(五)
青雲の 出づる山の辺 雫にぞ 照る日注ぎて 瑠璃となるぬる
と。
我が背子に 絶えぬ言の葉 葛の葉に 印して告らむ 百重に二十重に
を平仮名に置きかえて、冒頭の一文字だけを取り上げていくと……。
「あ、い、し、て、る」、「わ、た、く、し、も」
これってどういう意味なんだ?
彩子と別れ、職務に戻っても、悶々と疑問が渦巻く。
和歌本来の意味、「余が愛しているのは、亡くなった麗景殿の女御だけだ」「わたくしを振り向いてくださらない夫に、恨み節をいくらでもお贈りいたしましょう」をそのまま受け取ったほうがいいのか?
でもそうすると、技巧的におかしな部分がいっぱい目について……。
「――わり。尾張。尾張の!!」
なんだよ、人が考え事してる時に、うっさ……うわっ!!
「ご、極臈どの……」
目の前に現れた真っ白ノッペリ顔に驚くオレ。
「『極臈どの』ではないわ。お主、頼んだ仕事は終わっておるでおじゃるか?」
フンスと鼻を鳴らして、背を反らせる極臈。
不満が鼻息だけでなく、全身から漏れい出てる。
「なんじゃ、終わっておらぬのか? まったく。職務にも励まず、フラフラしおってからに」
え、えーっと。
オレ、「終わった」とも「まだです」とも言ってねえんだけど。
「まったく、朝も早くから承香殿なんぞに行きおって」
このノッペリ極臈おじゃる麻呂。人の話、聞く気ないな? 口を挟ませる余裕のくれない。
まあ、面白いから、このまま黙って怒らせておこう。
「中将どのの縁者か何かは知らぬが、勤めに忠実でないのは、家の倣いなのでおじゃるかのう」
勤めは他の者に任せておくがいい。汝は、フラフラすべし!! ――ってか?
オレのは、妹の見舞いだが、そうか、そうか。中将家の家訓は、「フラフラ」か。ならそこに名を連ねるオレも、家訓に従うっきゃねえわなあ。
ってことで、仕事放棄してサボる理由発見。
「それとも尾張などという鄙の者は、真面目にお仕えするということを知らんのでおじゃるか」
これだから田舎者は困る、困る――ってうっさいわ。
どうせ尾張は畿内じゃねえ、お前ら都人から見たら、僻地、秘境、どえりゃあ田舎だろうよ。
だけどな。
お前が使ってる墨とか、食ってる塩とか、着てる衣とか、そういうの全部尾張からのもんだからな? 特にその衣は、オレたちの親父どのがオレの上司であるお前のためにと、ゴマすり用にわざわざ送ってよこした、最高の一品なんだからな?
尾張は終わり――なんてバカにすんなら、その身ぐるみ全部剥いじまうぞ? 瓜みたいにスッポンポンだぜ。
「どうせ、勤め上げたら受領にでもなりたい、受領になるまでの辛抱だとでも思ってるんじゃろうが、まともに勤めねば、推挙などしてもらえぬでおじゃるぞ?」
いや、それは……。
「お前のような者でも、仮にも“青色”なのだから、もう少し誇りを持っておじゃる……」
青色。
オレの着ている衣の色。って、これ、“青色”か? どっちかと言うと、冴えないカビ色なんだけどなあ。“麹塵色”って、麹に生えるカビの色って意味だし。
恐れ多くも帝の平服と同じ色だから、そこに誇りを持てって言うんだろうけど。
こんなカビ色じゃあなあ。
思わず、自分の着ている衣を見下ろす。
「まあ、そう言うてやるな下緒」
「主上」
オレとチクチク嫌味の上司、嫌味ノッペリ極臈おじゃる麻呂の会話に、おそろいカビ色の衣、帝が割り入ってきた。
“下緒”は、ここでの麻呂の通名。そのノッペリ顔には取り立てて特徴がないので、唯一の特徴である、「冠を結ぶ上緒、紙縒りが、他よりちょっぴり下で結ばれてる」から“下緒”。 当人はそれを「カッコいい」と思っているらしい。“ノッペリおじゃる麻呂”というのは、密かにオレがつけたあだ名。
「尾張は、家族思いの心根優しい性分なのだろう。出仕したばかりの妹御のことが気になるのであろう?」
「え、あ、はい。まあ……」
「か弱い妹を気にかけるのは、兄として当然のこと。それを叱ってはかわいそうではないか。のう、下緒」
「は、はい……」
って、彩子って「か弱い」のか? え?
