(三)
京の都の夜は、魑魅魍魎が跋扈するという。屋根の上では鵺が鳴き、大路を鬼が行き交う。怨霊は此方彼方に舞い降りて、人々を苦しめ呪い殺す。
あな恐ろしや、げに恐ろしや。
人々は災いを避けるため、あらゆる手段を尽くす。
物忌み、方違え、加持祈祷。
陰陽師は呪いを持って魔を滅し、僧都は霊験によって魔を調伏する。神仏にも頼れぬ貧しき者は、せめてもの拠り所として、家族で身を寄せ合い、朝が来るのを待つ。
魔は人の思いに引き寄せられて集う。
憎しみ、恨み、苦しみ、嘆き、妬み、怒り。
あらゆる負の感情が魑魅魍魎を引き寄せる。
さまざまな人間が、さまざまな思いを交差させる地、内裏。権力という光に寄せ集まった蛾のような人々は、水面下でいくつもの駆け引きをくり返し、そこにあふれんばかりの負の感情を生み出していく。
その中心地、帝のおわす清涼殿。
帝の寝所である夜の御殿。その北側には三つの小さな局が並ぶ。帝に夜のお召しに上がった女御更衣が侍すための局。藤壷の上の御局、萩の戸、弘徽殿の上の御局。藤壷と弘徽殿の間に萩の戸の間を挟むのは、同時に召された時に、互いが妍を競うのではなく、悋気を競うことになるのを避けるためだと言われている。
その間にある萩の戸の間から人の声がする。誰もお召になられぬ、物忌み中の帝の寝所の隣の間から、女性の声。違う。若い男の声もそこに混じる。誰もいないはずの間。なのに、その板障子の隙間からは、燭台の灯りが漏れている。
――では、また明日。
――ええ。楽しみにお待ちしておりますわ。
軽く笑う女の声。
間違いない。あれはここにいる。
衣擦れの音。萩の戸の間から男が出ていったのだろう。こことは反対側、夜の御殿との境の戸が閉まる音が聞こえた。
ここだ。ここだ。ココダ。
見つけた。見つけた。ミツケタ。
逸る心を押さえ、時を待つ。どちらも寝静まった頃、萩の戸の間に忍び入る。灯りを消した萩の戸の間は薄暗く、外の月明かりが、薄い上掛けの下で眠る女の体の輪郭を浮かび上がらせる。
――マチガイナイ。コノオンナダ。
戸を開けたままにしたのは、女の所在を確認するため。それと外に向かって頷いて見せるため。
何も知らず安らかに眠る女に目を向ける。
帝に愛される女。帝に嫌われる演技をしながら、こうしてここに囲われた女。
何もしなければ、黙って見過ごしてやったのに。
憐れ……とも思う。けれど、どこか憎らしい……とも思う。
帝にそこまで愛されているからではない。愛する者と思いを通じあ――。
「そこまでだ!!」
スターンと目の前の障子が開く。開けたのは帝……ではなく、帝の格好をした別の誰か。
同時にその女だと思っていた者も身を起こす。
――チガウ。チガウ。チガウ!!
コイツラハ、ミカドトジョウコウデンデハナイ。
「観念するんだな!!」
男が得意げに言った。その脇を固めるのは、頭中将と陰陽師。
この男も女も囮。こちらを誘い出す餌。
「罠よ!! 逃げて!!」
声を限りに叫ぶ。
私はいい。けどあの人は――。
「逃がすかよ!!」
男が叫ぶ。
「逃げて!!」
走り出そうとした男の足にしがみつく。
北の廂の先、暗い庭で動く物影。あの人が、あの人が逃げられれば、私は!!
