(二)
「え? じゃあ、関白さまもずっと屋敷にこもっていらっしゃるのですか?」
驚くオレにおじゃる麻呂が話を続ける。
「そうなのじゃよ。なんでもあの麗景殿の怪異の日に、お体を悪くされたとかで。屋敷で加持祈祷を受けておられるのでおじゃるよ」
清涼殿の西側、朝餉の間。普段なら夜の御殿を出た帝は、そのまま西側にある御手水の間で身支度して、そのまま朝餉の間での食事まで、すべて女房たちに奉仕されるがままなんだけど、今は違う。
――麗景殿の女御の霊を鎮めるには、帝の周りに女性の影は見えぬ方が良い。
とかなんとか占に出たとかで、現在の女性は清涼殿に出禁になっている。その上さらに。
――帝も精進潔斎を勧め、夜の御殿にて、結界の内で過ごされるのがよかろう。
なんてことを陰陽師から進言されたせいで、現在の帝は夜の御殿に引きこもり中。その上、さらにさらに。
――あの時、怨霊に触れ倒れた蔵人たちは穢れを落とすまで、参上することまかりならぬ。各々の屋敷で物忌みせよ。
なんて触れまで出ちゃって。
まあ、物忌みは流石に可哀想ってことで、雅顕主催で、「ちょっくら長谷寺詣で」にでかけた。あちらで精進潔斎してくれば、物忌みと同等の霊験が得られるとかなんとか。
あの時、筆頭で倒れたのはこのおじゃる麻呂なんだけど、「主上のお側を離れるぐらいなら、落飾して僧都となるでおじゃる!! 穢れは髪とともに落とすでおじゃる!!」とまあ、わけのわかんねえことを喚き立てたので、「ならば、この札を持っておれ」と陰陽師特製の御札を渡された。他の蔵人は、「やた☆ 長谷寺詣!! 女遊び!!」といそいそ出かけたのに。忠義者だったんだな、おじゃる麻呂。
そんなおじゃる麻呂と、朝餉を捧げ持って、夜の御殿の前に行く。
「主上、朝餉でございます。お召を」
「ご苦労。あとはこちらで行うゆえ、下がって良い」
そう言ったのは、帝……ではなく、障子の前に座す雅顕。夜の御殿の前には、右に雅顕、左に晴継が座っている。あの場で、怨霊に倒されなかった雅顕は特別な加護を持っているとかで。晴継は、呪力を持って帝をお守りするため。こうして侍ることで、帝をお守りするんだってさ。
まあ現実的に、誰かお世話する者がいなければ、帝なんて自分の帯一つ結べないのが普通だから、雅顕が侍るのは当然なんだけど。
「どうした、成海」
「いえ。お勤めご苦労さまです」
それだけ言って、おじゃる麻呂とともに場を退く。
うん。ホント、「お疲れ様です」。
「まったく。殿上人が誰もおられぬなど……」
コキコキと肩を鳴らしながら、おじゃる麻呂が言う。誰もいない清涼殿。帝がお籠りあそばしてる以上、朝議もなにもままならないのだから、殿上人も参内しない。
「関白さままでおられぬとなると……。この先どうなるのでおじゃるかのう」
朝議ができなくても、せめて梅壺、関白の控え所で政の相談でもできれば、あるいは。けど、主催となる関白が屋敷から出てこられないでは、どちらの機能も停止状態。
おじゃるは、その先行きの不透明さを案じてるみたいだけど――、意外にコイツって、真面目なんだな。「おじゃる、おじゃるのおじゃる麻呂」程度の認識だったけど、ちょっとだけ見直した。
「仕事が減るのは楽でおじゃるが」
あ、訂正。そこまで真面目じゃねえや、コイツ。
「蔵人どの」
ちょうどオレたちが、廂の間にでたタイミングで声がかかる。声をかけたのは、庭に立つ若い雑色。――雑色。
「主が、相談したきことがあるとのことで。今からでもこちらに起こし願えぬかと」
「なんじゃなんじゃなんじゃ。滝口の武士ふぜいが、蔵人を呼びつけるのかの?」
何故か、呼ばれたオレではなく、おじゃるが前に出る。