かばってもらっておいてなんだけど、そこに引っかかる。か弱い彩子?
オレの豊かな想像力にだって限界は存在する。
「尾張は勤めはきちんと果たしておる。今朝の奏上書は見事であった。要旨も端的にまとめられて、大変読みやすかった」
「恐れ入ります」
そうよ、そうだよ、オレ、ちゃんと仕事はこなしてるもんね~。まとめを作るのはそれなりに得意。
「え? 提出したのでおじゃるか?」「いつの間に?」みたいな顔で、帝とオレを交互に見る下緒。
“嫌味ノッペリ極臈おじゃる麻呂”にその顔つきも加算して、“嫌味ヒョットコノッペリ極臈おじゃる麻呂”にしてやろう。(ちょっと長い)
「それと国司の座を狙っておるのは、下緒、そなたではないのか? 来年の除目のために、方方に願い出ていると聞いておるぞ」
「そそそ、それはあ……」
「悲しいの。長く勤めてくれた忠の者よと思うておったのに。やれ退下したら国司になりたいなどと」
「めめめ、滅相もない!! この下緒、鷁退し、末席新蔵人となっても主上にお仕えする所存であります!!」
そっと袖で目を押さえる帝。慌てるおじゃる麻呂。
へえ。鷁退して新蔵人になったら、コイツ、オレの部下になるんだけど?
おじゃる麻呂の地位、極臈。同じ六位蔵人なのだけど、その年功によって立場、序列がつく。極臈は一番上。オレの氏蔵人は下から二番目。普通、極臈まで勤め上げたら、「次は国司だ、ウェーイ☆」とここを去っていく。国司となって、そのまま任地に赴く受領として、あっちでウハウハ一財産☆ それが慣例。まれに「この命をかけて帝にお仕えいたします!!」って忠義者は、そのまま最上位の極臈連投ではなく、一周回って最下位、“新蔵人”となる。それが鷁退。六位蔵人の「ふりだしに戻る」。
「そうか。それは心強い。お主がいてくれると、余もうれしい」
「ハッ!!」
え、えーっと。
それでいいのか、おじゃる麻呂。
お前、国司になりたい、なりたいってこぼしてなかったか? オレの親父どのみたいに任地で、ウハウハ、ガッポガポ☆とか言ってなかったか?
「下緒は、これを梅壺に届けておくれ」
帝が懐から取り出したのは文。梅壺? 藤壷ではなく?
梅壺は、藤壷のお隣だけど――。
「関白にではなく、右近少将に。頼んだぞ」
「ハッ」
うやうやしく文を捧げ持って退出する上緒。
同じ蔵人でも、帝の文の取次などは、最上位の極臈の仕事。ペーペー氏蔵人のオレには回ってこない。
梅壺は今、藤壷女御の父、関白の控え所になっている。そして、宛先、右近少将は関白の長男。
なるほど。もしかして、「昨日、キミのところじゃなく承香殿なんかに行っちゃってごめんね~。でも直接言いにくいから、こうしてキミの兄に宛てて文を送るよ~。藤壷女御のお兄さ~ん。上手くとりなしておいてね~、ヨロ~ってことなのか? どうなんだ?
その心境を推し量りたくて、帝の横顔を盗み見る。
うーん、わからん。
承香殿に贈られたという和歌の意味といい。その心境といい。まったく、わからん。
あの和歌。「青雲の 出づる山の辺 雫にぞ 照る日注ぎて 瑠璃となるぬる」が、「私が愛しているのは、お前が殺した麗景殿の女御だけだ!!」って意味なら、「噂通りだな~」「ってか、キッツいなあ~」って思う。わざわざそんなこと言って、相手からの愛を突っぱねなくてもいいじゃんって、承香殿の女御に同情したくなる。
けど、あれがもし、オレが謎解きしたみたいに、最初の文字だけ拾って読む折句で、「あ、い、し、て、る」って暗号を織り込まれてたのだとしたら?
