第1話
「もう……限界だ……」
日付が変わりかける、人もまばらな真夜中。一人の男が、粘着質な足取りで歩を進める。人の少ない道を選んでは曲がり、選んでは曲がりを繰り返し、ようやく己の心境に似つかわしい道に出た。
都会だというのに、脇に数本入ると人っ子一人いない細い道。住宅はまばらで、等間隔に並ぶ弱弱しい街灯がまるで天使の梯子に思えるほど、辺りは暗く、空からも光は落ちてこない。
男はあえて光の下を避けるように歩く。暗闇を好み、それに溶け込むことを望むかのように道の中央を進む。自分のつま先を見ながら、規則正しい感覚で視界の端に乱入してくる光に、さらに気を重くしていたが、耳から入ってきたある音が心境を変える。
目線を上げると、それまで均等だった光と闇の間隔が、ある一部分だけ闇が勝っていた。光と光の間が広く、手前の光が降り注ぐ位置には、はるあいはし、という文字が見えた。
橋名板に近づくにつれ、ちょろちょろ、と聴こえていた音色が、ざーっと音を変え、次第にボリュームを上げていく。
ついに手前の光まで到着すると、それは真っ直ぐと伸びた石橋であった。対岸までは5メートルほどだろうか。川幅は広くないのだが、昨日の雨で増水しているのか、濁った音と黒い水面が近く感じる。
ここかもしれない、そう思った男は橋の中心にまっしぐら。欄干から下を、目を凝らして覗くと、揺らめく水流をかろうじて捉えることができた。
「ここなら……」
左右に視線を走らせ、何かの確認が取れると、男は喉を鳴らす。欄干に両手をかけ、ふぅっと息を吐くと決意を固めた。
「おにーさん、こんばんは」
予想だにしない音に驚いて、危うく橋から落ちそうになる。いや、男からすれば、それは願ったり叶ったりのはずだが、反射神経は身を守るようにできているらしい。体の重心は後ろに移動し、川から遠ざかってしまった。
「え?な、なんだ……」
身を翻して欄干を背にし、前方左右を見回しても、音の出所は掴めなかった。
「あぁ、そうですよね。この橋、暗いですもんね」
先程と同じ声色が、川の音とともに耳に入る。が、おおよその方向が分かっただけで、発声元は謎のまま。
「あなたの正面。反対側の欄干に座っていますよー」
すぐさま顔を真正面に向け、言われた場所を凝視する。何かがあるようにも見えるが、人がいるのかどうかはわからなかった。
ほらほら、という声とともに、闇の中で何かが蠢く。ようやくそこに、人がいるという事実を掴んだ。
「あ、あんた、誰だ?」
聞き覚えのない声に恐怖を感じながら、震える声で問いかける。
「僕はあなたを救いに来ました」
返ってきた言葉は男の欲しい答えではなく、は?と間抜けた声が無意識に口から出る。
向こう側の何かがまた蠢き、それはゆらゆらと動き続けていて、更なる恐怖を煽った。
「お兄さん、今死のうとしていたでしょ」
男の肩が跳ねた。この言葉が一番の恐怖であった。今し方、ただ欄干に両手をついただけで心中を悟られるなど、心が透けているとしか思えない。だが、そんなことはありえないし、見破られたくないと、男の本能が働いた。
「は?何言ってんの?」
咄嗟に出た強がり。だが、声色には焦りがはっきりと出ていた。
「だって、川に飛び込もうとしていましたよね?それに、もう限界だ、ってコメントしてましたし」
先程の恐怖は一番ではなかった。恐怖の連続で、男はだんだんと気が狂い始める。
「な、なんでそれを……」
強がれたのはほんの一時。何から何まで見透かされ、早く川に飛び込むか、この場を去りたいと弱腰になる男。しかし、声の主に問いかけをしたことで、少しだけ安心する事が起こった。
ぼんやりとした明かりが、数分間相手の顔を照らす。正面2メートルほどの距離に顔だけ宙に浮いているように見えたことには背筋がぞっとしたが、とにかく視覚から情報を読み取れるだけ読み取ろうと、男は照らされた一部分に集中する。
