(一)
麗景殿は燃え尽きた。
真っ白にではなく、黒く焼け焦げ、煤けた残骸となって燃え落ちた。
麗景殿は、誰の居にもなっておらず、死人が出なかったことは幸いなんだが――。
「祟りじゃ、亡き麗景殿の女御の祟りじゃ!!」
誰もがそう噂した。
雷が落ちる前、麗景殿の上をフラフラうごめく不気味な白いものを見たという目撃情報もいくつかあって、それが「麗景殿女御祟り説」に拍車をかけた。
「祟じゃ、祟じゃ。ワレが倒れたのもすべて祟りのせいじゃ」
そう言い出したのはおじゃる麻呂。くり返し、「た~た~り~じゃ~」と叫び続けるヤツは、ちとうるさい。
そのうち、おじゃる麻呂じゃねえけど、この怪異の理由を突き止めようとするバカも現れ始めた。
その結果、陰陽寮が出した見解は「いつまでも承香殿の女御を内裏に留め置いていることに、亡き麗景殿の女御が怒っておられる」、「承香殿の女御を里下がりさせれば、その怒りも鎮められよう」ってヤツだった。
いつまでも、麗景殿殺しの承香殿の女御を置いていたことが悪い。怒りを鎮めるためにも、承香殿の女御はその兄、頭中将の屋敷に引き取ってもらえ。
この命令は、帝がみずから発した。
愛する麗景殿の女御の怒るさまを見たくない。自分も潔斎し、身を清めることで彼女の怒りを鎮めたいと言い出した。
――体の良い追放。
――承香殿の女御は二度と戻ってこられないのではないか。
――もともと嫌われていたのだから、戻ってこなくても問題ないだろう。
――これで先の関白家の失地回復は不可能となったな。
――潔斎が終われば、帝は誰はばかることなく、藤壺の女御さまを寵愛されるだろう。
――麗景殿の女御の霊も、妹御が寵愛されることを反対なさったりしないだろう。
――これからは、今関白さまの御世だな。
* * * *
「なぁに、バカ言ってんのよ、あいつら」
彩子がプウッと頬を膨らませた。
「ところがぎっちょん!! って言葉を知らないのかしらねえ」
いつものようにいつもの承香殿の東の廂。
噂に対する彩子の言葉は容赦がない。
「こらこら、本当のことは言えないんだから、文句はそれぐらいにしておけ」
「あっ、そうよね。本当は女御さまと帝はすっごく“らぶらぶ”で、今も清涼殿でお二人“いちゃいちゃ”なさってるなんて、言っちゃダメよね」
「そうだぞ。こんな所、誰も居ないからって、秘密をペラペラ喋っちゃダメだ」
一応の釘刺し。
今だって、ここに彩子がいるのは、里下がりした承香殿の女御の品を取りに来たからって体なんだから。
「にしても、うまいこと考えたわよね~。火事のドサクサに紛れて、ちゃっかり女御さまを清涼殿に連れて行かれるんだもん」
「こら、彩子」
「いいじゃない。どうせここには兄さまとわたししかいないんだし。少しぐらい喋らせて。でないと、わたし、秘密を抱えすぎて、体が爆発しちゃう」
「仕方ないなあ……」
軽くため息を洩らしてあたりを見回す。
「――少しだけだぞ?」
秘密を抱えすぎて体爆発なんて起き得ないけど、言いたいのを堪えてた口が、ボンッと爆発することはあり得る。
「だってさあ、女御さまも帝も、今までの態度は何だったの~ってぐらいのイチャつきっぷりなんだもん。そばにいるこっちが恥ずかしくって、居場所なくなるっての」
「まあ、今まで堪えてたものが爆発しちゃったんだろう、あれは」
ずっと愛し合ってたのに、手を取り合うことすらしなかった二人。
それが堂々と(?)人目を忍んで遭うことが出来るようになったのだから、イチャつきだって全開になる。
「あの熱愛ぶりだと、懐妊する日も近いんじゃないのか? というか、そういう兆しはないのか?」
「そうねえ。あの事件以来、女御さまの月の物が遅れていらっしゃるような気はするけど……」
「こら、彩子。そういうことをあけすけに話すな。いくら兄ちゃんでもそれは恥ずかしい。これでも一応男だぞ?」
「あら、そうなの? 月の物とかそういう話は男性にしちゃいけないの?」
「ダメ。ドン引き対象」