頭の中がこんがらがる。
帝が承香殿行きを決めたのは、オレが承香殿ワッショイ!!したからで。でも、別に、オレみたいな六位ふぜいが推したところで、無視して雅顕推しの藤壷に行ってもよかったわけで。
仕方ないから、滅多に思い出すこともない女御のもとにも、生存確認も含めて足を向けただけ? 贈りあった歌が「あ、い、し、て、る」「わ、た、く、し、も」って意味なら、一刻もの間、御簾越しに向かい合ってただけって――なんだ? 好きあってるのなら、それこそ「イヤン、バカン、そこはダメェ♡」みたいな展開があってもいいんじゃないのか? 女房が侍っていたらやりにくいっていうのなら、彩子を退出させればいいわけだし。それが無理でも、せめて御簾の内側で、手を取り合って寄り添う程度のことをすればいいのに。
「どうした、尾張」
「あ、いえ、その……」
アンタの恋愛事情どうなってんの?とは訊きにくい。
「お前も、いつかは国司になりたいと申すのか?」
え? は?
「まあ、そうですね。国司でもしながらノンビリ暮らしたいです」
「国司はノンビリなのか?」
「違うんですか?」
親父どのは、結構ノンビリまったりしてたけど。
国司になっても、任地に赴かず亰で暮らす“遙任”、任地でいろいろ懐を肥やす“受領”。
オレらの親父どのは、その後者、受領。それも、尾張国にしがみつくようにせっせと都に賄賂を送ったことで再任されてた“重任”。
どんだけ尾張が好きなんだってぐらい、尾張好きの親父どの。
浜の藻塩を見に行ったり、貝採りに出かけたりしてたけど。思い立ったが吉日で、仕事を放り出して柑子採りに行ったこともある。――遊んでばかりだな、親父どの。
オレを拾った時も、「珍しい童子がいる」って聞いて、率先して親父どのが里までやって来てたし。普通、国司があんなヒョコヒョコと出歩いたりしないだろ?ってことは、後で知った。
「そうか。国司はノンビリ暮らせるのか」
帝がかすかに笑った。
「だから、みな、蔵人を出て国司になりたがるのか」
えーっと。それはどうでしょう。
受領の誰もかれもが親父どのみたいに遊んでばっかじゃないと思うけど。
崖から落ちても、キノコを採って戻ってきたっていうがめつ~い国司もいるし。国司になれば、それなりの財産が築けるっていう、不思議な結果がついてくるし。その国に帝の威光、帝の治世を扶けるために派遣されるのが国司なのに、どうして財産が築けるんだろうか。うん、謎だ、ナゾ。
まあ、親父どのはそういうのに縁遠くて、溜めたもの(なんであるの?)は「ワシは尾張にいたんじゃ。だからヨロシク☆」にしか使われていない。尾張にへばりついていたいのも、「ガッポガポ」目当てじゃなく、「尾張が好きだから」。風光明媚で、過ごしやすいんだってさ。
「余も、国司になってみたいものよ」
あれ? 帝、もしかしてお疲れ?
遠く、庭を眺める帝の横顔にそんなことを思う。
昨日は、意に沿わない承香殿行きだったし。それでなくても、政とかそういうので疲れてもかもしれない。
オレよりわずか三つ歳上なだけの帝。
オレが尾張で、親父どのや彩子と柑子にかぶりついてる頃には、この人は帝として政の場に立っていたんだよなあ。そして麗景殿の女御を寵愛していた――と。
うーん、わずか三つでこの差。どうよ。
嫁ナシ、恋人ナシのオレには、それがどういう状況なのか、サッパリわからん。身分だって、ギリ殿上人なだけだし。帝のご苦労なんて、想像もつかない。
愛する麗景殿の女御を喪って、殺した犯人かもしれない承香殿の女御と一緒に暮らして、最近は麗景殿の妹が嫁に来て。亡くなった愛する人を慕うことも許されず、「さあ、お子を!! 子作り励め!!」って言われるのは、ちょっとさすがに同情す――
――ねえ、帝って、承香殿の女御さまを嫌っておいでなのよね?
彩子の言葉が脳内で何度もくり返される。
目の前に立つ帝。
愛した人を亡くし、犯人を捕えることもできず、新たな嫁をもらって子作りを求められてる可哀想な人――でいいんだよな? 彩子。
心のなかで、妹に問いかけてみる。当然だけど、応答ナシ。