(五)
翌朝。
内裏に激震が走る。
藤壺の女御、行方不明。右近少々もともに行方不明。
原因は夜半に出た鬼。
鬼が女御を喰らおうとして、兄である少将が身を挺して女御を守ろとした。だが、鬼はそんな少将もろとも女御も攫って行った。いや、喰い殺された。
――藤壷から清涼殿への渡殿に、おびただしいまでの血が飛び散っていたそうな。
――女御さまの袿や扇も落ちてたそうな。
――切り裂かれた直衣もじゃ。あれは少将どののもので間違いない。
――壊れた脇息も転がっておった。
えーっと。
血じゃないです。絵の具です。
脇息は、彩子がぶん投げたヤツです。
なんて言えないから、そのままにしておく。
――渡殿には鬼の爪痕が幾筋も残っていたそうじゃ。
ええーっと。
それは、帝がお付けになった刀傷です。鬼の演出のために傷つけるよう命じられたのに、忠高が戸惑ってたら、帝自らザックザックとやったやつです。
――渡殿のあたりには鬼火もフワリフワリと浮かんでいたそうだ。
えええーっと。
それは、史人が喜んで飛ばした灯籠です。いかにも鬼がいたように見せかけるため、メッチャ楽しそうに飛ばしておりました。
――異変に気づいた陰陽師と滝口の武士が、武徳門を抜け、その先まで追いかけていったらしいが、見失ったらしい。
――武徳門といえば、内裏の西南、裏鬼門にあたる場ではないか。
ええええーっと。
それは、二人を逃がすのに武徳門まで誘導しただけです。武徳門だったのは、たまたまそこが蔵人所から近かっただけで、それ以上の意味は含んでおりません。
――主上は無事なのか?
――頭中将どのが警固についていたからな。ご無事だそうな。
えええええーっと。
すべては雅顕の采配だし。喜んで立案、演出、配役、監督、マルチにやっておりましたとも。
――関白どのは病に臥せっておられるし。なにやら悪運続きじゃのう。
――麗景殿の姉女御に続き、藤壷の妹女御まで失われるとは。
――一人息子の少将どのまでおらぬとは。あの家は誰が継ぐのじゃろうのう。
そこは知らん。
――関白どのは、仏門に帰依することを考えておられるらしい。
それも知らん。
仏門に入ったぐらいであのオッサンの犯した罪が消えるとは思わない。そして、逃したあの少将の犯した罪も。
あの後、少将を縛る縄を切ったのは、他でもない雅顕だった。二人を逃がすと言ったのは帝。
愛する人を殺された雅顕。愛する人を殺されそうになった帝。
この二人が少将を許すというのなら、オレがとやかく言うことは出来ない。
いや。
――これはね、少将に対する罰だよ。
そう雅顕は言っていた。
少将の願いは、死んで姉女御のいる場所に生まれ変わること。なら、処罰を与えて殺すのではなく、この世で生を全うすることを課す。放免され自由になったところで、死のうとしても、それは妹女御が全力で止めるだろう。
そうして、生きて罪を償う。女御と暮らし、幸せを感じた時、同時に悔悟の念に捕らわれるだろう。悔悟、自責、罪の意識。それを味わいながら生きることがなによりの罰。
――それに。罰したところで、何も戻ってこないからね。
最後につぶやかれた言葉が、深く胸に染みた。
* * * *
時が流れる。
「――待ちやがれ、コノヤローッ!!」
市のなか、ひときわ威勢のいい声が響き渡る。
その声に群衆が分かたれ、一筋の道が出来上がる。――モーゼかな?
その道を、ヒイヒイ言いながら、こけつまろびつ出てくる男。後ろを何度もふり返り、手にした(顔にそぐわない)赤い包みを抱え直す。
「――ヨッ」
手にしたものを男に向かって投げる。
スコーン。
「あがっ……」
男の額にクリーンヒット。男、ひっくり返る。
「おらっ、捕まえたぞ……って、成海か」
「おう。お勤めご苦労さん」
軽く手を上げ、男をふん縛ろうとした、馴染みの検非違使に挨拶する。
「成海が投げたのか?」
史人が、転がった胡桃と男の赤くなった額を交互に見る。
「おう」
彩子じゃねえけど、オレもなかなかのコントロール、捨てたもんじゃないな。ちょっぴり自画自賛。
「ほら、ばあさん。次は盗られないように気をつけろよ」
史人が追いついてきたばあさんに包みを渡す。
「相変わらず頑張ってるな、お前」
「おう。俺には、これが一番性に合ってるんだ」
ニヤッと笑った史人。人混みから現れた仲間の検非違使に盗人を引き渡す。
「座ってばっかりは、性に合わねえ。あの時、イヤッっていうほど痛感した」
「ハハッ。でもお前、偉くなりたいって言ってたじゃないか。“ふみひと”じゃなく、他に等しく並ぶ者のいない、“ふひと”になるんだって」
帝なら他に等しく並ぶ者のいない、志高の存在、治天の君だぞ。影武者であっても願いが叶ったんじゃないのか?