「申し訳ございませぬ、蔵人どの。しかし、今はこちらに参ることができませぬゆえ……」
恐縮した雑色が、地面に膝をつく。膝を……ついちゃったんだよ。頭まで垂れてさ。
「まったく。雑色ふぜいがこの清涼殿まで来るとは。それも滝口武者の雑色ごときが」
あー、おじゃる。それぐらいにしておけ。頼むから。
「お主は、若いから道理というものがわかっておらぬのかもしれぬがな。ここはこの国で一番尊いお方のおわす場でおじゃるぞ。そなたごときが近づいてよい場所ではないのじゃ」
「申し訳ございませぬ、極臈どの。次からは気をつけまする」
あー、二度も「申し訳ございませぬ」って言わせちゃったよ。
思わず、天を仰いでペチンと額を叩く。
「しかし、お主、どこかで見たことがあるような……、ハテ」
雑色の顔をよく見ようと、おじゃるがカクンと顔を傾ける。
「見目好い顔となりをしておじゃるが……」
「ととと、とりあえず、忠高が呼んでるんだな? よしよし、行こう!! 行きませう!!」
恐縮する雑色を立ち上がらせ、その背を押しながら歩いていく。これ以上、膝をつかせるのはさすがに、さすがに、さすがにぃぃっ!!
「――フフッ。いや、なかなかに面白かった」
押した背中が笑いで震えた。
「人は、その人柄ではなく、位によって頭を垂れるのだな。衣一つ変えただけでこんな結果になるとは。勉強になった」
「アイツは特別なんですよ。おじゃるおじゃるでずっと糸目だから、よく見えてなかっただけです」
自分が頭を垂れさせた、忠高の使いの雑色だと思っていた相手が、実は帝でしたー!! って知ったら、あのおじゃる、泡でも吹いてぶっ倒れるんじゃね? 帝に忠義を尽くしてるつもりで、その実、帝に膝をつかせたんだもんなあ。それも地面に。武士なら切腹かましそうなぐらいの大失態。
向かう先は、滝口の武士の詰め所。その予め用意してもらった曹司の前で、忠高が直立不動で待ち構えていた。自分の使いの雑色――という体で、帝を送り出したせいか、その顔は無駄に汗をかき、口はグッと真一文字に引き結ばれてる。
「お帰りまさいませ、は、隼男……どの」
「“どの”はやめてくれ、ご主人さま」
「はっ、しかし……」
「ここでは隼男と呼びつけにせよ。命令だ」
「――かしこまり……ました」
おーおー。忠義と秩序と命令のなかで葛藤してるのがよくわかる。
忠高、オレのことも「成海どの」って呼ぶぐらいの堅物ぶりだもんなあ。いくら帝が「隼男」と名乗って「雑色扱いしろ」って命じたって、そう簡単に受け入れられねえよなあ。
当の本人、帝は、「雑色、隼男」を楽しんでるみたいだけど。気軽に動けるのが良いと、絶賛満喫中。忠高付きの雑色として、あっちこっちを走り回ってる。
将軍様が、「貧乏旗本の三男坊」とか言ってめ組に出入りしてたのを許してた大岡越前とかって、すっげえ豪胆な人だったんだなって今なら思う。
「さて、成海。報告を」
曹司に入って戸を閉めてしまえば、雑色隼男は、帝に戻る。用意されてた円座に座るは帝。手間で頭を垂れるのはオレ。忠高は曹司の前で見張り役。
「清涼殿でのことはつつがなく。中将どのと陰陽師が上手く取り計らっております」
「うむ。あの者には迷惑をかけたがな」
「大丈夫かと思います。あの者は、明法家、しがない検非違使ですが、いつかは、この都に並ぶ者のいないぐらい立派な男になるのが夢だと申しておりましたので」
「なるほど。なら“帝”は適任だな」
「はい。影武者とはいえ、さぞ喜んでおりましょう」
なんたって、帝しか入れない夜の御殿に押し込められて、帝の代役を勤めさせられてるだから。
帝に一番近い背格好で、信用の置けそうななヤツって言ったら、アイツ、史人しかいなかった。最初はオレにふられそうになった役回りだったんだけど、オレはおじゃるに顔を知られてるし、何かあった時自由に動きたいからと、役目をアイツに押し付けた。