「捕らえよ!!」
鋭い声が庭に響く。庭の物影が増えた。
一人は武者。もう一人は直衣。その二人が大切な人の影に絡みつく。
逃げて。お願い、逃げて。
こんな罠に捕まらないで。
「こら、離せよ!!」
男が暴れる。庭の連中に加勢するつもりなのだろう。彼を逃がすためにも、この男を行かせるわけにはいかない。暴れる男の足を必死に抑えつける。
「兄さま、どいて!!」
近くでブンッと何かがうなりを上げた。
庭先で、ゴンッという鈍い音と、「うわっ!!」と驚く男の声。
「……彩子ぉ」
庭先の男が声を上げる。
「脇息はなあ。ぶん投げるもんじゃなくて、体を凭れさせるもんだろうが」
「だって、他に投げるものが見つからなかったんだもん」
「それにしたって……。おーい。生きてるかあ?」
その会話に目を開け、庭の顛末を見る。
「――兄様!!」
武士が灯した松明の下、大切な人が地面に転がっていた。脇には脇息。
「さっすが、彩子!!」
「ヘッヘ~ン」
ニセ帝が、凶暴女御を褒める。
なんなの? この人たち。
掴んでいたはずの、必死な手からズルリと力が抜けた。
* * * *
「さて。色々話してもらおうか」
場所を蔵人所に移動し、縛り上げた男に問う。
蔵人所で開かれた、簡易お白洲。
問うのは、一番上座にいる帝。その脇に雅顕と、晴継。そして彩子。縛り上げられた男と側に寄り添う女の脇には史人と忠高。
オレは、その中間。帝と男の間のウロウロ役。
「右近少将。奉答せよ」
そう、清涼殿に踏み込もうとして、彩子の脇息にノックアウトされたのは、今関白の息子、右近少将。
彼は、最初こそ驚いた顔をしたけど、すぐに諦めたような、皮肉めいたような笑みを浮かべた。今も、喚き立てるとか暴れるとか、そういうことは一切しない。
「It's my lose.Surrender」
え?
「気づいていたんだろう? お前は」
少将の目がオレを見る。
「いや、気づいてたっていうか、なんていうのか……。ってか、お前がそうだったんだな」
「なんだ、そこまではわかっていなかったのか」
「わかるわけねえだろ。あの歌を詠んだのは、関白だったし」
――こぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くやもしほの 身もこがれつつ
あの和歌を詠んだのは関白だ。だから、短絡的に関白が転生者だと思っていた。
「そうか。僕はキミが気づいてると思ったんだけどね。『ふるさとの 浦に漕ぎゆく 海士人の 行くへも知らず 卯月彼はたれ』。あれを詠んだ時、キミが僕の方を見ていたから、てっきり……ってね」
「あー、えー。そう……だっけ?」
Who are you、お前は誰だを詠み込むことに必死で、どこを向いて詠んだかが覚えてない。
「まったく、キミは。どこまでも間抜けな転生者だ」
「うるさいやい」
別に好きで転生者になったわけでもないし、転生したわけでもない。
「そんなキミの仕掛けた罠に、僕はアッサリ嵌ったってわけか」
少将が、自虐的な笑みを浮かべた。
――承香殿の女御は、里下がりしたのではなく、清涼殿に匿われている。
どういうルートでかはわからないが、オレたちの情報が敵側の転生者に伝わってる。敵側は彩子の近くにオレみたいな転生者がいることまで掴んでいた。
なら、その情報はどこから漏れた?
あの承香殿の東の廂。
そう思えたから、あそこでわざとニセの情報を流した。あそこで罠を仕掛けたらどうなるのか。
ちょっとした賭けだったんだが、まさかコイツがかかるとは。
「――主上。主上がお察しの通り、この一連の事件は、すべてわたくしが引き起こしたものでございます」
少将が声を正し、帝を見る。
「六条河原院の百鬼夜行。麗景殿の焼失、父関白の病」
え?
「そして、五年前の姉、麗景殿の女御の死。すべてわたくしの所業でございます」
な、なんだって?
驚くオレ。忠高、史人、彩子。晴継は驚いているのかどうか変化のない顔。
雅顕は深く瞑目し、帝はまっすぐに少将を見るだけ。
「すべてを話せ」




