(四)
襲芳舎。またの名を雷鳴壺。
内裏の中には、「◯壺」と呼ばれる建物が五つある。藤壷、梅壺、梨壺、桐壷、そして雷鳴壺。
藤壷や梅壺は女御の部屋に、梨壺は東宮の居に、桐壷は身分の低い更衣がギュー詰めにされることが多い。(現在の梅壺は関白の控え所になってる) 内裏の北西、梅壺の隣にあって、まあまあ清涼殿からも近いのに、誰も暮らしていない雷鳴壺。
その理由は簡単。
雷鳴壺は雷が鳴ってる時、帝が避難する場所だから。
避雷針ならぬ避雷所。
藤壷には藤の木、梨壺には梨の木みたいに、それぞれの壺の名前に由来する木が生えているけど、雷鳴壺には、なんと霹靂の木。かつてその木に雷が落ちたとかで、焦げたまま、棒のようになった奇っ怪な木が立っている。――避雷針代わり?
(確かに、これは一雨きそうだもんなあ)
おじゃる麻呂に従って雷鳴壺に向かう途中、空を見上げる。
彩子のいる承香殿に行った時はまだ青空が見えてクソ暑かったのに、今はドンヨリと雲が垂れ込めて、涼しいっていうか冷たい風が吹き寄せる。こんだけ分厚く暗い雲を見たら、「雨のち一時雷が鳴るでしょう」ぐらいの予報は、オレにだってできる。
ゴロ、ゴロゴロゴロ……。
(あ、遠雷)
光は見えなくても音は届く。
「尾張!! 早うせい!!」
前を行くおじゃる麻呂が甲高い声を上げる。特別オレの歩みが遅いわけじゃねえんだけど――って、もしかして雷が怖いのか? おじゃる麻呂。
だから、急いで雷鳴壺に向かう。あそこにいれば安心。だって。
壺を取り巻くように揃い始めた武士の姿。背には胡簶、手には弓。矢を射ることはないけど、矢を射るように弓弦を鳴らす。
「火、危うし!!」
鳴弦の儀といって、これで雷を避けるんだってさ。オレからしたら、そんな雨に濡れるようなとこに突っ立ってないで、サッサと屋根の下に入れよ、あぶねえな……なんだけどな。これが滝口の武士の勤めだと言われたら、「そうか、頑張れ」しかない。
雷鳴壺に入る直前、他の武士と同じように弓を携えた忠高と会う。互いに声をかけることもない。ただ、あちらから軽く一礼されたので、こちらも会釈で返す。
物の怪とかじゃない、雷相手だからだろう。今日の忠高は、「ザ・もののふ!!」っかんじの、堂々とした武者になっていた。怯えた様子はどこにも見られない。
「尾張!! 早うせぬか!!」
あー、キーキーうるせえなあ麻呂。
仕方ないので、そのままついて行く。
「成海、来たか」
先に雷鳴壺に着いていたのは、帝と雅顕だった。帝の周りに侍るのは、なにもオレたち蔵人だけじゃない。蔵人頭でもある雅顕のほか、ナンチャラの少将とか大将とか、そういうのが侍ることもある。今日は雅顕だったみたいだけど。
オレが着いた時は、ちょうど帝と雅顕が雷鳴壺の最奥、塗籠に入ってくところだった。
「では、頼むよ」
軽く言って、先に入っていった帝の後を追う。オレたちはその塗籠までついて行くことは出来ない。塗籠のなかで帝の御身を守るのは雅顕の役目。オレたちは、その外の間で座して守るというか、雷が止むのを待つことになる。
五位蔵人や他の六位蔵人、数人でその場に座るんだけど……。
(おじゃる、お前……)
ハアーッとため息つきたくなるぐらい、挙動不審なおじゃる麻呂。ソワソワ? フワフワ? キョロキョロ? キョドキョド? 腰が落ち着かない。右見て左見て、またせわしなく右見て左見て。ちょっとでも「ゴロ……」って聞こえただけで「ヒッ」と喉を鳴らす。――女子かよ。
「尾張、そなた、何を笑っておるでおじゃるか」
そのくせ上から威張り散らす。声はキンキンの金切り声だってのにさ。
「さては、お主、鳴神を避ける呪言でも知っておるな?」
へ? なぜそういう思考になるんだ?
「知っておるなら、ワシにも教えよ!!」
「ぐ、グエッ!! わかった、わかりましたから、首、絞めないで……!! グエェェ……」
直衣を掴み上げられ、かなり苦しい。
どんだけ怖いんだよ、雷。
そりゃ、なんにもない野っ原にでもいたら怖いけどさ、そうじゃなきゃちょっと屋根の下にもぐりこんで、そのままやり過ごしたらいいだけじゃん。
「雷除けはですね、『くわばら、くわばら』と唱えるんです。昔、桑原って地を収めていたのが雷さまですからね。自分の地には雷を落とさない。だから『ここは桑原です、落とさないでね』っていう意味で唱えるんで――」
「くわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばら……」
いや、どんな勢いで唱えるんだよおじゃる。句読点、つけられねえ。
「くわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばら……」、「くわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばら……」、「くわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばらくわばら……」
って、おじゃるだけじゃないんかーい!!
