第12話
遡ること6年前。29歳となった祐毅は、この春から神明大学病院の総合診療科で、専門医として働き始めた。正式に医者として働けることに喜びと安堵を感じていた祐毅。だが、その心をかき乱すような話が舞い込んでくる。
「明後日の夜、予定を空けておきなさい。医者になった祝いをしよう」
突然送られてきた父、崇志からのメッセージ。父が息子の就職を祝う、ごくありふれた温かいメッセージである。はずなのだが、祐毅には違和感しかなかった。
高校入試、大学入試、医師国家試験、どの試験に合格した時も、祝いなどなかった。まるで合格することが当然のような反応を見せた崇志の姿を回顧する祐毅。拒否権などまるでない文章に疑念を抱きながらも、わかりましたと短く返す。冷やかな目つきでメッセージを見つめながら、この誘いの魂胆を見抜いてやろうと、その場を逆に利用する手段を考えて始めた。
二日後、指定された銀座のビルの前で佇む祐毅。夜9時前の銀座を行き交う人は多く、ビルの壁に背を寄せて、崇志が来るのを待っていた。ここで10分ほど佇んでいる祐毅は、テナントの看板を見ながらずっと思慮を巡らせていた。飲食店、高級クラブ、バー、貴金属店などのテナントが入ったビル。この時間から利用するのであれば、高級クラブかバー。飲食店の可能性もあるが、齢60を超えた男が夜9時からガッツリ食事とは考えにくい。
ここからは誘いの魂胆を予想する。高級クラブもバーも、祐毅が利用するには不向きだからだ。崇志もそれを理解しているはずなので、純粋な祝杯ではない。顔馴染みの店でもあるのかと、記憶にある崇志の知人を探している最中に、黒塗りの車が目の前の車道に停まる。何度も目にしたことのある車に、祐毅は即座に人混みを縫って駆け寄った。
急ぎ足で降りてきた運転手が後部座席を開けると、オールバックに白髪のメッシュが目立つ男が地に足をつける。
「お疲れ様です、理事長」
微笑みの張り付いた顔で挨拶をした祐毅に、ああ、と薄い唇を少しだけ開いたその男は崇志。切れ長の鋭い目で祐毅を一瞥し、地下の店だと一言告げて一直線に歩き始める。祐毅は、車内に誰もいないことを確認すると、運転手から鞄を受け取り、崇志の後を追いかけた。
階段を降りると、アンティーク調の木製扉と壁に埋め込まれた「銀座ディオサ」と刻まれた看板。祐毅の二分の一の予想は、高級クラブが正解であった。
崇志が流れる動作で扉を開けると、媚びを含んだ声色の挨拶が折り重なるように店内に響く。
「崇志さん、いらっしゃい」
「こんばんは、小夜ママ」
美しい笑顔が映えるよう、夜会巻きでまとめられた黒髪。黒地に紅白の椿が刺繍された着物を纏った彼女は、この店のオーナーママである小夜。崇志と親し気に目線を交わすと、どちらからともなくハグをする。
崇志と合流してから、一度も表情を崩さない祐毅だが、脳内では様々な推察を繰り広げていた。
ハグはただの挨拶か、それともそういう仲なのか。祐毅の母は、彼が高校生の時に他界しているため、二人が交際していても何ら問題はない。
親し気な様子からして、崇志はこの店の常連客。声色も表情も、祐毅に向けるそれとは全く別物だった。
「あら。後ろはお連れ様?」
数秒二人の世界に浸ったのち、もう一人の客に気づいた小夜が、祐毅に視線を向ける。彼女の顔をようやく目視した祐毅は、なぜか微笑みを崩した。
崩れた後に出てきた表情は呆け顔。ポカンと口を小さく開け、彼は頭の中で何かを探す。
「あぁ。前に話した通り、今日は息子を連れてきたんだ」
崇志の言葉で我に返った祐毅は、名を告げながら、微笑みを取り戻す。
「そ、そうね、言ってたわね。銀座ディオサへようこそ。この店のママの小夜です」
小夜は丁寧に頭を下げると、ボーイに声掛けをして席へと案内を始めた。
初めて高級クラブに訪れた祐毅は、歩きながら店内を観察する。満席ではないが、客とホステスの活気溢れる声が空席を感じさせない賑やかな雰囲気を作っている。しかし、賑やかなのは耳で感じたものだけではない。酒、香水、化粧、あらゆる匂いが鼻をかすめ、同一空間にいる人数以上の香りの種類を感じた。
