(三)
「ダメよ、ダメ。ダメったらダメなの」
彩子のこぼした言葉。
艶ごとの「アッ、ダメ、ダメェ♡」ではない。ただの否定語の羅列。ダメ出し。
「あんなの、ぜんっぜんダメ。ダメダメダメダメダメダメ、ダーメダメ」
いや、そこまで強調否定のダメ押ししなくても。せっかく兄ちゃんがきばってお膳立てしてやったんだから。あんな場で「承香殿、どうでしょう」を提案するのって、それなりの覚悟がいるんだぞ? 六位ふぜいが何言ってんだって、お咎めを受けることだってあるんだし。
「だってさ、兄さま。女御さまも主上も、ひとっことも喋んないんだもん。あんなの、脈ナシ。ナシ。ありえないわよ」
「でも、ご一緒におられたんだろう?」
言いながら、皮を剥く。
今日は、桃。
大和からではなく、ちょっと近場、山科からのお取り寄せ。桃は瓜より剥きやすい。
「一緒にはいたわよ。一緒には」
文句を吐き出し、桃を食す。彩子の定番。
「でもね、御簾越しにジッと見ているだけなんだもの。何も喋らないし。動かないし。それをキッカリ一刻よ? そばにいるこっちがどうにかなりそうだったわよ。雅顕さまも、サッサとどこかへ行かれるしさ。わたしも逃げ出したかったわよ、あの空気」
「そ、それは……。ご苦労さまだったな」
瞬殺「ダメだコリャ」な空気の中に座っているのは、かなりの苦行だっただろう。雅顕はとっとと逃げおおせたみたいだけど、女房という立場にある彩子ではそうもいかない。女房ナシの女御なんてありえないからなあ。
「まあ、これでも食って機嫌を治せ」
兄ちゃんが手ずから桃を剥いてやったぞ。ちゃんと種も取った。
今日の愚痴聞き係は、桃剥き係も兼任してるぞ。
「ホント、あんなの何しに来たのよって訊きたくなるわよ」
そーか、そーか。
でも訊いちゃダメだぞ。仮にも相手は帝だからな。おいそれと口をきいていい相手じゃないからな。
「いっそのこと、ニラメッコでも始めたらいいのにって思ったわ」
ニラメッコしましょ。笑うと負けよ、アップップ。
「――彩子、いくらなんでもその顔はヤメロ。一応、ここも宮中だし。誰が見てるかわかんないぞ」
プクッとふくれた頬を両手でモニュモニュ、ヘン顔する彩子をたしなめる。潰れたぶちゅくれお口は、まさしく「ヒョットコ」。
「ヘン?」
「ヘン」
オウム返しの即答。十人並、凡人容姿が百人並のブッサイクになるからやめとけ。
「それに、せっかくの袿に桃汁がつく」
桃汁は洗ってもとれないんだから、気をつけろ。その袿は尾張の親父どのが、「彩子の出仕のため!!」と意気込んで作らせた一品だからな。桃汁で汚しちゃいましたー、じゃあ、父ちゃん情けなくて涙出てくるぞ。
「こんな顔してみせるのは、兄さまだけよ」
「うん。そうしておけ」
桃汁が垂れるより早く、口に放り込まれた実。うーん。汚れる間もないな。素早い。父ちゃん喜んじゃう。
「それにさあ、お帰りになられた後に送られた歌。後朝の歌っての? あれもメチャクチャ遅く届いたし。午の刻よ!! 午の刻!! 信じられない遅さじゃない? 清涼殿からここまでどれだけかかるっていうのよ!! 会ってから丸一日経ってからの後朝って信じられない遅さじゃないのよ」
「うん、まあ……そうだな」
後朝の文。
夜遅くに男女が逢って、イヤンアハンした後に、男の方から届けられる文。明け方、夜明け前に別れた後、速攻で贈るのが最上とされ、和歌はもちろんのこと、添えられる花、選ばれた紙の質で、どれだけ男が女性を大事に思っているかが推し量られる。
なので、翌日の昼に届けられるなんて論外中の論外。速さと愛は等しいのだから、それだけ遅いってことは、帝はこれっぽっちも承香殿の女御さまを愛していらっしゃらないってことになる。
もしかして、これって、オレがお叱り受ける展開?