「ふうん。懐妊だ、皇子を産みまいらせよとかうるさいくせに、そういうとこには顔をしかめちゃうんだ」
彩子が呆れた。
「月の物はともかく、最近は食欲もないみたいで、食事をあまり召し上がらないのよ。お体を動かすのも大儀そうで。少し熱っぽいらしいの」
「それってやっぱり懐妊なさってるんじゃあ……」
生理の遅れ。食欲減少。微熱。体のだるさ。
どれも妊娠初期の症状。
「やっぱりそうなのかしら? 兄さま」
「医師に診てもらわないとなんともだけど……。多分、おそらくは」
このまま月の物が訪れず、次第に腹が膨れてくればそうだと素人目にも判じる事もできるけど、それまでは医者じゃないから無理。
「とりあえず、女御さまの体を冷やさないように、温めて差し上げろ。体を冷やすと子が流れることもあるからな。あと、匂いの少ない食べ物とか、酸っぱいものなら意外と大丈夫だったりするから、そういうのをご用意して差し上げろ」
「兄さま、やけに妊婦の取り扱いに詳しいのね。……まさか、そういうお相手がすでにいるとか?」
ズイッと身を乗り出す彩子。
「一般論だ、一般論!! 暖かくすごす、酸っぱいものは一般論!! オレにそういう相手はいねえよ!!」
悲しいことに、そういう仲になって、そういう結果になった相手はいない。家と内裏を往復する(ついでに彩子の様子も見る)だけの生活。言葉にするとさらに悲しくなった。シクシク。
「そうよね。兄さまとそんな理無い仲になってくれる奇特な女性はいないわよね」
どこかホッとシたような彩子。
でも、彩子さん。自分で言っても悲しくなってきたのに、追い打ちはやめて。兄ちゃん、涙出ちゃう。だって男の子だもん。
「好いてくれる女性もいない兄さまには、かわいい妹が看護にあたってあげるわ。腕、出して」
腕?
「うわっ!! 彩子っ!?」
「ほら、やっぱり。兄さま、火傷してる」
カビ色直衣の袖からニョッキリとむき出しにされたオレの腕。ところどころにある赤い痕。あの麗景殿でこしらえた、火傷の痕。
あの時は、無我夢中で気づかなかったけど、平常に戻ると少し痛い。
「ほら、ジッとして。手当してあげるから」
懐から薬の入った貝殻を取り出した彩子。
「こんなの手当するまでもねえよ」
「ダーメ。せっかく用意したんだら、ちゃんと使うの」
貝殻の中身は半透明の塗り薬。油薬だろう。塗られた後は、少しベタッとする。
「兄さま、自分のことには、無頓着なんだから。わたしには直衣をかけてくれる気をつけてくれるのに」
「だって、彩子は女だろ? お前に火傷の痕なんて残ったら、それでなくても遅れそうな婚期が、さらに遅れてしまう。永遠に訪れなくなったらどうするん――イッ!!」
「うるさい、兄さま」
少しだけ力強く彩子が薬を塗って反撃。
「わたしはね、ちゃんと素敵な公達と恋に落ちる予定があるから大丈夫なの」
腕だけを凝視して薬を塗り続ける彩子。右腕が終わったら左腕。塗り残しがないか、丹念に確認する。
「素敵な公達と、後世に語り継がれるぐらいの大恋愛の末に結ばれるのよ。その公達は身分の差なんてものともせず、わたしを愛してくださるの。他の女人になんて目もくれなくて、一途に愛してくださるのよ。そして、愛する彩子の一族だからって、兄さまの地位を引き上げてくださって、父さまも安心して大喜び。尾張で、どんちゃん騒ぎの大宴会を開いちゃうん、だ、からっ。め、めでたし、めで、た、しっって――」
「彩子?」
オレの腕を掴んでうつむいたままの彩子。その手が止まり、かわりにポタッと落ちた雫が腕を濡らす。
「せっ、かくだ、っから、にぃ、さまのっ、いい人も、用意っ、してもら、おっかし、らっ……」
嗚咽混じりの言葉は要領を得ない。けど。
「――ありがとな」
震える彩子の肩をグッと抱き寄せる。彩子の我慢できなくなった涙がオレの直衣に染み込んでいく。
「にいっ、さまっ……」
顔をクシャクシャにして泣く彩子。
(彩子を泣かせたこと。死ぬほど後悔させてやる)
目の前に広がる庭を見据え、肩を抱きしめた手にグッと力を込める。