「あんな狭い中に押し込められて、なにが“偉い”だよ。冗談じゃねえ」
史人が顔をしかめた。
「あれぐらいなら、俺は“ふみひと”のままでいいや。なんたって気楽だし」
「そうだな」
気楽に暮らせるなら、高い身分なんていらない。そこは同意する。
「そういや、成海は今日は何しに市に来たんだよ」
「ああ、オレか。オレはこれを買い求めに来たんだ」
胡桃の入った袋を掲げて見せる。
「あとは蜂蜜が欲しいんだが……」
「よっしゃ、それなら俺がいい店を教えてやるよ!! 盗人捕まえるのに助けてくれた礼だ!!」
グイッとオレの腕を引っ張り走り出す史人。
「――ところで、それ、何に使うんだ?」
走りながら史人が問う。
「妹、彩子へのご進物だよ」
なぜ走ってるんだろう。わけのわからないまま答えた。
* * * *
(あれ、おじゃるじゃん)
内裏、陰陽寮近く。
別に見たくもない顔に出くわす。
「そこをなんとか。なんとかお頼み申すでおじゃる~」
なんか懇願してる? なにを?
ちょっと興味を示したのがまずかった。おじゃるに拝み倒されていた陰陽師、晴継とばっちり目があった。
め、い、わ、く、だ。つ、れ、て、い、け。
晴継の目がこちらに訴える。
「ご、極臈どの。なにをなさっておいでなのですか?」
仕方なしに声をかける。
「おおう。尾張か。ちょうどよい。主からも頼んでたもれ」
「なにを?」
「ワレについた穢れを祓うよう、この陰陽師に頼んでたもれ」
「え?」
穢れ?
「麗景殿の女御の怨霊じゃよ。鳴神となった怨霊に襲われたであろう」
あー。あれか。
「その上、藤壷の女御と右近少将まで喰い殺された。恐ろしい、恐ろしい鬼に変化した怨霊じゃ」
はあ。
「次は、穢れを押して勤めていたワレが喰い殺されるかもしれん。だから、祓ってたもれとねごうておるのじゃが、この陰陽師はちっとも言うことをきかぬのじゃ」
「……怨霊などおらぬ」
「そんなこと申して、次にワレが喰い殺されたらどうしてくれるのじゃあぁぁっ!!」
冷静な晴継と、発狂寸前のおじゃる麻呂。顔をしかめた晴継の襟元を、これでもかと握り詰め寄るおじゃる麻呂。
「わかりました。わかりましたよ、極臈どの。オレがとっておきの呪文をお教え差し上げます」
「呪文?」
「はい。尾張にある秘伝の呪文です」
真顔になって、麻呂の顔の前に指を一本立てる。目が血走ってる麻呂。ちょっと不気味。
「いいですか? ジュゲムジュゲム、ゴコウノスリキレ、カイジャリスイギョノスイギョウマツ、ウンライマツ、フウライマツ、クウネルトコロニスムトコロ、ヤブラコウジノブラコウジ、パイポパイポ、パイポノシューリンガン、シューリンガンノグーリンダイ、グーリンダイノポンポコピーノ、ポンポコナーノ、チョウキュウメイノチョウスケ」
「な? ジュゲ……?」
血走った麻呂の目が真ん丸になった。
「ほら。ジュゲムジュゲム、ゴコウノスリキレ、カイジャリスイギョノスイギョウマツ、ウンライマツ、フウライマツ、クウネルトコロニスムトコロ、ヤブラコウジノブラコウジ、パイポパイポ、パイポノシューリンガン、シューリンガンノグーリンダイ、グーリンダイノポンポコピーノ、ポンポコナーノ、チョウキュウメイノチョウスケですよ」
「ジュゲム、ジュゲ……」
「ちゃんと唱えないと効果ないですよ? 鬼が来ちゃいますよ?」
「ええい、わかっておる!! ジュゲムジュゲム、ゴコウノスリキレ、カイジャリスイ、スイ……」
「スイギョウマツ、ウンライマツ、フウライマツです」
「聞いたことない呪文だな」
ブツブツとくり返す麻呂を見ながら晴継が言った。
「呪文じゃねえよ。ただの人の名前だ。クッソ長えけどな」
落語『寿限無』。
怨霊でもなんでもないんだから、これぐらいでちょうどいいだろ。なんか知らんが、めでたい名前らしいし。
「なるほど」
晴継が笑った。
オレは……笑いをこらえすぎて、顔の表情筋がどうにかなりそうになった。おじゃるをからかうのって、やっぱ面白え。