承香殿、いかがっすか~ってオススメしたのはオレだし。
「でね、贈られてきた歌も、なんていうか、『最低!!』なのよ、さ、い、て、い!!」
彩子が桃以外のことで頬を膨らませた。
「そりゃあ、女御さまを寵愛されてないのは知ってるわよ。昨夜訪れたのだって、『義理!!』『仕方なく!!』なんでしょうよ。ひとっことも喋らないんだもん。御簾だって、ペランとかしなかったし」
そんな暖簾をくぐるように御簾をくぐられても。
彩子の仕草に笑いそうになる。
「でも。でもさ。あの和歌はないわよ。女御さまだって、絶句なさってらしたし」
「でも女御さまって、滅多に喋らないんじゃないのか?」
それで「絶句」と言われても。
「顔がね、目を真ん丸にして、文を持つ手が震えていらっしゃったの。喋らなくても、衝撃を受けていらっしゃることぐらいわかるわよ」
なるほど。
目は口ほどに物を言う。言葉に出さなくても、その表情、しぐさで推測することはできる。
「よっぽど腹に据えかねたのかしらね~。女御さまも、これまたすごい歌をお詠みになったのよ」
「へえ~」
彩子がお喋りに夢中になってる隙にオレも桃を食す。あ、甘くて旨い。また今度もお取り寄せしよ。
「で、どんな和歌をお詠みになったんだ?」
興味がある……というか、興味がある。
衝撃の和歌ってどんなんだ? 普通の後朝の歌って言ったら、「うっとり」「切ない」が冠詞に持ってこられるはずだけど。
「えーっとね。主上からいただいたものは、『青雲の 出づる山の辺 雫にぞ 照る日注ぎて 瑠璃となりぬる』よ」
青雲の 出づる山の辺 雫にぞ 照る日注ぎて 瑠璃となりぬる
(青い雲の沸き立つような山にある雫にこそ、日の光は注いで、雫は瑠璃のように光る)
「――か、変わった歌だな」
「でしょ?」
変わった――どころではない。すっごくヘンな歌。
帝が贈られた歌の意味。
「青雲の」は「出づる」にかかる枕詞だから放っといたとして。その続き、「山の辺 雫」。
山は時として「霊界、冥界、死後の世界」の比喩としても使われる。「死後の世界」と解釈すると、そこにある雫とは「霊魂」となる。「照る日」は太陽なのだから、帝の意味にもなり、それが「霊魂」に注がれて、「瑠璃」のような宝石になるとしたら――。
帝は、亡くなられた麗景殿の女御を、女御だけを愛しているということ――か?
和歌ってのは、いくらでも何通りにでも解釈できる仕組みを持っている。詠み手の思いがそのまま伝わることもあれば、まったく通じてない、残念!! なんてこともよくある。
けど、これは……、これはさすがに……。
「で? 女御さまはなんて返したんだ?」
この和歌をどう捉えたんだ? 目を真ん丸、体が震えてたってのなら、その歌の意図は理解しているような気がするけど。
「『我が背子に 絶えぬ言の葉 葛の葉に 印して告らむ 百重二十重に』よ」
我が背子に 絶えぬ言の葉 葛の葉に 印して告らむ 百重二十重に
(わたくしの夫に、絶えることのない言葉、思いを葛の木の葉に印して伝えましょう。何度でも)
「な、なかなか個性的で情熱的な歌だな、こ、これは……」
他に評価のしようがない。
「でしょ? 兄さまもそう思う?」
オレの同意が得られて安心したのか。再び桃を食し始めた彩子。
「『我が背子』とか古くっさい表現しちゃってさあ。その上、葛の葉よ!! 葛の葉!! そこに記すだなんて、どれだけネットリ思ってるのよって言いたくなっちゃう」
アナタが亡き麗景殿を想い慕っていたとしても、わたくし、待つわ。いつまでも待つわ――みたいな。
「葛の葉」は「うら」を引き出す枕詞。「うら」はそのまま「恨み」にもなる。
――余が愛しているのは、お前が殺した麗景殿の女御だけだ!!
――わたくし、アナタをずうっとお慕い申し上げておりますのよ? 愛が恨みに変わろうとも。フフフ……。
あ、ちょっと怖い。いや、かなり怖い。
思わずゾクッと背筋が震えた。初夏なのに、腕をさすりたくなるゾクッ。
けど。
「なあ、彩子。筆と硯、あるか?」
できれば紙も。