見れば近くの蔵人たちまでブツブツとつぶやき始めてた。
「くわばらくわばらくわばらくわばらくわくわばらくわばらばらくわばらばばらくくくわらばら……」
カエルの輪唱? 蝉の合唱? もうわけわかんねえ。「くわばら」のゲシュタルト崩壊。
あー、うるせえ。耳がどうにかなって、頭おかしくなりそう。
ゴソリと懐から畳紙を取り出す。使うのは一枚だけ。それで、そっと空気を包むようにして、絞り口の部分をシッカリ握る。簡易紙袋。
それを呪文というか、壊れたラジオのようなおじゃるの耳元まで持っていき――。
パァンッ!!
思いっきり叩く!!
「あ、う……、へ……」
あ、気絶。目を回し、口をパクパクさせながら、ひっくり返ったおじゃる麻呂。驚かしすぎたか?
でも、おかげで静かになった――って。
「うわっ!!」
見れば、他の蔵人もおじゃる同様、ひっくり返ってる。
そんなに怖いのか? この紙袋ドッキリ。
手に残った破れ畳紙を見る。これ、みんなが目を覚ます前に、証拠隠滅しておこ。
「何事だ?」
塗籠の中からの問いかけ。あちらにも音は伝わっていたらしい。
「いえ、なんでもありません。鳴神の音に、みなが驚いただけです」
そういうことにしておく。
外はかなり暗くなって、昼間だというのに、灯りがほしいくらいになってきている。当然、雷鳴も絶え間なく鳴り響くようになってきていて、もうすぐこのあたりでもピッシャンゴロゴロするんだなって気配を漂わせている。雨はまだ降り始めてないけど、そのうち、土砂降りになる。忠高たちが風邪ひかないか心配になるぐらいに。
(彩子、大丈夫かな)
さっき別れたばかりだけど、それでも気にはなる。だって。
(アイツ、雷、苦手だもんな)
鬼でも物の怪でも虫でもなんでもどんと来いの彩子さまだけど、一つだけどうにもならない弱点がある。それが「雷」。
おじゃるほどビビったりはしないけど、それでも、真っ先に建物の奥に逃げ込んだりする程度には苦手。小さい頃は「兄さま、だいじょうぶだよね?」とか言って、人の袖を掴んで離さないぐらい怯えていた。(あの頃はかわいく慕ってくれてたなあ……なんて感慨つき)
「うわっ」
一瞬明るくなった室。わずかな間を置いてのバリバリドーン。さっきまではピカッと光ってもそこまでの音はしなかったんだけど。
(八……か。近いな)
前世知識から雷の距離を無意識に計測。
光の伝わる速度、三十万キロメートル。光ったと同時に伝達。音の伝わる速度、一秒で三百四十メートル。発生から到達するまで、光と音では時間に差がある。
なので、その差を利用して光った(雷の落ちた)場所を計測。
三百四十メートル×八……、ええい、めんどくさい。
340×8=2720メートル、約2.5キロ。まあまあ近い。地面から響くものもあったし。大内裏のどっかぐらいには落ちたかな。それか鴨川とか堀川。雷は水にも吸い寄せられる。
(アイツも、数えてるのかな)
雷の「ゴロ」が聞こえたら、次はどこに落ちても不思議はない。音を聞いた自分のすぐそばに落ちてもおかしくない。だから、「ゴロ」を聞いたら早急に屋根の下、安全な所に避難せよ。
そうは言うけど、逃げたとしても、はやり雷が近いのかどうかは気になる。
幼い彩子に、「いっぱい数が数えられたら安心」と教えてやった。いっぱい数えられたらその分だけ雷は遠くで鳴ってる。彩子のもとにはやってこない。そう教えてやった。
「くわばら」なんて唱えてるぐらいなら、「雷、遠くなった!!」って喜んでる方がいくらかマシ。建設的。
「――成海」
少しだけ塗籠の戸が開く。
「承香殿に行ってもいいぞ」
へ?
「彩子どののことが気になるのではないか?」
なぜ、そのことを?
隙間からのぞく雅顕の顔がニッと笑った。
「ここは問題ないから、あちらの様子を見てきてくれないか」
「え、あ、はい」
それは願ったり叶ったりなんだけど。
「ところで、どうして蔵人たちは転がってるんだい?」
え? あ、えーっと、それはあ……。
「雷にヘソを取られまいと、みな体を丸めて守っているのです」