「それと、これを。彩子から預かってまいりました」
懐から取り出したのは、一通の文。
「これが女御さまの元へ届けられたのだそうです。帝からの文として」
「余からの?」
「はい。それで、女御さまは矢も盾もたまらず、雷の鳴るなか、麗景殿へと向かわれたと」
雷嫌いの彩子。「あの時はすっごく怖かったんだからね!!」と言っていた。
けど、そういう非常事態じゃなければ、帝と女御が逢瀬を重ねるのは難しい。なら、恋愛応援隊としては、ついて行くしかない。そう覚悟を決めたとも。
「余は、このような文、贈っておらぬ」
まあ、そうでしょうよ。
あそこまで嫌ってるような演技をしていた帝が女御に文を贈るだなんて、よっぽどのことでもない限りやらねえだろうし。
帝とオレの間に広げられた文。
麗しき 景慕なる花 殿にて 未だ咲かぬを 待つとし吾は
(麗しく、恋い慕う花が、殿中にある。未だに咲いてない花が咲くのを私は待っている)
一見、なんのこっちゃ? な和歌だけど、これも折句。
麗しき
景慕なる花
殿にて
未だ咲かぬを
待つとし吾は
つまり、「麗、景、殿、未、待」
「麗景殿で未の刻に待つ」
あの雷が鳴り出していたのは未の刻。雷で、宮中がてんわんやしてる間になら、コッソリ逢えるかもしれない。そう女御も思ったんだろう。それも「待つ」と言われたのは、誰もいない麗景殿。あそこでなら、あそこでならきっと――。
女御さまの一途な想いがもてあそばれたんだと思うと、騙したヤツがすっげえ憎たらしい。一応、オレも恋愛応援隊の一員だし。
「あの麗景殿に呼び寄せたのは、火事を起こし、女御さまを儚くするためだったかと」
雷の日に凧を揚げておく。
まるでベンジャミン・フランクリンの雷実験。いくつも揚げたのは、不気味に見えるようにするためか、それともどれかに確実に雷を落とすためか。
いづれにせよ、塗籠にまで誘い出し閉じ込めたんだから、これは実験じゃなく故意ある殺人。この世界に雷の原理は知られてないし、承香殿にいるはずの女御が麗景殿で亡くなったら、誰もが「麗景殿の女御の祟り」として怯えるだろう。そして、「麗景殿の女御」は犯人死亡のため、検挙されずに終了。
邪魔をするな――。
そういう意味なら、彩子に贈ってきた和歌だけで充分だ。
そもそも邪魔も何もする気はなかったし、相手が関白とわかれば尚更手を出すつもりも邪魔をするつもりもなかった。
こっちはこっちで好きにやる。だが、こうして手を出してきた、それも洒落にならないことをやってきた。だったら、こっちも仕掛けてやるぜ……って思ってたんだけど。
「関白が体調を崩しているという話はご存知でしょうか。あの雷の日以来、ずっと屋敷に籠られているとか」
その敵、転生者だと思われる関白が倒れた。
「うむ。それは知っておる。なんでも麗景殿の女御、自分の娘の祟りにあったとか」
おじゃるが聞いたら、「た~た~り~じゃ~」ってまた騒ぎ出しそうなネタだな。
「祟りはさておき、病に伏しているのは本当だ。息子の右近少将が、自ら薬を進ぜておるらしい」
「右近少将が?」
「自ら探し出した妙薬なのだと。親孝行者よとの噂だ」
親孝行者――ね。
病に倒れた(?)父親を案じて薬を探し求めた。
これだけ聞けば、そういう話にもなるが。
「成海。“鴆毒”というのを知っておるか?」
「チンドク?」
当然知らない。
「遠く南方に暮らす鳥でな、その羽根には猛毒を有するのだという」
「羽根?」
「その毒は扱いさえ正しく行えば、鴆酒という養命の酒となるらしい」
毒にも薬にもなる鳥の羽根。羽根――。
なぜか、背中がゾクリと震えた。