センターパートの前髪。引き締まった輪郭に色白の肌。切れ長だが決して細くはない目と口角が上がった大きな口。そして目を引くのは、右の目元と口元の左下に対極をなすように配置されたほくろ。あと、照らされた位置からして、高身長な男だと察する。端正な顔立ちと、物腰柔らかな言動から、悪人ではないと推理する。
男は案外冷静に、正面の男を観察することができた。
「あなたの投稿、数日前から見ていました。あなたばかり大量に仕事を押し付けられて、周りは知らん振りで定時上がり。毎日帰りも遅くて、睡眠もろくに取れていないんですね。そりゃ、肉体も精神も限界を迎えてしまいますよ」
突如として向けられた白光に目が眩む。細めた目から少しずつ光を取り込むと、正体はスマートフォンの画面だと分かった。
表示されていたのは、あるSNSのコメント一覧。画面の端から端までじっくり読むと、アカウント名に心当たりがあった。
そのアカウントは、男が裏アカウントとして使っているもの。当初は同僚にバレない様に愚痴を吐き出すために作ったものだったが、強気で辛辣な発言は最初だけ。いつの間にか鬱屈とした発言ばかりが並ぶようになった。
裏アカウントは、個人を特定できないから“裏“と呼ぶはずだ。にもかかわらず、目の前の相手は男の投稿だと確信して、かつ、わざわざ会いに来た。
「寄せられるコメントも冷ややかですよね。あなたの辛さを誰もわかろうとしない。死を選ぶほど辛く苦しいのに、世の中は優しくない。所詮人間は、他人には無関心なんです」
混乱、動揺。混沌とした感情のせいで、男の聴覚は途中から役目を放棄していた。
大丈夫ですか、と肩に手を置かれ、やっと音を感じた。早く不安から解放されたい。そんな意識が芽生えたのだろう。
「あんた……一体なんなんだよ……」
一度無視された質問を、再度投げつけた。
これは失礼、と笑い声が聞こえて肩から重みが消える。
「廻神祐毅と申します。神明大学病院で医者をしています」
神明大学病院。都内では名の知れた、病床数1000床を超える大きな病院。
ゆっくりと頭の中で聞いた言葉を咀嚼し、意味を理解した男は安堵を漏らす。
「医者……なんだな……」
はい、という明るい返事に、心の中で安堵という風船を膨らます。
「僕はあなたを救いたい。うちの病院でもどこでもいいので、心療内科か精神科を受診してください。カウンセリングを受けて根本的な原因を解消すれば、きっと良くなりますから」
男もその可能性を考えなかったわけではないが、ずっと否定し続けていた。だが、有名な病院の医者の言葉が、認めたくなかった現実を心の風船に突き立てる。
「あんた、俺がイカれてるって言いたいのか?」
精神科、カウンセリング。連ねられた言葉を、今の精神状態はネガティブに解釈する。
そうではない、などど、いくら祐毅が否定しても、男は考えを変えられなかった。
「仕事の負荷、業務内容、人間関係、何かがあなたに苦痛を与えている。これは誰にでも起こり得る症状です。あなたが異様というわけでも、特殊というわけでもない。それに、治療できないわけではないのです。時間はかかりますが、病を受け止めてゆっくり向き合っていけば、良くなりますよ」
ぼんやりだが、祐毅はにこやかな顔をしている気がする。だが、男には祐毅の言葉も笑みも気に食わなかった。
「俺は病気なんかじゃねぇ!仮に病気だって言うなら、直ぐに治せよ!薬でも手術でも、なんでもいいから早く治せ!こっちは早く……楽になりてぇんだよ……」
激昂したのは最初だけで、その後は頭を抱えて泣き崩れた。耐えられない、と呟き、地面にぽたぽたと雫を落とす。座り込んだ男に合わせ、祐毅もしゃがみこんだ。男の肩を摩り、大丈夫ですか、と慰めの言葉をかける。