崇志と祐毅が席に着くと、二人の女性が小夜の隣へやってきた。
「理事長先生、こんばんは。あ、珍しい。いつも一人なのにイケメン連れてるー」
ブロンドの女性が、崇志と祐毅を見て真っ先に話しかけた。
「こら、レイラちゃん。先にご挨拶しなさい」
いくら常連であろうと礼儀を忘れてはならないと、すかさず小夜が接客の基本を指導する。ごめんなさい、と笑いながら両手を合わせて謝罪すると、早速挨拶を始めた。
「レイラでーす、よろしくお願いします。ねぇ先生。このお兄さん、もしかして先生の息子さん?」
息子の祐毅だ、と崇志に勝手に紹介され、外面は笑顔、内面は嫌々、会釈をする。
「やっぱり?似てると思った。超タイプなんですけど。隣、いいですか?」
祐毅の返事を聞く前に、レイラは彼の隣を確保する。祐毅の脚に膝がくっつくほどの距離で座ると、照明が反射した輝く瞳で彼を見つめた。
これが祐毅とレイラの出会い。レイラは祐毅に対して好印象を持ったが、祐毅から見たレイラの第一印象は好ましいものではなかった。
もう一人の亜麻色の髪をした女性は、サキです、と控え目に挨拶をして、崇志と祐毅の間に座り、小夜は崇志の隣に座った。
「先生はいつものでいい?祐毅君は何飲む?」
レイラの言葉が合図となって、サキがグラスの準備を始め、ボーイは酒を持ってくる。
「祐毅は酒が飲めないんだ。ウーロン茶でいいか?」
このような店で他に選択肢などないだろうと察した祐毅は、はいと頷く。すると、なぜか隣でクスっと笑い声がした。
「祐毅君、下戸なの?可愛いぃ」
レイラの言葉の意味が全く分からず固まる祐毅に、反対隣から静かにウーロン茶が差し出された。液体で満たされた五つのグラスが揃うと、崇志が乾杯の挨拶を告げる。
「祐毅がようやく医者として働けるようになった。皆、祝ってやってくれ」
四人が口々に乾杯と言う中、祐毅はありがとうございますと頭を下げながら各人とグラスを交わす。ホステス達から祐毅へ賛辞が送られる中、崇志はグラスを眺めながら口を開く。
「まぁ、当然のことだがな。お前は私の息子なのだから、誰よりも優秀でなくては」
酒をクイッと一口含み、満足そうな顔を浮かべる崇志に、もちろんです、と従順な返事をする祐毅。祐毅の祝いとは名ばかりで、時間と酒が進むと崇志が会話の中心となった。理事長という立場のせいか、ホステス達の職業柄のせいか、崇志の気分を高揚させる話が続く。祐毅も場の空気を読んで、時折合いの手を入れた。
「なぜ総合診療科を選んだ?」
大学入学と共に一人暮らしを始めた祐毅は、崇志に相談することなく診療科を決めた。親子水入らずの場にしたいのか、父は率直な疑問を投げかける。
「困っている人を救いたいと思ったからです。原因不明の病でたらい回しにされたり、受診科がわからず受診を諦めたり、そういう人達に寄り添えればと」
立派な志だとホステス達は持て囃すが、崇志から返ってきたのは嘲笑。
「医者は慈善事業ではない。もっと欲を持て。私のように外科を選べば、給料も良いし、業界で名が売れるぞ」
崇志は、外科医として珍しい症例や多くの手術に執刀し、業界紙に載ったこともある。理事長となった現在はメスを持たなくなったが、大病院の理事長として名を馳せている。
「欲のない人間など死人と同義だ。もっと金や権力を求め、誰よりも優位に立て。誰もが望むような欲を満たしてこそ、生の実感が湧くというものよ!」
欲しいものは何でも手に入ると言いたげに、崇志は小夜とサキの肩を抱き、声高らかに笑う。そんな崇志を笑顔で褒めそやすホステス達。
「お前もいい歳だ。こういう店で大人の嗜みを覚えなさい。私の紹介なのだから、多少の粗相は大目に見てもらえるだろう」
なぁ、と小夜に豪快に笑いかける崇志に祐毅は、はいと場に適した回答と笑みを返す。だが彼は、笑顔とは正反対の感情を入店時から相も変わらず抱いていた。
クソつまんねえ、と。




