頭を下げる。
「もう二度と店に行くことはないと思っていたので、記憶に留めなかったんです。すみません」
「ほんと、酷いわね。レイラよ、ちゃんと覚えておいて」
レイラさん、と復唱し、覚えたことをアピールする。彼女の怒り顔が消えると、帰り支度をするように促した。服を着るレイラに背を向けながら、祐毅は今後の注意事項を話す。
「僕がアフターに行けない時は、二人の尾行はしないでください。女性一人であの路地を歩くのは危険すぎます」
「あら、心配してくれるの?優しいのね」
「協力者に何かあっても困りますしね。新たな協力者を探すのは面倒です」
そうですかと、祐毅の背中に向かって舌を出すレイラ。着替え終わったと彼女が言うと、祐毅は振り向いて、手を伸ばせば触れられる距離まで近づく。レイラが見上げると、祐毅は最後に一つだけと、話し始めた。
「レイラさんは、"噛む馬はしまいまで噛む"ということわざをご存じですか?」
眉間に皴を作って首を横に振る彼女に、微笑みながら意味を解説する。
「悪い癖は死ぬまで治らない、治すことは容易ではないことを言います。昔、あの人は秘書と不倫していました。まぁ、相手もあの人に似合いの、だらしない女でしたが。きっと欲を満たせるなら誰でも抱くんでしょう。店ではいい客かもしれませんが、決していい人間なんかじゃない。騙されないでください」
店の常連客として接しているレイラには、既に確立した崇志の印象というものがあるだろう。それは血縁である祐毅とは異なるものであり、恐らく崇志の建前。レイラを心配しての忠告か、いい父親と言ったことへの訂正要求か。祐毅はついでのように悪評を続ける。
「それに、酒の飲めない僕にクラブなんて紹介するんですよ?恐らく金づるになれと言っているんです。まぁ、言い付け通り常連客になりますけどね。その方が怪しまれませんし、あなたに資金提供が出来る。酒は飲めないので、都度贈るプレゼントを換金して、開店資金として貯めてください」
レイラが持つ崇志の印象、それが今後変わるかは彼女の判断次第だが、祐毅には揺らぐことのない印象がある。言わんとすることはわかったと、真剣な顔でレイラは頷く。
最後に二人は握手を交わすと、互いの間に人一人分の距離を取りながら店を後にした。