川の音よりは静かな鳴き声で、男は一頻り泣いた後、諦めのような覚悟を決めた。
「もういいわ。死ぬのが一番楽になれる」
男はスッと立ち上がり、体を半回転させると、どっか行けよ、と吐き捨てた。
最後に一つ聞かせてほしい、そう言う祐毅に、男は顔半分だけを向ける。
「あなたが死を選んだ理由はなんですか?」
男は自分の半生を、走馬灯のように回顧する。あれか、いやこれか、心に留まるものはいくつかあったが、死を決めた脳はそれを一斉に捨て去る。どうでもいい、力ない一言だけが返ってきた。
「わかりました。僕はあなたの意思を尊重します」
それは命を救う医者から本来出ないであろう、命を見捨てるような発言。しかし、男はその言葉に疑念も感謝も浮かばなかった。神の赦しでも得たかのように、朗らかな表情で橋の欄干に手をかける。
そこからの祐毅の行動は一瞬だった。高身長ゆえの脚の長さで、男の背後にたった一歩で接近。左手で口を押え、右手はポケットからペン型の注射器を取り出し、キャップを口で外すと男の首に刺した。
んっ!と籠った悲鳴をあげた男は、左手で口を押えた手を掴み、右手で刺された場所を触る。そこには痛みだけか残り、痛みの元となったものはすでに取り除かれていた。祐毅は掴まれた手を一瞬でほどくと、これまた長い脚を活かしてすぐさま後ろに距離を取る。
男は怒りの形相で振り返った。
「てめぇ、何しやがっ……」
文句を言っている途中で、男は突然意識を失う。まるで吊られた糸が切れたように倒れ込む男を、祐毅はすかさず抱き留めた。背中を叩き、呼びかけをし、規則正しい呼吸音を確認すると、安堵のため息をついた。
「あなたの意思を尊重して、ちゃんと死なせてあげますからね」
祐毅はすっかり重くなった男の腕を肩にかけて立ち上がる。耳につけていたイヤホンに手を添え、回収、と呟けば、一分とかからずに黒塗りのワンボックスカーが目の前までやってきた。後部座席のスライドドアが開くと、黒衣に身を包んだ二人が下りてきて、祐毅から男を奪っていく。
手ぶらになった祐毅は、ありがとう、と二人に告げ、助手席に乗り込んだ。
「じゃあ、出発して」
車が到着してから去るまでは数十秒。まさに疾風の如き早業で、一行はその場を後にした。
車中は車の走行音しか聴こえないほど、静かだった。まるで全員が眠っているかのように、服のこすれる音すらも聴こえない。
だが、その沈黙は祐毅によって破られた。
「二人には?」
「もう渡してある」
端的な回答が運転席から返ってくると、祐毅は後部座席に体を向ける。左側には、脚の折りたたまれたストレッチャーに横たわり、ブランケットをかけられて眠っている男。右側には、男と並ぶように二列に連なった座席に座る二人。
「二人とも、今日は助かったよ。駅の近くで降ろすから、もう帰って大丈夫だよ」
穏やかに、そしてにこやかに声をかけると、戸惑い交じりに、わかりました、と聞こえた。祐毅はその反応は慣れっこだと言わんばかりに、気にすることなく前方に向き直る。
車窓の景色は、数分前までほぼ明暗だけだったが、徐々に彩りを灯し始める。既視感を覚える光景を、窓枠に頬杖を突きながら何の気なしに祐毅は眺めた。
車内よりも車外の音が耳につくようになった頃、車は速度を落とし、路肩に停車した。車の少し先には、歩道に建つ駅の地下出入口が見える。
運転席の男が、じゃあここで、と言うと、後部座席の二人は会釈をして降りていった。
二人が駅の出入口を降りるまで見届けると、車はウインカーを出し、再び車線へと戻る。
祐毅はバックミラーを一瞥する。後部座席の男の様子が先程と変わりないことを確認すると、胸を撫で下ろし、車窓へと視線を移した。
死を願った男の行く末を乗せたまま、黒塗りの車は再び闇へと消えていった。